揺れる夏草

 P県Q市は都内から車で行けない距離ではなかったが、休日の高速道路の渋滞でスケジュールが大幅に狂うのが嫌だったので、県都のP駅まで東京駅から新幹線に乗り、そこでレンタカーを借りることにした。

 P駅に着くまでのあいだ、オフィスで調べておいたQ市とそこでの行方不明事故についての情報を整理しながら、航空写真モードにしたスマートフォンのグーグルマップで、現場付近の地図を頭のなかにインプットした。

 Q市は県都P市の北側に位置し、日本の高度成長時代に、商業都市として膨張するP市からあふれた人口の受け皿として急激に発展した住宅都市だった。これまでに何度かP市との合併話がでているが、Q市が市制施行する前の農村時代から住んでいる旧住民の反対で、都度立ち消えになっている。

 丘陵地帯を切り開いてできた大規模な住宅団地に住む新住民たちは、Q市が都市インフラのほとんどすべてをP市に依存している現実を理由に、行政の一体化にメリットがあるとして合併を希望してきたが、あくまでも市域内の自治を守ろうとする旧住民の意思は固く、溝はいまのところまだ埋まっていない。

 新住民たちは、今日も丘の上の南向きのベランダからP市街の高層ビルを遠くに眺めながら、いつか憧れのP市民になれる日を夢見ていることだろう。

 行方不明事故があったQ市**町あたりは、田畑を切り売りして小規模開発した住宅地が虫食い状に密集しているエリアで、住宅団地がある丘陵と、丘のふもとを東西に貫く幹線道路のあいだに位置していた。幹線道路は、あとから新しく整備されたと思われる真っ直ぐな線形で、その南側には狭くてところどころにきついカーブのある旧道が平行していた。

 その新道と旧道のあいだを流れているのが、問題の用水路だった。用水路は旧道と近づいたり離れたりしながら、ときどき同じ方向にカーブを描き、やがて旧道の下をくぐってP市との境界線上を流れるR川に合流していた。

 P駅に到着したのは昼前で、駅前でレンタカーを借りてそのままQ市へ向かう。

 大小のビルが立ち並ぶ、街路樹のある市街地を北へしばらく走ると、少しずつ建物の高さが低くなり、やがて目の前が開けてR川を渡る橋に出た。橋を渡ればそこから先はQ市となる。

 いくつかの交差点を抜け、丘の上の住宅団地へと続く急勾配の坂の手前で例の幹線道路へと右折し、平地を走って**町のエリアに入る。道の左右にポツポツと点在する飲食店は、東京でもよく見かけるチェーン店が多かったが、地元オンリーの独立店舗らしき店も、ときおり見受けられた。

 しばらく流していると、右手の用水路のある側に地元の店らしいログハウス風のカフェレストランが目に入ったので、とりあえずそこに入ってみることにした。

 次の信号の手前の分離帯の切れ目でUターンして店の前まで戻り、ガラガラの広い駐車場に車を止める。店の名前は『リバーサイド』。リバーは店の南側を流れる用水路を指しているのだろうか。建てられてそれほどの年月は経っていない感じだったが、今風のカフェを狙っていながらどこか垢ぬけない印象を受けるところが、いかにも地元の店らしかった。

 入り口のドアを押し開けると、ドアに付けられたベルが揺れて、過疎地の観光牧場のような音を鳴らす。

「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」

 店の奥から女の声が応える。

 フロアは左手が用水路に面したガラス窓になっていてテーブル席が何席か並び、突き当たりにカウンターが五席ほど、その奥が厨房になっているようだった。用水路は、岸辺に生い茂った背の高い夏草に隠されて、水面は見えていない。

 窓際のテーブル席の子連れのファミリーを横目で見ながら、カウンターまで進み、端の席に座る。カウンターには私以外に客はいなかった。

 カウンターの向こうから再び、いらっしゃいませ、と言いながらメニューと水を渡してくれたのは、ここのオーナーかと思われる三十歳前後の女だった。白と黒のギンガムチェックのワンピース、セミロングの茶髪を一つ結びにして地味目にまとめていたが、表情は生き生きとしていて、カウンターに集う地元の常連客を笑わせている普段の様子が目に浮かぶようだった。

