16-5 本心

 崖から落ちかけたハクは、ぶら下がりながら顔を上げた。


「タツア君……」


 ハクの右手を、崖へと体を乗り出したタツアが両手で掴んでいた。


「今、引き上げるから、絶対手を離すなよ」


 そう言ったタツアの表情は少しキツそうだった。


 アルナはタツアの体が落ちないように支えるので精一杯で、ハクを引き上げるのに手を貸せそうには無い。


 そんなアルナが振り返って叫んだ。


「タツア君、急いで、魔獣がもう!」


 魔術符の効果が切れたのだろう。魔獣が一斉に遅いかかってくるはずだ。


「今、体勢を整えるから、少し待ってろ!」


 タツアはハクを引き上げようとしていたが、それを悠長に待ってくれるような敵では無い。


 ハクは遠い崖下に視線をやってから、呼吸を整えてタツアを見た。


「タツア君、手を離して」


 そう言って、ハクは右手の力を抜いた。


「は? なに言ってるんだ! ハクを見捨てられるわけないだろう!」


 タツアはハクの手をしっかりと掴んだまま離さない。しかし、その力んだ腕は震えていた。


「タツア君も限界でしょ? それに、魔獣も来てる。僕は大丈夫だから、手を離すんだ」

「いやだ! 友達を見捨てるなんて俺はしない!」


 タツアは必死な形相で、手に力を込めている。


 崖の上から聞こえる物音的に、今はシンゲツと刃鳥がフレイムドッグ達を食い止めている。しかし、それも長くは続かないはずだ。


 焦りを感じていたハクは、語気を強める。


「このままじゃ全滅だ、それは君だって分かるだろ。手を離せ!」


 すると、タツアは首を大きく振って、ハクを強く見つめた。


「ダメだ。ハク、お前がそうやって状況を見て適切な判断ができるのは凄いと思う。けどな、命を捨てるなんて真似はよせ!」

「ちがう、そんなつもりじゃ……」


 ハクの小さな呟きは、崖上の戦いの雑音にかき消された。

 それから、タツアは手に力を込めて強く握り、はっきりと言う。


「こんな時くらい、助けてって正直に言ったらどうだ? 周りばかり気にしてないで、心のままに生きろよ!」


 降り掛かってきたタツアの言葉は、ぶら下がった状態のハクには避けようもなく、ハクは歯を食いしばって俯いた。


 ◆


 前にいた世界でもずっとそうだった。


 周りの空気を読んで、なるべく目立たないように、波風立てないように振る舞った。


 おかげで、人間関係で大きな問題を起こしたこともなければ、叱られるようなことも滅多に無かった。


 期待には応えるいい子であろうとしたし、完璧では無いにしろ上手くやれていた。


 しかし、みんなに気を遣い、感情を押し殺す生き方は、知らず知らずのうちに心を擦り減らしていた。

 日常生活を送る上では何の問題も無いはずなのに、生きているだけで辛かった。


(私って何なんだろう?)


 本心を隠して周りに合わせて演じているうちに、いつしか本当の自分が何者なのかすら分からなくなっていた。


 自分の人生すらも、全てどこか他人事で空虚なものに感じた。それでも、理由の分からない苦しみだけが常に纏わりついていた。


 唯一、物語に没頭している時だけは、現実の憂鬱さを忘れられた。

 だからミリアと人生を交換した時、新しい世界で新しい人生を送れると期待した。


 しかし、いざ異世界に来てみたら、前世よりよっぽど酷い目に遭って、取り返しのつかない業まで背負ってしまった。

 そしてなにより、心に染みついた生き方は異世界に来たところで何も変わらなかった。


 目の前の冒険や試練に没頭している時は、まだ憂いを忘れられる。しかし、過剰なストレスは、徐々にしかし確実に心を蝕んでいた。


(それでも、私は変わらない。変えられない)


 それなのに、上から手を掴んでいる少年は、いとも簡単そうに心のままに生きろと言う。


(人の気も知らないで……)


 ◆


「君に、何が分かるんだ」

「え?」

 

 ハクが顔を上げると、真っ直ぐで曇りのないタツアの瞳が見えた。

 その背後には、アルナに襲い掛かるフレイムドッグとそれに噛み付くシンゲツの姿がある。


「もう、いい」


 ハクは溜め込んだ苛立ちを込めて、思いっきりタツアを睨んだ。すると、タツアは狼狽するような表情でハクを見返す。


「ハク? どうした?」

「お望みとあらば、猫をかぶるのはもうやめるよ」


 それから、ハクは声を荒げてタツアに感情をぶつけた。


「元はと言えば、君が僕の忠告を無視して勝手に来たのが行けないんだろう!? 僕の言うこと全然聞いてくれないし、なんで分かってくれないかなぁ。それに今だって、手を離さないでどうするつもり? 引き上げる力無いじゃん! 理想だけ高い勇者もどきが!」


 ハクの罵声に一言も言い返せず、タツアはただただ目を丸くしていた。

 一方のハクは、すっきりとした気分で微笑んだ。


(思ったことをそのまま口にするなんて、いつぶりだろう……)


 一筋の涙がハクの頬を伝った。


『インパクト』


 ハクの右手から放たれた魔法が、強引にタツアの両手を引き剥がした。


「ハク!!」


 タツアの叫び声を聞きながら、ハクは落下していく。



 だが、ハクは次に取るべき行動に集中していた。


 即座に杖を取り出し、魔法で形を剣状に変形させて崖の壁に突き刺した。


(止まれ!!)


 ガリガリと音を立てながら岩壁を削った剣はやがて止まり、ハクは崖の中腹で息をついた。

 衝撃がまだ残る両手を休ませる間もなく、ハクは絶壁を見上げた。


(行くか)

 

 魔力を全身に流して、ハクは跳び上がった。



 崖上に舞い戻ったハクの視界には、数多のフレイムドッグとシンゲツやアルナ、タツアの姿が映った。


 すぐに敵の位置を把握して、ハクは空中から杖を振った。


『『『インパクト』』』


 三つの衝撃波がそれぞれのフレイムドッグを吹き飛ばす。


 それから地面に着地したハクはすかさず素早く動き、近い順にフレイムドッグの命を立て続けに五つ奪った。


「ハク!?」


 落ちたと思っていたハクが復活してきた事に、タツアは唖然としながら声を漏らした。

 そんなタツアに、ハクは冷めた視線を向けて答える。


「タツア、僕は命を捨てるつもりなんて無いよ」


 ハクの一連の行動を見ていたタツアは、呆れたように笑いをこぼした。


「ハク、やっぱり俺にはお前が分からねぇよ」


「安心して、それは僕も同じだ」


 そう言って、ハクは笑みを返した。


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