床屋 part3
「いらっしゃい」
店主の声は外見とは違って優しいものだった。
鏡越しにまじまじと私の顔を見ている。
「どうも。よろしくお願いします」
うんうんと頷きながら店主はなにやら道具を用意し始めた。
「どうする?」
おそらくカットデザインの希望を要求されているのだろう。
私はポケットに忍ばせていたレオンの切り抜き写真を店主に手渡した。
受け取った店主はしばらく切り抜き写真を眺めると、何も言わずに返却してきた。
「あいよ。刈り上げね」
フェードカットだ。
もしくはツーブロックと言ってくれ。
ハードな男の髪型だ。
店主は慣れた手つきでバリカンに電源を入れた。
なんとも言えない振動音が不安を煽る。
先ほど店主が男性の頭を丸刈りにしていた様子を私はこの目ではっきりと見ている。
じょりじょり
っという音を立て、バリカンが私の頭髪を刈り始めた。
その動きには一切迷いはない。
あっという間に私の側頭部は均等に刈り上げられてしまった。
しかもうなじの辺りから微妙にグラデーションされており、決して不自然ではない。
はっきり言って美しい。
店主は一つ咳払いをした。
「ごめん」
その声がなぜか心地よかった。
バリカンを置き、次に店主はいよいよ鋏で私の頭髪を切り整えはじめた。
しゃきしゃきというリズミカルな音が店内に響く。
先ほどの若い女性と老婆がテレビを見ながらなにやら楽しそうに話し込んでいる。
なんとも平和な光景だ。
まるで本当にこの店だけ時代が止まっているみたいだ。
私がまだ少年と呼ばれる年齢だった時代のままに。
あの頃はよかった。
目を閉じて、私は回想という扉を開いた
私が少年だった頃、私のヘアスタイルと言えば丸刈りが常だった。
思春期にはまだ程遠い頃の私とっては、異性からどう見られるかよりも、いかに早く入浴を終わらせられるかの方がはるかに重要であった。
その点では丸刈りは最も理にかなっている。
私は触るとチクチクと手のひらに刺さる髪の感触を愛していた。
なので、少しでも伸びてくると私は泣いた。
そうなると決まって祖父が床屋につれていってくれた。
祖父に手を引かれ、床屋までの道を歩く。
大きな掌だった。
決して口数が多い方ではなかったが、道中で祖父は色んな話をしてくれた。
楽しい話、美味しい物の話、たまには戦争の話。
でも話の最後にはいかに祖父が私を愛しているかを必ず教えてくれた。
私もそんな祖父を愛していた。いや、今でも勿論愛している。
床屋にいくと両親と同じくらいの年格好の夫婦が必ず笑顔で迎えてくれた。
パーマ液の匂いと、聞こえてくるテレビの音。
よく相撲がかかっていた。
祖父は店主と貴乃花の話をよくしていた。
小さな女の子がいつも店内を走り回っていたのをよく覚えている。
私はいつもその店で丸刈りにしてもらっていた。
丸刈りの最後には頭を洗われた。
大人は俯いた姿勢で洗面台に頭を突っ込むのだが、幼少の私にはその姿勢はとてもおそろしく、私は仰向けに寝かされて頭を洗ってもらった。
その時間になると祖父は決まって待合のソファで居眠りをしていた。
その眠りは私が店主から解放され声をかけるまで醒めなかった。
「終わったよ」
私が声をかけると祖父はぱちっと電源が入ったように両目を開けた。
念願の丸刈りになった私を見て祖父が微笑む。
「あんまり変わってないな」
しゃがれた祖父の声が大好きだった。
なぜ、忘れていたのだろう。
私にも床屋に通っていた時代があった。
いつの頃からか、髪を伸ばし、色んな純粋さを失い、大人になった。
今の私はたかだか同窓会のために見栄を張り、世間からどう見られるかという事ばかり気にする情けない男だ。
こんな私のどこがハードボイルドなのか。
目頭に熱いものがこみ上げそうになった。
鏡に映る私は、自分が少年だった事をすっかり忘れてしまっている冷たい人間だ。
祖父が連れていってくれていた床屋の名前がどうしても思い出せない。
狂おしい程の望郷が私の胸に突き刺さった。
店主が洗面台のシャワーの蛇口を捻る。
水流が台を叩く音が聞こえた。
「どうぞ」
私は俯いた姿勢で洗面台に頭を突っ込んだ。
もう子供ではない。
せめて仰向けでは頭を洗われたくない。そして今の顔を誰にも見られたくはない。
洗髪が終わり、店主は切り立ての私の頭髪をドライヤーで乾かしはじめた。
なんとも年季の入ったドライヤーだ。
水で濡れた私の髪がみるみる水分を失っていく。
まさか行きずりで入った床屋にここまで感情を揺さぶられるとは。
私は男としてまだまだだ。
しかし、この店主は無口だ。
先ほどから何も言葉を発さない。この寡黙こそ男の含蓄なのだろうか。
髪が渇き、店主は仕上げに私の肩を数回揉んでくれた。
散髪中に固まった私の僧帽筋が少しずつ解れていく。
今回の散髪も終わりが近い。
無口な店主がフィナーレを告げた。
「俯きで洗えるようになったんだな」
私の瞳から一筋だけ涙がこぼれた。
幻覚でも見たのだろうか、鏡の中の私は小さな丸刈りの少年に戻っていた。
後ろの待合では居眠りをしている祖父の姿も見えた気がした。
今日、キャップを被ってきたのはほんとうに正解だった。
同窓会は日曜日の正午から始まった。
久しぶりに会う同級生たちは皆、年相応に老けていた。
おそらく私もその一人だろう。
学生時代の私のマドンナは、全くの別人になっていた。3回目の結婚に失敗したらしい。
不思議とどうでもよかった。
夕方に帰宅すると、私の両親が遊びにきていた。
妻と一緒になにやら娘に困らされている。
「マカナが美容室に行かないってグズって困ってるの」
一つ年下の妻がほとほと困り果てた様子で私に加勢を求める。
助っ人として呼び出されたのであろう両親もお手上げ状態だった。
「マカナ、チョキチョキきらい!」
愛娘はいつも通っている美容室と折り合いが悪い。
こんな調子で先週も彼女の散髪は延期になった。
妻と両親から逃れるようにマカナが私に駆け寄ってきた。
「マカナ。パパと同じ所でチョキチョキする?」
泣き顔の娘が顔をこちらに向けた。
「こわくない?」
「パパが子供の頃に通ってたお店なんだ」
マカナは夢のように可愛く笑った。
「いく」
先ほどまで履いていた靴を履きなおす。
右手で小さく愛おしい掌をそっと握った。
あの床屋に予約はいらない。
「理容はせがわ」へは歩いて10分ほどだ。
じいちゃん、俺もパパになったよ。
ハードボイルドへの道のりはまだまだ遠い。
娘の足音がリズミカルに弾んだ。
妻と両親が心配そうに後ろをつけてきていたが、私と娘は気づかないふりをした。
ハードボイルドに憧れて ながあき @Jessy0174
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