「カレーのセットで。食後にアイスコーヒー」

 メニューをパタンと閉じながら注文すると、

「はーい、カレーひとつお願いします」

 ギンガムが厨房のほうに声をかける。

「はーい」

 カウンターからは見えない厨房の奥から、男の声で間の抜けた返事が聞こえた。

 私の前に紙ナプキンとスプーンをセットしながらギンガムが、

「お客さん、東京から?」

 宅配便の送り状が自分に貼られているのではないかと危惧しながら、

「どうしてわかったんだろう」

「この辺の人じゃないなって感じがしたから」

「正解だ。東京から来たんだ」

「ごめんなさいね、知られたくなかった?」

 ギンガムが間を置かずにリカバリーする。

「構わないよ。実はP市内にウチの奥さんの親戚が住んでてね、午後から法事がある」

 ギンガムが、なるほど、というように目を輝かせながら指をパチンと鳴らし、

「奥さんの親戚から逃げてきたのね」

「そうとも言えるな」

 もともとでたらめなので、どうとでも言える。

「どうしてこんな外れまで?」

「知らない街をドライブするのが好きなんだ」

「わかる気がする。でもお客さん偉いよ。奥さんの親戚の法事に出るんでしょ。ウチの旦那なんか、私の実家にさえ、来たのは結婚のあいさつのとき一度だけだよ。ひどいと思わない? そのくせ自分の母親には……」

 厨房から、エヘンと遠慮がちな咳払いが聞こえ、ギンガムが肩をすくめて私に笑って舌を出す。厨房の男がギンガムの旦那なのは間違いなさそうだった。

 しばらくしてカレーが出来上がり、ギンガムが私の席に運んできてくれた。メニューには『特製スパイスのオリジナルカレー』と書いてあったが、食べてみると飲み物がメインの喫茶店でよく出てくるレトルトのビーフカレーだった。

 カレーを食べ終えて、食後のアイスコーヒーが出てきたタイミングで私は聞いた。

「そういえば最近、ずいぶん昔にこの辺で行方不明になった子供の骨がR川で釣り上げられたらしいね」

 ギンガムは特に表情も変えずに、

「お客さん、詳しいですね。どこからそれを?」

「ちょっと前に週刊誌で見た」

「へえ、結構ニュースになってたんだ」

 さして興味もない、と言った感じでギンガムが応える。

「この辺では話題にならなかったのかな」

「何しろ昔のことだからね。まあ私は亡くなった男の子と同じ小学校だったから、骨が出たって聞いて、ちょっとはドキドキしたけど」

 ギンガムは三十歳前後に見える。とすれば事故当時の十八年前には小学校高学年といったところか。

「上級生だったんだね」

「六年生。だから交替でちょくちょく一年生の面倒を見てたんだ。その子のことも、休み時間に遊んであげたことがあって。でも特別に仲良くしたわけじゃないから、へえ、いなくなったんだ、ぐらいにしか思わなかったけど。小学生なんてそんなもんでしょ」

「用水路に落ちたらしいね」

「そこの用水路。もうちょっと下流だったけど」

 ギンガムは目で窓の外を指してから、

「あれは九月も終わりの土曜日だったかな。たしか前の晩大きな台風が通り過ぎたあとで、秋らしい青空だった。ってホントは空のことは憶えてないんだけど、なんかそんな気がして。それで、用水路がものすごく増水してて、岸辺にその子の足跡と、すべったような跡があったから、誤って落っこちたんだろうってことになって……」

「足跡は男の子のものだけだった」

「そうだったみたい」

 窓際のファミリーを意識してか、ちょっと声を落として、

「でも、当時近所のオバサン連中が話してたのを聞いたんだけど、その子は母親の連れ子で、ちょうど再婚相手との子供を身ごもったところだったから、両親ともあまり熱心に捜そうとしなかったらしいの。で、警察にも結構疑われてたんだって」

「よくあるパターンだ。他に疑われた人とかは?」

「疑われたってほどじゃないけど、近所の小学生二人が、当時現場近くで遊んでたのを見た人がいたとかで、警察にいろいろ聞かれたみたい。結局事故とは無関係だったらしいけど」

「小学生って同じ学校の?」

「私のひとつ下の学年。五年生の男の子と女の子」

「二人はカップルだったとか。小さな恋のメロディ」

「小さな恋のメロディは古すぎるけど、お客さん鋭いわね。ほら、高学年の子たちって、そいういうのに敏感じゃない? だから結構みんなに囃されてて、ええと何だっけな、そう、二人まとめて『シルバーウッド』って呼ばれてたっけ」

