誘拐した男と結婚した話
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第一話
草原で生きる者たちは、皆それぞれの一族と暮らしている。街に定住するものや、住み家を変えるもの、親との話し合いで婚姻するもの、誘拐によって婚姻するもの。
私は十七で誘拐され、十八で誘拐した男と結婚した。
街で私を見かけたらしい。一目惚れという奴で、男は一も二もなく連れ去った。二回、朝日が昇ったのち、男の一族の元に辿り着いた。私は小さな建物に押し込められ、そこに閉じ込められた。男の母親がやって来て、息子自慢をし始めた。男は一族の長の息子だそうだ。年は二十四。狩りが得意で馬も羊の世話も真面目にするという。
私は無理やり連れてこられたと話した。婚約者もいる。返して欲しいと訴えた。
この一族にも誘拐婚の風習は無いという。かつてはあったそうだ。しかし男は連れ去った。自分の息子とはいえ男には逆らえないのだろう。母親は結婚を受け入れてくれと言った。
「本当に真面目な男ならこんなことはしない。私はお前の息子となど結婚しない」
ワザと強く言った。無礼な娘を演じれば里に返してくれると思った。実際母親は逆上した。怒って出ていった。今のうちに逃げ出したかった。入り口は一つしかなく見張りが立っている。布張りの建物だから耳飾りをナイフ替わりに破って裏から逃げた。周囲は見晴らしのいい草原が拡がっていた。放し飼いの馬が数頭、草を食べていた。飛び乗って走らせた。どこに行けばいいのか。太陽の位置を確認する。必死だった。
しかし長くは持たなかった。気づいた男が馬で追いかけてきて、こちらに飛び乗って無理やり手綱を取って止まらせた。逃げられないようにしっかり抱きかかえられ、連れ戻された。先とは別の居住に移され、足首に縄を架けられた。家畜よりも劣る扱い。腕には連れ戻される時に付けられた男の手の跡がハッキリと残っていた。
男は夜にやって来た。隅にいた私の腕を引き寄せて褥に寝かせた。男が覆い被さる。この為に連れ去ったのだ。抵抗したが、抵抗にならなかった。
私の背中を押して横向きにさせると、男も横になって、背中から抱きしめてきた。大きな手が私の手を握る。男の行為はそこまでだった。夜は長くて永遠に続くかと思われた。しかし朝はやがてやって来て、男は起き上がって去っていった。
母親は毎日説得に来た。その度に私があんまりにも暴言を吐くものだから、母親もムキになって、最後は金切り声のようになって詰っていった。気持ちの悪い、実に不快な時間だった。
男は毎日、夜にやって来ては朝方に去っていった。互いに言葉も交わさない。交合しない所だけ、母親の言う真面目が当てはまった。男と褥を共にした以上、たとえ故郷に戻ったとしても婚約者とは一緒になれない。悲しみたくは無かった。ただ怒りに任せて生きていたかった。一度でも弱気になったら、全て諦めてしまうと思った。
男が何日か来ない日があった。私はもしかして故郷に返してくれるのではと、まだそんな希望を持っていた。
女たちが急に入ってきた。布を抱えていた。どんどん積み重なっていく。その柄に、見覚えがあった。それは私が嫁入り道具として刺繍していた布だった。
次に男がやって来た。目の前に座ると男はターバンを取り帽子を取った。男は口を開いた。
「マハル」
どきりとした。自分の名を明かしたことはなかった。一気に汗が吹き出た。
「向こうの両親の了解は得た。まだ十七だそうだな。式は来年まで伸ばす」
男はわざわざ向こうの両親の元へ行ってきたのだ。嫁入り道具まで引き取って来て。カッと頭に血が上って、腕輪を外して男に投げつけた。
「お前を夫として迎える気は無い!私を故郷に帰せ!」
「もう決まった」
腕輪をもう一つ外してまた投げつける。男の胸元に、こすん、と間抜けな音を立てて落ちた。男は二つの腕輪を拾って傍らに置いた。
「ここでしか生きられない」
「お前がそう仕組んだ」
「ドルジだ」
「帰せ」
「無理だ」
怒りが収まらないまま、男を睨みつけた。男は目を細めてこちらを見ていた。
来年など直ぐだった。母親も来なくなり、一人で過ごした。年を超えて、自分で作っていた花嫁衣装を着せられて、男と式を挙げさせられた。注がれた杯を三度落として、周りに取り押さえられて無理やり飲まされた。
新しい住まいに移された。男は血のついた布を持って親類に見せた。処女であるかを確認する儀式らしい。私はまだ諦めたくなかった。逃げられるものなら、逃げ出したかった。
