第4話 夜道の話
東京に住んでしばらくした頃の話。
当時、週刊少年ジャンプを紙の雑誌で読んでいた私は、日付が代わり月曜午前0時になると部屋を出て、コンビニへ歩き、ジャンプを買ってくる、というのがひとつの習慣になっていた。
その日も同じように、日付が変わるまで適当に時間を潰し、0時丁度に部屋を出た。
晩夏の頃だと思う。東京の、まとわりつくような、ねばつくような、そんな湿気と暑さがようやく和らいで来た頃。それなのに、扉を開けた瞬間に、なんだかひどく厭な気分になった。夏という季節が首を吊って、緩んだ括約筋から漏れた汚物。そんな暑さが、周囲に満ちていた。日が暮れる前、夕食を食べに出掛けた時は涼しかったのに。何故夜になってこんなに暑いのか。疑問よりも怒りを覚えた。この中を、一分程度とはいえ歩くのは、どうにも厭に思え。けれど既にジャンプが発売されてしまっている、Twitterを開けば呪術のネタバレを見てしまいかねない。厭な暑さを耐えるのとネタバレを踏むリスクでは、前者の方が許容できる。不快な空気に耐えながら、外へ出ることを選んだ。
コンビニへの道は短い。それでも真夜中の道路は物語に溢れているのが常だ。道路を挟んで隣にある団地にはまだ点々と灯りがついている。春には夜桜が見えるし、自動販売機に昆虫がいたこともある。ラーメン屋と牛丼チェーンはまだ営業しており、空いた席の中、遅い夕飯を食べる人たちを軽く覗くだけで楽しかった。
なのに、その夜は違った。
なんだか分からないが、違う。違和感。その原因を探る。分からない。
団地を見上げる。何も変わりないはずだ。全部の部屋が真っ暗だとか、逆に全室が明るい、なんて異常事態は起きてない。電気の消えた部屋たちの中、幾つかの部屋がまだ明るい、つまりいつもの団地の夜。そのはずなのだが。
あの部屋の電灯、やけに赤すぎないか? と思えたり。
あの部屋の窓際に掛かっているのは、本当に服なのだろうか。まるで、別の何かが、吊られた何かが、影になっているような。なんて。
そもそもこの団地、こんなに見上げるほど、大きかったか? とか。
おかしいなぁ。
いやだなぁ。
よろしくない。なんだかどうにもよろしくない。
こんなことを考えてしまう自分がどうにもよろしくない。
さっさと買って、読んで、寝よう。そう考えて歩き出した。
自動販売機が煌々と照っていた。蛾が止まっている。羽の、丸い模様が、目に見えた。見られているような気がした。
にっ。 にっ?
目が細く、笑って、え?
慌ててそれを見ようとしたが、蛾はいきなり飛び上がり、わ、驚かせてそのまま夜の闇の中に紛れた───闇?
そうだ。ようやく分かった。暗いのだ。
東京の夜道は明るい。街灯、部屋の明かり、車のランプ、ありとあらゆる光で満ちていて、本だって読める程だ。そのはずなのに、なんだろう、今日はやけに暗い。だから逆に、見えるものに意識を向けすぎて、やたらと気になってしまう。
のだと、思う。
赤い明かりの部屋も、吊られているように見えた服の影も、大きすぎる団地も、笑った羽の目玉も。たぶん普通に気のせいなのだ。
じゃあ、なんで、今日はこんなに
思考を止めた。今はコンビニへ向かう。いつも通りに。毎週してることを変わらずこなすだけ。
目を前に向ける。信号につく。ラーメン屋が見えた。明るい。信号を渡る。店内がより詳しく見える。窓から覗いてみる。人がいた。安心した。良かった。ちゃんとお客さんがいる。五人ぐらいだ。ラーメンを啜っている。ようやく日常に触れられたように思えて、ほっとした。
コンビニはすぐそこだ。
何度も通っていると、店員の顔を覚えてしまう。この時間は、少し日焼けした中年の男性店員がレジにいることが多い。中に入る。流行りの曲が流れていた。タイトルは、覚えていない。雑誌コーナーにはちゃんとジャンプが置かれている。推していた新連載が巻頭カラーだ。良い調子だと思う。手に取る。レジへ向かう。その途中、背の高い人とすれ違う。フードを被っていた。マスクもつけて、顔が見えない。この時期に、フード?
気にしないことにした。レジへ。店員がいない。すみません、と、声をかける。
「ハイ」出てきたのは、若い男性だった。色黒で、目が少し赤い。「290エンニナリマース」いつもの人じゃない。今日はシフトじゃないのか。なんて思って、支払う。レシートはレシート入れに。コンビニを出る。なんとなく振り返ると、店員が奥に引っ込むのが見えた。
道に出る。
ラーメン屋の前を通る。中には誰もいない。
食べ終えるの、早いなあと。思いたい。
もっと味わって食べれば良いのに。と、考える。
信号は丁度青だった。トラックが止まっている。渡る。トラックの前を横切る。運転席に誰もいないように見えたのは、きっと、今日がやけに暗いからだ。
自販機に蛾はいない。
団地の隣を歩いて
子供が駆け出してきた。二人。小学生ぐらいの。黄色いTシャツ。
団地から出て来て、そして住宅地の夜に消える。
気がつくと、部屋についていた。扉を閉めた音で我に返る。
動転していた……のだと思う。
私は体をドアに預け、なんだったのだろうと思案した。
いや、考えている振りをしていただけだ。
本当にちゃんと考えられるほど落ち着いていたなら、その場でジャンプは開かない。
そしてワンピースを読み終えてから、慌てて鍵とドアチェーンをかけた。
……逆すぎる。
自分の慌て具合に苦笑して、それでようやく気分が落ち着いた。
その時。
バン、バン、バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバン
と、背後の扉が叩かれた。
その夜に起きたことは、それが最後だ。
日付が変わった頃にジャンプを買いに行く習慣は、それから半年ぐらい続けたが、あの夜みたいに厭なことは、結局二度と起こらなかった。
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