「シルバーウッド?」

「もともと五年生たちは、二人の名前をつなげてギンノモリ、ギンノモリってからかってたんだけど、なんかウチの学年の、小学生のくせに英語塾に通ってた男子がシルバーウッドって言い出してから、六年生のあいだでは、それが定着したの。『昨日もシルバーウッドが一緒に帰るの見たぜ』みたいな」

 私は、なるべくさりげない風を装い、

「つまりギンノさんとモリくん。いや、ギンノくんとモリさんかな」

「ギンノくんとモリさん。〈銀の森〉だからシルバーウッド。バカだよね、小学生って」

 ギンガムは口に手を当ててハハッ、と笑った。

「あと、P高校の野郎がいたって、おまえ前に言ってたな」

 厨房からデニムのエプロンをかけた男が出てきてギンガムの隣に立った。私のカレーを作り終わって、暇を持て余していたのだろう。ギンガムより、ひと回り年上に見える大柄な男だったが、縁のない眼鏡の奥の細い眼は、実直でおとなしい性格を思わせた。

 ギンガムは、男の腕をぐいとつかんで、

「この人、ウチの旦那。愛想なくてごめんね」

 と私に紹介してから、旦那の顔を見て、

「確かにいたね」

 再び私のほうに向き直って、

「いま思い出したんだけど、スポーツサイクルでこの辺流してた男子高校生っていうのも警察に目をつけられてたの。その男子の女友達の家が現場近くだったとかでP市からよく来てたんだって。誰かがチクったらしいけど、事情聴取してみたら県立で一番偏差値の高いP高校の優等生だったとかで、もちろん事故には関係なくて、警察がその高校生に謝ったみたい。頭イイってだけで、いいヤツとは限んないのにね」

「P高校なんて、勉強しかできないバカが行くところだ」

 ギンガムの旦那がニコリともせずに毒を吐く。

「あ、この人、P高校落ちたんだよ。だから聞き流しておいて」

 とギンガム。

「気持ちはわかるな。僕も、望んだものを手に入れたことがない」

 私がフォローを入れると、

「事実は事実だからな」

 旦那は、P高校に対する自分の見解にダメ押ししてからギンガムのほうを睨んで、

「あとひとつ、おまえの実家に行ったのは、一回じゃなく二回だ」

 私を見てニヤリと笑うと、のっそりと厨房の奥に戻っていった。

「仲がいいんだね」

 反射的に、銀乃と真朝のことが頭に浮かぶ。

「なんだかねえ」

 ギンガムが、感慨深げにつぶやいた。

「それにしても、ずいぶん詳しく憶えてるんだな。だいぶ昔のことなのに」

 ギンガムは、またハハッと笑って、

「この辺も新しい家ばっかりになったけど、元からの住民は情報網がすごかったからね。聞きたくなくても、近所のオバハンたちが家にやってきてウチの親とひそひそ話をしてると、嫌でも耳に入っちゃうでしょ。子供には刺激が強すぎたのか、なんだか妙に記憶に残っちゃったのよね」

 私のグラスに水を継ぎながら、

「ここの新道だって、当時はまだ開通してなくて、用水路の向こうの旧道しかなかったの。この辺りはまだ半分ぐらいしか道路用地から立ち退いてなくて、畑と買収された空き地でまだらになってた感じ」

「この新道のおかげで、僕はこの店に来れたし、君や旦那さんと話ができた。すごくラッキーだった」

「よかった。もしこの近くに来ることがあったら、また寄ってね」

「もちろんそうするよ」

 私は、氷が溶けてほとんど水になったアイスコーヒーをストローですすり、継ぎ足してもらった水を一口飲んでから、ギンガムに伝票を手渡して会計を頼んだ。

 ギンガムはレジを打ったあと、私の掌を包むようにして釣銭を載せると、

「奥さんによろしくね。法事サボっちゃダメよ」

 と言って、最後にハハッと笑った。

 店を出たあと、『リバーサイド』の駐車場の端まで歩き、境界となる鉄の柵の向こう側に広がる用水路を眺めてみた。店内から見たときと同じように、水面は見えない。岸辺には幼児の身長を超えそうな高さで夏草が群生し、さらさらと生暖かい風に吹かれている。

 先のとがった葉の先に、緑色に輝くコガネムシが、いまにもポロリと落ちそうな体勢で揺れていた。

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