子が出来れば一族の者となる。男もそう思ったらしい。早く孕ませようとしていた。食事を禄に取らなかった。土地の食べ物が合わないから食べたくないと言った。桃や杏、果物ばかりを食べた。痩せていれば子は出来ない。出来たとしても桃や杏は血の巡りを良くしすぎて子が流れやすくなる。子が出来ないのは立派な離婚理由になる。早くそうなってくれと、祈る毎日だった。
果物の種は全て取っておいた。乾かしてすり潰して溜めておいた。
女がする仕事も、家の中でする仕事も、何もしなかった。母親は強く言ったが無視した。男は何も言わなかった。
積まれた布に寄りかかる。床に敷いているものが汚れてきたから新しいものに替えようと布を取り出すと、布と布と隙間から、何かがこぼれ落ちた。
それは一冊の本だった。手に取る。家で何度も読み返した本。恐らく母がこっそり入れてくれたのだろう。一気に涙が溢れた。
ずっと暇だったから、一冊の本を貪るように読み続けた。何度も読み返して擦り切れるほど。これだけが希望だった。
果物を男はよく持ってきた。種をすり潰した粉が大分溜まってきた。
歩くのが億劫で、一日中横になることもあった。禄に食べていないし、禄に外にも出ていない。体は重く、思考も鈍くなっている自覚があった。それでも
男の前では虚勢を張った。男と褥を共にしても、絶対に服を脱がなかった。事が済めばそっぽを向いた。
ある日、昼間なのに男が帰ってきた。険しい顔をしていた。椀一杯になった種の粉を手に取ると、外に投げ捨てた。それから私の腕を掴んで詰め寄った。
「何をする気だった」
聞いたこともないような、地を這うような声だった。私は初めて男を怖いと思った。
答えないでいると、男は服を脱がし始めた。裸を見て、男は動きを止めた。じっと私の身体を見ている。私も見下ろした。骨と皮ばかりの身体。浮き出た肋骨。死に向かいつつある身体。後は毒を飲めば終われるはずだった。死に損ねたと思った。
桃の種は毒になる。どこかで聞きつけてきたらしい。男は果物を食べさせるのを止めた。弱った身体に肉は受け付けなかった。ニオイがするだけで気持ち悪くなって食べられたものじゃなかった。米を水で溶いた粥が用意された。もう信じられないらしい。男が抱き起こして食べさせた。毎日服を脱がせて身体を確認していた。
男はまだ私を妻としておきたいらしい。男は仕事もしないで寝たきりとなった私の世話をし始めた。男のまつ毛が触れそうなほど顔を寄せて、じっとこちらを見ていた。何の感情も読み取れない無表情な顔。認めたくなかったが、ずっと怖いと思っていた。
身体は持ち直し、半年経てばまともな食事も取れたし、身体も多少は丸びを帯びてきた。男の世話も無くなり、何をするでもなく、静かに暮らした。男とは共に寝るだけで、何もしなかった。会話も無かった。
扉が僅かに開く。まだ男が帰ってくるには早い。母親の小言だろうかと思っていると、隙間から小さな男の子が顔を出した。まだ小さい。やんちゃ盛りの年頃だった。家を間違えたのだろうと思い、実際違うと言った。だが子供はヨタヨタとこちらに向かってきた。ニコニコ笑って、何て無邪気な。膝まで来て座り込んだので、私は再度違うと言った。
「オバケだ!」
男の子は指を指して唐突に言った。お化けお化けと何度も言った。そのうちに走り出して外へ出ていった。
呆気にとられるのと、そう見えるのだろうかと、周りからそう言われているのだろうかと色々考えてしまって、ずっと落ち着かなかった。
嫁入り道具を漁ってみると、小さな鏡が出てきた。少し曇っているが十分だった。顔を見てみると、確かにお化けと呼ばれても仕方ない顔色の悪さだった。土色で、唇は色がない。半年で回復したと思っていた。男が抱かない理由がよく分かった。そっと鏡をしまった。
外が騒がしかった。つられて戸から様子を伺う。人だかりが出来てよく分からなかった。女が半狂乱で子供を抱えて飛び出してきた。助けて助けてと叫んでいた。子供は頭から出血していた。あの子供だった。
子供に手当てを施す。止血して包帯を巻く。頭を冷やす。動かさないようにと言った。子供は力なくこちらを見ている。いたい、と言った。慰めるように肩を撫でた。
「おばけ…」
嫌なのかと思って手を引っ込めた。いたい、と言い出すのでまた肩を撫でた。
名を呼ばれて、幕屋の外へ。男が待っていた。帰ろうと肩を抱かれる。振り払って、一人で先に歩いた。
