第9話 散歩の話
することもないので散歩をしていた。
そういう時期があった。確か、学生の頃だったと記憶している。暇潰しだ。読書にハマりだす前の頃。
部屋を出て、何処へ行くでもなくのんびり歩き回る。山の方に行ってみたり、川の脇をひたすら登ったり。見知らぬ住宅街へ入ってみたこともあるし、初めて見る公園でベンチに腰掛けてのんびりしたりする。そういうことが楽しかった。
あの日は、夕方だった。相変わらず散歩して、舗装された山道をなんとなく歩いていた。山道と言っても険しい山岳のそれではない、三百メートル程度の小山で、この先にはニュータウンがあることも知っていた。そのニュータウンを散歩しようと思ったのだ。
だが、ある程度まで行って、ふと、やけに目を引くものがあった。
それは下りの階段で、小さな隧道に繋がっていた。
真昼のことだ。太陽は頭上にあり、影は小さく、隧道の闇も薄かった。
予定を変える。隧道の先へ行ってみることにした。
やめておけばよかったのに。
隧道の中は薄暗く、壁にはやたらと落書きがされていた。グラフィティアートや他愛ない落書きの中、「✕✕、まだ愛している。✕✕✕-✕✕✕✕-✕✕✕✕」とあるのが目についた。こんなところに書いても愛する人は読まないだろうと内心小馬鹿にしつつ、歩き続けるとあっさり抜けた。隧道はかなり短いものだった。そこから林道が僅かに続いて。
寺があった。
寺───だ。と思った。
ぼおん、と。音が鳴るのが聞こえた。線香の匂いが、森林の臭気の中を貫くように漂っている。
寺。こんなものがあるとは全く想像していなかったので、かなり驚いたのを覚えている。
ただ、その寺がなんという名前だったかは、忘れてしまった。
堂が幾つもあったところを見るに、かなり大きな寺だったのだと思う。造りも立派で、時代がかった木造建築。そのうちのひとつに近付いて、覗いて見たところ、中には仏像が金色に輝き佇んでいた。
大きな寺だなぁ。
立派なもんだなぁ。
感心しながら歩き回った。他の堂には何があるのか、ひとつひとつ覗いて見た。
そうして回っているうちに、ふと気が付く。
坊主がいない。
これだけ大きな寺なのだから、管理するものもいるだろうに。坊主の一人とも会わないし、参拝客も見当たらない。
参道を曲がると、両側にまだ幾つかの堂が並んでおり、それらの奥に、本堂らしき最も大きな堂があった。ここならと覗けば、須弥壇の上で蝋燭が炎を冠していて、線香からは煙が細く立ち上っている。だがやはり、人の気配がない。
なんだかいやに、暗く思えた。
こうなってくると格調高い佇まいも、仏像の聖性も、どこか反転してくるようだ。
厭だ。
ここにいてはいけない。
ぼおん、と。音が鳴る。誰が鳴らしたのだろう。何が鳴らしたのだろう。
空は青く、日の光も燦々と照っているが、木々に遮られて涼やかで。居心地が良い。
気味は悪いが、なんだか気分が良くなって来た。
もうしばらくここにいよう。
辛かったのだ。人間関係に疲れていた。友人同士の中が険悪になっていくのが嫌だったし、他人に幻滅する自分も嫌いだった。趣味に向かっても、好きな作品が炎上していて、外野に叩かれている中、自分の気持ちを貫くのが難しくて難しくて。そんな俗世間や自分自身から離れたくて離れたくて、その為に散歩をしていたのだ。その先に此処を見つけたのだから、願ったり叶ったりで。
鳥も鳴かない。人もいない。私だけの境内だ。
永遠に、此処にいたい。
ぼおん、と。音が鳴った。
落ち着く音だなあ。
なんだかだんだん、死にたくなってきたなあ。
そこで、いや違うなと思ったのだ。
私は死にたいのではなく、ずっと此処にいたいのだ。死んでしまえば、此処に居続けることができない。居続けられたとしても、この空間にあるものを感じ取れるとは限らない。線香の匂い、木々の緑、射し込む光の穏やかさ、無為に過ぎて行く時の流れ。幽霊に現世の感覚器はないだろう。これらを感じ取れなくなっては、困る。
そこまで考えて。
恐ろしくなった。
此処にいたい。だが死にたくはない。いることと死ぬことは別義だ。なのに死にたくなっている。自分の思考が乱されているのを感じた。この場には私一人しかいない。思考を揺らがせるような他人の存在はないはずだ。なのに乱され、死が入り込んでいる。それはおかしい。異常な事態だ。誰だ。何だ? 私の頭に、死にたいと囁いたのは。
周囲は静けさに満ちている。穏やかな静けさじゃない。騒ぐものがいないだけの静。
線香の匂いが、微かに、けれど確かに、強くなっていた。
去った方がいい。と、心が告げた。
この寺は、ずっといたい場所じゃなくなったから。
本殿に背を向け、参道を歩く。
隧道に向かおうとする。
そんな私にすがるように、ぼおんと音がして、消えた。
この寺がなんだったのか、私は知らない。
ただ、後に隧道を再び訪問した時、途中から天井が落ちていて塞がっていたのが印象的だった。相当前に塞がったようで、土砂は固まりきっていた。
人間関係は穏やかに壊れ、炎上も緩やかに収まり、現実も趣味もようやく落ち着きを取り戻した。
それでもたまに、散歩をしていると、ぼおんという音と共に、微かな線香の匂いを感じて、あの場所が呼んでいると、思う。
思う───だけだ。
私はまだ───死にたくないから。
ああ、また。
ぼおん、と。鐘の音が鳴っている。
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