存在認識の依存と麻痺

名称的存在認識のモデレーター

「私は全ての物事に名付けをしたいの。だってそれこそが、名付けられたものや事象にとってこの世界に存在した証明書だと思うんだもの」

菊の話には一部納得できた。


言葉は区別の道具だ。

一つの物や事象と、その他の物や事象を区別する、

分かりきったことだけれど重要な定義だね。


菊が言うには名付けは世界に存在した証明書らしい。

一見正しそうに見えるが、

そもそもとして『世界に存在する証明』とはなんだろうか、

考えてみなければ本当に正しいとは言えないのではないかい?


二つの実験をしてみよう。

まず一つ目の実験だ。

君がりんご一つを写真の中に収めたとする。

目の前にはりんごが一つ、そして写真の中にもリンゴが一つ。

写真の中のリンゴと目の前のりんごは、同一のものかい?


もし、君が当然だとも!と言うのなら、

そのりんごのヘタを掴んで持ちあげてみてごらん。

君の手には一つのリンゴしかないはずだ。


先も言った通り、言葉は区別の道具だ。

これを踏まえて今のりんごの例をとってみると、

菊の中では写真の中のリンゴは『世界に存在しないもの』と言うわけだね?

だって、僕はまだ写真の中のリンゴについて名付けをしていないんだもの。


だが待っておくれ。

君の目と僕の目が正しいのなら、その写真の中にリンゴはある。

あるのにないと定義づけられる。

人はこれを矛盾と言うんだよね。


では二つ目の実験をしてみよう。

菊が言うに、

世界に物や事象が存在した証明をするには、その物や事象に名前をつける必要があるわけだ。


よし、では君、

今そこで目を瞑って「あー」と言いながら、

右手を上に突き上げて、グーとパーを交互に三回ずつ繰り返してみよう。


お疲れ様。

もし今、君がきちんとやってくれたのなら、

今の行動は世界にきちんと存在したわけだね?


だが今の行動には名前があったかい?

『「あー」と唸りながら、目を瞑って、右手を上に突き上げ、グーとパーを交互に三回ずつ繰り返す行為』?

ううん、それは名前じゃないよ。これは定義だ。

この定義を簡潔にまとめた名前は、

僕の知る限りこの世界にはない。


つまり、今君が行なった行動は世界に存在していなかったことになっているわけだ。


僕らが名付けていない事象はそれこそ、

空気のように溢れかえっている。

だからほとんどの事象は世界に存在しなかったことになってしまう。


話を戻そう。

『世界に存在した証明』は名付けにるのだろうか。

うん、違うかもしれないね。

きっと、名付けにできることは『世界に存在した証明』ではなくて、

『世界に存在したことの知覚』だろうね。


上記二つの実験でもわかるように、

僕らは視覚や経験で存在したことを感じることができる。

ただそれも一過性だ。


シュレーディンガーの猫のように、

僕らは見ることを始めとした五感で、

対象の情報を脳に直接持って行かさない限り、

対象の存在の有無を把握することはできない。


つまり名付けというのは、

自分が対象を知覚できていない間に、

対象の存在の有無を一時的に保証する方法なんだね。


ではここで、少しだけ面白い話をしよう。

『神』や『イデア』などの五感では知覚できない、

『非物体的な永遠の物質に関する名称』を、

僕らが一時的な保証だけで存在を補っているというのは、

とても興味深いこととは思わない?

まさに神秘的でさ。

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