6-1 休息
◇◆◇
「アルナ、俺がやるから。汚れるし……」
「いいから、クロトは向こう行ってて。私に任せて、大丈夫だから」
微かに耳に届いたその声は、日常的な微笑ましいやりとりに思えた。
懐かしい心地と共に、私は柔らかな温かさの中でうっすらと目を開けた。
そこには、可愛らしい少女の黒い瞳があった。
「飲める?」
朦朧とした意識の中で口に流し込まれた重湯を私は飲み込んだ。
(おいしい……)
そして、口元に運ばれる優しい味がするそれを何度か飲んだ私は再び眠りについた。
◇
目を覚ました私は、窓から差し込む朝日に目を細めた。それから、隣で座ったまま眠っている黒髪の少女に目を移す。
体を起こすと、そこは古びた木造の建物の一室のようだった。
部屋にはさまざまなガラクタが山のように置かれている。そんな中、私の寝ていた布団が敷かれた一画だけは綺麗になっていて、私の枕元には花瓶も置かれていた。しかし、中の花は枯れきっていて、今にも崩れてしまいそうだった。
ふいに隣の少女の体が動いた気配がして、私はもう一度視線を少女に戻した。
少女はゆっくりと目を開けると、眠そうな目のまま大きなあくびをした。そしてその途中で、起き上がっている私の姿を視界に捉えると、口を開けたまま固まった。
「あっ! 起きてる!」
少女はその黒い瞳を輝かせながら、私に近づいた。
「よかったー、このまま死んじゃうんじゃないかって心配してたんだよ?」
見知らぬ少女の純粋な瞳に見つめられて、少し戸惑いながら私は言葉を話した。
「あ、ありがとう、君が助けてくれたの?」
「……綺麗な瞳……」
私の目を見ていた彼女はそう呟いた後、慌てたように少し離れて適切な距離を保ってから言う。
「私は介抱しただけ、行き倒れて死にかけてたあなたをここまで連れてきたのはクロトだよ」
そう言った少女は思い出したように立ち上がった。
「そうだ、他のみんなにあなたが目を覚ましたこと伝えて来るね」
「あっ、ちょっと待って……」
その言葉は私の口から自然とこぼれ落ちていた。少女が去っていく事に、寂しさを感じたのかもしれない。
この世界に来てから災難続きで、私の心は随分と脆くなっているようだった。
「すぐ戻って来るから」
部屋を出ようとしていた少女は、振り返って優しく微笑んだ。
「だったら、私も行くよ」
私は立ち上がって、少女について行こうとした。
「無理しないで、危ないから」
私の足はまだ少しふらついているが、ここで休ませてもらったおかげでかなり体力は回復したのだ。
「大丈夫」
私はそう言って一歩を踏み出した。
「あ、そこはっ」
バキッという音と同時に、急に私の足場が無くなった。
「え?」
私が踏み抜いた床は崩れて、バランスを崩した私はそのまま下の階に落下していく。
衝撃の後、私の視線の先には穴の空いた天井があった。驚きで心臓が止まるかと思ったが、まず私は自分が生きている事に安堵した。痛みと安堵で涙が少しこぼれる。
「大丈夫? 怪我はしてない? だから危ないって言ったのに」
少女は天井の穴から心配そうに顔を覗かせていた。
まだ心臓の鼓動は鳴り止まない。心底驚いた私がしばらく動けずに乱れた呼吸を落ち着けていると、私の下の方から声が聞こえた。
「どいてくれない?」
私の下には黒髪の少年の姿があった。どうやら彼が下敷きになってくれたおかげで、私へのダメージは最小限で済んだようだ。
「ごめん」
私が体をどけると、少年は体のあちこちを気にしながら、ゆっくりと起き上がった。
「大丈夫?」
「ああ、大したことないみたいだ」
その直後、階段で少女が駆け降りてきた。
「二人とも無事?」
「ああ、奇跡的にな。アルナ、あそこは気をつけろってあれほど言っただろ」
「この家が古いんだからしょうがないじゃん」
二人の会話している間、私が周囲を見回すと、ここはリビングのようで、古びたソファや木の机、奥にはキッチンも見えた。床はボロボロで、さっきの恐怖体験が少しだけ蘇る。
二人の会話が終わるのを私が待っていると、私の様子に気がついた少女が私に向かって言う。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。私はアルナ。それからさっき言ってたあなたを助けたクロトが、こいつ」
私が下敷きにしていた少年だ。
「クロト君、ありがとう。それから、ごめん」
クロトに対して、私は様々な意味を込めてお辞儀をした。
「それから、向こうでこっちを見ている二人がサクとカイ」
アルナが指し示した方を見ると、二人の少年がこちらの様子を窺っていた。
クロトとアルナは私と同い年くらいの見た目だが、二人はそれよりも幼く見える。
「右がサクで、左がカイね」
見たところサクの方が少しだけ年上に見えた。サクが11歳でカイは10歳くらいだろうか。
「よろしく」
私が言うと、カイは一度こちらを睨んでから奥に逃げていった。
少し残念に思いながらも、よそ者の私に心を開かないのは当然か、と私は納得する。
「それから、今は出掛けてるけど、モルフって男の子もいるんだ。私達より一個下で、髪の毛クルクルの子だから見ればすぐ分かると思うよ」
「うん」
アルナの説明はそれで終わりだった。そこで私の頭には一つの疑問が浮かぶ。
「あれ? 子供だけでこの家に住んでるの?」
その言葉にアルナの表情が僅かに引き攣ったのを見て、私はマズい質問だったかと肝を冷やした。
すると、無表情で近づいて来ていたサクが言う。
「アルナ、いつまでいるかもわかんない奴にわざわざ名前教えなくていいでしょ」
サクはカイみたいにあからさまでは無いが、私の事をよく思っていないのは確かなようだ。
それからサクは冷たい目を私に向けた。
「それからあんた、もしまだこの家にいるつもりなら、さっさと風呂にでも入って来てくれない? 酷い臭いだよ」
(え?)
