第16話 釣りの話

 海に来たのだった。

 大きな理由はない。新車を乗り回してたら、いつの間にかついたというだけ。

 道の橋に車を止めた。ドアを開ける。降りる。

 これも大きな理由はない。

 階段を下る。磯に降りる。

 岩場。

 不安定。

 打ち寄せる波の音が、どこか懐かしい。

 ───来たことがある。

 釣りに───来たのだ。

 満潮時にやってきて帰れなくなったらしい、水溜まりで生き絶えかけた河豚。渇いたイソギンチャク。ひっくり返ったカニ。食いちぎられた右腕。張り付いている海藻。空の貝殻。鳥の群がるは釣り人の捨てていった魚たちの死骸。同じく釣り人の放棄した餌のエビや撒き餌が甘ったるい腐敗を纏う。濃密な死の薫り。水中は命に溢れていても、地上は地獄の様相を呈している。

 死出の磯には先客がいた。

 緑色の彼は釣糸を垂らしている。

 岩に腰掛け、じっと水面を眺めながら。

「釣れてますか」

「全然」

 髭が震えた。その下の口から発せられた声は、なんだかどこか遠くから聞こえるようだった。

「釣りって」

 なんとなく。話したくなった。

「昔好きだったんですよね、私」

 ───懐かしい。

 昔は好きだった。祖父に連れられて、よく。磯で釣り、港で釣り、島でも釣った。船を眺めながら釣るのも、悪い足場を乗り越えながら釣り場へ行くのも、楽しかった。多く釣れたら嬉しかった。何も釣れずとも、海を眺めるだけで。

 昔の───話だ。

 今は違う。

「いつからかなぁ。なんだか怖くなって」

 釣った魚を針から外すときに、ピチピチ動く体を掴んだ。

 生きてるなぁ。

 そう感じたのだった。

 以来、怖くなった。

 命を奪うことが、ではない。

 生き物を触ることが、なんとなく。

 怖い。

 震えて、動いて、跳ねて、生きている。

 それに触れるのが。

 怖い。

 厭。

 いや───怖い、より先に、掘り下げることもできよう。

 なぜ、怖いのか。

「昔、ですよ。山の話です」

 実家に、泊まっていたのだ。

 その夜に、花火をした。楽しかったと、記憶している。

 用意された花火を全て使いきり、火も消して、玄関に戻った。

 そこにきりぎりすがいた。

 ドアを開けていたから、玄関の明かりに釣られたらしい。

 気持ち悪くて、踏みつけたのは、私だ。

 咄嗟のことで、サンダルの下で潰れた虫の感触は、何も覚えていない。

 足をあげると。

 白い、長虫みたいなのが数匹、うねうねと動いていた。

 腸だ。

 主が死んだのに、気が付かず。

 うねうねうねうね、動いている。白い、細い、みみずみたいに。

 気持ち悪いのを殺したら、もっと気持ち悪いのが出てきた。

 吐きそうに───なった。

 結局それは、父が摘まんで、捨てたのだったか。

「魚を握って、生きてるなぁと思った時、あれを思い出したんだと思う」

 この魚にも。

 青みがかった、銀色の。整然と並ぶ鱗の下で。

 うねうねと。うねうねと。蠕動する命がある。

 袋、だ。

 蠕動する虫を飼う。

 ───長虫の、袋。

 気持ち悪い。

 厭だ。

 だから───怖い。

「つまらない話でしたね。忘れてください」

「全然」

 彼はそう答えた。

「釣れてますか?」

「全然」

「本当に?」

「いあいあ」

 長くて太い緑の髭が震える。その奥の口が答えた。

 愉快な気分になった。もう少しだけ、話してみたい。

「釣りとは、なんでしょうか」

「自分探し」

「あなたは不思議と、怖くない」


 腐ったような風が吹いた。

 それが通り過ぎた後、気付くと釣り人は姿を消していた。最初からいなかったみたいに。此処にいた証拠は、ひとつしか残っていない。足元を見る。転がっている。

 彼の置いていった竿だけ持って車に戻り、そのまま帰宅した。


 あの日の竿は、今、部屋に飾っている。

 たまに磯の薫りがして、どこか安心する。

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