第8話 池の話
その池にはいつも人が立っていた。
池の縁にではなく、池の中にだ。両足を水の中に突っ込んで直立する、それはまごうことなき人だった。
たぶん、女性だったと思う。髪の長いのを見て、そう思った記憶がある。
確信が持てないのは、その人の姿を、ぼんやりとしか思い出せないからだ。見上げるほどに大きかった気がするが、幼い頃の話だから、補正がかかっている可能性は強い。白い服が青空に映えていた、と思う。
夏休みに、母方の実家に行く度に、その人を探した。彼女は、池の中に立っていた。いつもぼうっと立っていた。身動きすることなく、ずっと立っていた。
話しかけることはなかったし、彼女の方もこちらを見ることはなかった。池の中に立っている彼女が見ていたのは、丘の上のお屋敷だ。じっとそちらを見つめていて、そんな彼女を、ずっと。日が昇り、正午には一度帰り、そして昼寝の時間を追えたらまた見に行く。夕飯までずっと見つめる。その繰り返し。見ているだけだ。話しかけはしなかった。それをすると全てが終わってしまう気がして怖かったから。
実家には、よくないものがいた。
頭の上半分がない黒い何かがいつも廊下を彷徨いていて。だから、あの建物は好きじゃなかった。それでも夏休みに欠かすことなく実家を訪れたのは、池のあの人がいたからだった。
どうやらその人は、他の人には見えないらしく、なのでそれを眺める自分のことを、周囲は池を観察しているのだと思ったようだったが、そう勘違いしてもらえるならそれで良かったので、誤解を解くことはなかった。
見つめていた。ずっと、見つめていた。
雨の日は傘をさして。日差しの強い日は帽子を被り。
そうしてずっと、眺めていた。
ある日、丘の上で煙が上がった。
その人はじっと、その煙を見つめていた。
なんとなく。これでお別れだと思った。
以来、私はその池に近付いていない。実家には時折行くが、池には寄らないようにしていた。
意識してのことじゃない。なんとなく、行くのを止めたのだ。
家族はそれを喜んだ。口には出さなかったが、心配していたらしかった。
その人の話をしたことは、一度もない。
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