「こらっ、サク!」
アルナの叱責に、サクは悪びれる素振りも見せず、つまらなそうにそのまま私の横を通り過ぎた。
「そうだな。見たところ顔色も悪くなさそうだし、風呂にでも入ってくるといい」
クロトまでそう言った。
確かに、黒狼に乗って森をずっと駆けてきたし、脱走途中の怪我とクマとの戦いで血をたくさん浴びた。だから、アルナが目立った汚れを拭いてボロボロの服も替えてくれた今でも、多少の獣臭さや血生臭さが残るのは仕方がない。
それでも、やっぱり傷つく。前世では少なくともこんな経験は無い。
でも、私としても風呂には
「うん、ありがたくお風呂借りさせてもらおうかな」
「そうか、じゃあ俺が付き添うから、アルナは朝食の準備頼む」
クロトのその言葉にアルナは慌てたように反応した。
「いやいや、私が付き添うから、クロトが朝食の用意して」
「何でだよ?」
「いいから! 行こう! 朝食は豪華なやつよろしくね」
アルナは私の手を引いて、強引に部屋を出た。
◇
アルナは私の髪で石鹸を泡立てながら、申し訳なさそうに謝った。
「ごめんね。クロトが……」
「いいよ。助けて貰っただけでも感謝してもしきれないのに、何から何まで本当にありがとう」
「それこそ気にしないで、私が好きでやってる事だから」
私の背中を黙って手で洗うアルナに、私は気になっていた事を聞いた。
「ねぇ、言いたくないなら言わなくてもいいんだけど、アルナ達って……」
「ああ、さっきはちょっと変な反応しちゃったけど、大したことじゃ無いの。私達はみんな身寄りがない子供でね、それで集まって協力しあって生きてるの。だから、あなたを助けるのも、私たちにとっては当たり前の事。だから、あまり恩に感じすぎなくていいからね」
アルナは私に気を遣ってそう言ってくれているが、ここまで助けて貰っておいて恩に感じない方が難しい。
「本当にありがとう」
今は言葉でしか感謝を伝えられないけれど、いつか必ず何かしらの形で恩返しをしたいと私は思った。
アルナがお湯を私の頭からかけて、石鹸が洗い流されていく。私は髪や体に纏わりついていた汚れが無くなって、すっきりした気分だった。
「白くて綺麗な髪だね。それに肌も白くてすべすべ」
アルナが私の背中に手を当てて言った。確かにこの体は少し不気味なくらいに綺麗だ。
「アルナだって綺麗だよ。それに可愛いし」
私は振り返ってアルナの手をとり、その可愛らしい顔を見ながら言った。肌の質感が良いのは、この世界の魔力の影響なんだろうか。気のせいかもしれないが、アルナからは魔力の気配を強く感じた。
「私はいいから!」
私に手を触れられたアルナは焦ったように、私から離れた。そういえば、アルナは濡れるというのに服を着たままだ。
「お風呂、ゆっくり浸かってて。私はそこにいるから出る時呼んでね」
そう言ってアルナは少し頬を赤らめながら、浴室を出て行った。
それから私は湯船に浸かり、疲労が溶け出していく感覚にホクホクとしていた。
シャワーがあるわけじゃ無いし、天井からはポタポタと水滴が垂れてくる。それでも十分だった。温かいお湯に浸かるなんていつぶりだろうか。
「ねぇ」
ふいに扉を隔てた向こうから、アルナが声をかけてきた。
「なに?」
「そういえばあなたの名前、聞いてなかった。なんて呼んだらいい?」
(私の名前か……)
言われてみれば、この身の名前を私は知らなかった。牢に囚われていた時も、一度だって名前を呼ばれた事は無かった。もしかしたら、そもそも名前なんて無いのかもしれないと、そんな気さえしてきた。
かといって、前世の名前を口にするのも違う気がした。私の元の人生はあの子にあげたのだから、今はその名前はあの子の物だ。
(うーん、名前か……)
私が考えていると、ふいに横の小窓に一羽の白い鳥が降り立った。
それは、私の髪から魔法で作り出した鳥だった。
『おかえり』
私は心の中で言い、そっと手を伸ばした。
『あれ? もう一羽は?』
すると、その鳥は何かを訴えるように小さく鳴いた。
何かあったのかと、私は不審に思った。
そして、私は目を閉じた。できるかどうか分からないけれど、そうする事が自然に感じたのだ。微かな結びの糸を辿って、意識をもう一羽の鳥の方へと向けていく。
(見つけた)
そして、私はその鳥と感覚を共有した。
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