案件と梅雨の終わり
夕方 楽
プロローグ
梅雨明けにはまだ遠かったが、珍しく青空の広がった六月下旬の午前中だった。
私はノートPCのデータを整理していた手を休め、デスクから立ち上がって窓際へいき、雑居ビルの三階にあるオフィスの窓を開いて室内に外気を取り込んだ。
オフィスはバス通りに面していて、湿気を多めに含んだ暖かい空気とともに、街の喧騒が一気に流れ込んでくる。
昨日まで降り続いていた雨も、今日は朝から上がっていた。まだ黒く濡れているアスファルトが、午前中の眩しい光を受けて、地表からくっきりと浮かび上がって見える。
穏やかに風が吹いて、ちょうど目の高さで緑色に輝く街路樹のフウの葉が、さわさわと揺れ動く。風は、そのままふんわりと私の顔に当たる。
風からは、夏の匂いがした。
正確には、もうすぐ訪れる夏本番を予感させる匂いということになるが、梅雨の晴れ間に鼻腔を刺激するこの匂いには、忘れかけていた遠い夏の記憶を呼び起こす働きが備わっているようだ。
思い出せそうで思い出せない甘い記憶の手触りを楽しんでいると、突然、固定電話の呼び出し音が鳴りだした。電話のベルというのは、人の思考を中断させることにかけては間違いなく天才だ。
私は、何か大切なものを取りあげられたような気分になりながら、デスクのほうに戻って受話器を取る。
「ご不要になった貴金属やアクセサリーなどございませんでしょうか?」
受話器の向こうで若い女の声が早口でしゃべりだす。金の価格が上昇すると、決まってこの手のセールス電話が増えてくる。
「いや、今のところそういった……」
早々に断って切り上げようとすると、
「ただいまキャンペーン中で、どんなものでも一点から高額買い取りさせていただいております」
「どんなものでも?」
「はい、古い指輪ひとつでも、なんでも」
自信満々に女が答える。
「では、僕の〈日常〉を買い取ってもらえませんか。アクセサリーとしては退屈極まりない代物ですが、ときどきちょっとしたスリルを味わえたりしますよ」
いま思いついたばかりのデタラメを返す。
「えっ? あ……」
女の声が凍りつく。
「ちょうど自分の〈日常〉に愛想をつかしていたところなんです。いくらぐらいになりますか? なんなら、すぐに仕事を始められるオフィスをオマケにつけてもいい」
ことさら真面目な口調でデタラメを続ける。
「……すみません、あの、また改めさせていただきます!」
慣れていないアルバイトなのか、電話は唐突に切れた。
私は窓際まで引き返してさっきと同じように外を眺めてみたが、期待していた甘い記憶の片鱗は、どこか手の届かない無意識の奥深くまで沈んでしまい、もはやその端緒さえつかめない。
しかたなく、記憶と戯れるのはあきらめて思考を切り替える。
そういえば長らく海を見ていない。こんな日にはさっさとオフィスを閉めて、海辺の街へでもドライブに行きたいところだ。窓を全開にした助手席で、潮風になびく髪を左手で押さえる自分好みの美女を、脳内のキャンバスに想い描いてみる。
いささかセンチメンタルな方向にイメージが広がりかけたが、その空想はまたしても唐突にシャットダウンされた。
私は頭を左右に振りながら、静かに窓を閉めて、壁のリモコンでエアコンの温度を二度ほど下げた。
なぜならここは、私こと由名時多朗(ゆなどき・たろう)がひとりで経営する年中無休の『由名時探偵社』で、たったいま、入口のドアのチャイムを鳴らした人間がいるからだ。
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