第13話 亀の話

 ミドリガメを飼っている。

 縁日で買った亀だ。値段は五百円。お参りした神社の境内で買ったのがもう二十年近く前である。

 最初の頃は構っていたが、だんだん世話が面倒になり、いつしか玄関の隅で、水溜まりじみた水槽に入れられ放置してしまっていた。

 それでも相当な生命力を持っていたようで───ミドリガメの寿命は30年だという───まともに餌を与えられないそんな環境でも生き延びた。

 そして五年前、存在を思い出した家人が水槽を整備。浄水器に砂利、甲羅を干せるようレンガの足場まで置いて、ちゃんと世話をし始めたところ、すくすくと育ち、五百円玉みたいな大きさだったのが今では文庫本……よりは少し小さい程度まで育った。

 家人や私が近寄る度に「餌が与えられる」と勘違いして口を開けてくるほど元気だ。

 そんな様子を見ているとつい愛着も湧き、通勤時に餌をあげるようになってしまった。

 亀は私を餌だと勘違いしているようで、水槽のガラスに顔を擦り付け、届くはずもないのに噛み付いて来ようとする。私はそれを笑いながら、餌を数粒落としてやる。それでも亀は気付かないので、餌と勘違いしてる私の指を水槽に当て、本物の近くに誘導してやる。そうしてようやく、亀は本物の餌が水面に浮いてることに気付く。二個ほど口にしたらもう餌があると理解するので、後は放って家を出る。そういう朝を過ごしている。


 ある日、用事があり、夜遅くに帰った。

 家は寝静まっていて、それは亀も同じ、むしろこの亀は夕方から寝始めるので帰ってくる時には噛み付きに来ない、はずだった。

 扉を開けたとき、なんだかおかしな気がした。

 変わらない玄関。靴の数。明かり。寝静まった家。浄水器の動作音と、亀の動き回る音だけが聞こえる。

 亀の動き回る音?

 水槽に目を向けると、亀がガラスに顔を擦り付け、届くはずもないのに噛み付こうとしていた。見慣れた光景だった。噛み付こうとする先に、何もいないことを除けば。

 亀は私に目もくれず、一心不乱にそこへ噛み付いていた。

 そこに、餌があると勘違いさせるような何かがあると、思い込んで。

「ただいま」

 そう口にしてみた。

 すると、ふっと、おかしな気というやつが薄れた。同時に、亀も落ち着いた。そうして、何もなかったように甲羅に首を埋め、動かなくなった。


 たぶん、何かがいたのだと思う。

 それが何かは分からないが。亀を救いだした家人は生きているし。世話をしに『戻ってくる』ような者もいない。

 では、何がいたのだろう。


 或は、何がいるのだろう。

 亀が、何もないはずのところへ餌を貰いに行くのを、それから数度見かけた。

 見かける度に目を凝らすが、私には見えない。


 たまに、餌をやりながら、何が見える? と聞いてみる。

 亀は口を開けて、餌を食べて、そして、何も言わない。


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