たった少し歩いただけなのに息が上がっていた。中に入るなり立っていられなくて座り込む。目眩がした。目を閉じる。後から入ってきた男に抱えられ、横になる。睡魔なのか気絶なのか分からない。直ぐに意識を手放した。
子供は無事回復したらしい。その子の母親が礼を言いに来た。ありったけの布を礼にと持ってきたので、何もいらないと断った。子供が描いたという絵だけは受け取った。私を描いたものらしい。目をまん丸に強調して描かれていた。本の栞代わりに使った。
別の女が来た。子供が熱を出したと。診てくれないかと。
その幕屋を訪れ、色々調べて、特に重い病というわけでもないと判断。水をよく飲ませて寝かせておけばいいと伝えた。夜中は熱が上がりやすいから水袋で冷やしてやるといいとも言った。女は干し肉を差し出した。断って帰った。
一人、幕屋に戻ろうと歩いていると、腕を引かれた。男だった。走ってきたのか珍しく息をきらせている。
「…どこに行く」
「帰るんだ」
「駄目だ」
「自分の家に帰って何が悪い」
「もうここの者だ。返さない」
何だか会話が噛み合わないと思った。思い違いをしているらしい。
「そこの家の子供が熱を出したから診てくれと言われた。終わったから幕屋に戻るところだった」
一から説明してやると、男も勘違いに気づいたらしい。腕を掴む手が緩む。その隙に振り払って、幕屋に戻った。
鏡を見る。相変わらず顔色が悪い。ずっと粥ばかりだから回復もしない。月の物もずっと止まったまま。何だかんだで一年になろうとしていた。
出された肉に顔をしかめる。男が割りほぐして皿の上に置いた。食べようとして、箸をおいた。
「里に帰りたい」
男は聞こえてないフリをした。
「子は出来ない。帰りたい」
「出来る。回復さえしたら」
「男は気楽でいいな。何の体の変化もない。女が勝手に産むのを待てばいいと思っている」
「子は必要だ」
「そう思ってんなら、それが出来る奴と結婚しろ」
「お前と全部する」
私は鼻で笑った。
「試しただろ?何度も子種を注いで。結果はこれだ。母親は里に返せとうるさいだろ。私が焚き付けてるからな」
男は肉を口に含んだ。私を睨むと、身体を押さえつけ、無理やり口移しで食べさせた。
それが毎日続いた。私の意思は無いものらしい。男もきっと私に愛想を尽かしているはず。連れ去った手前、今更返せないのだろうと思った。
口移しされるのが嫌で自分で食べた。豆のスープに混ぜればなんとか食べれた。冬が始まる前に、別の場所に移動になった。解体された家の材木と一緒に荷台に乗せられた。物と同じ扱いだった。
冬は厳しいが、幕屋の中にいれば大分マシだった。燃料を燃やし続ければいつまでも暖かかった。冬は男の仕事も無いらしい。家で過ごす事が多かった。矢を作ったり、壊れた道具の修理をしていた。私はひたすら縫い物をした。
男が運ばれてきた。子供を庇って崖に落ちたらしい。足を骨折していた。添え木をして固定する。男の世話を始めた。身体を清め、ちょうど縫い物が終わったので、男に着せた。いつもは男が作る料理も代わりにした。簡単に作って食べるよう言う。男が口を付けるのを待ってから自分も食べた。母親が杖を持ってくると、それを使って器用に歩いていた。
目が覚めると男の顔が近くにあった。男も眠っていた。起こさないようにじっとした。
嵐のような風の音。毎日のことだからこれが普通らしい。男に抱かれてると、温かさなのか、安心して寝られた。
いつの間にか身ごもっていた。月の物が来ないままだったのに。つわりが酷くて発覚した。男は意外にも余り喜んでいないようだった。男は鎮痛な面持ちで服を脱がせて腹に触れた。
「肋骨がまだ見えている。危険だ」
「望んでたじゃないか」
「女じゃなかった」
「はぁ?」
と言ってから月の物のことだと気づいた。
「身ごもるとは思わなかった。心配だ」
「…まぁ、出来たものは出来たんだ。うちは多産の家系だし、何とかなるだろ」
男は目線を落としたまま頷いた。私は何だかガッカリしていた。馬鹿らしいが、あんなに憎んでいたのに、喜んでくれるものだと思っていたのだから、現金なものだと思う。
つわりが終わると、食欲が増して、食べても食べても腹が減った。男よりも食べた。起きるなり腹減ったと言うので、男もさすがに苦笑して、直ぐに食事の支度を始めてくれた。
食べ物を分けてくれた女が私の腹を見て、もしかして双子かもしれないと言った。月数に対して大きすぎるらしい。男に伝えると、医師を呼んでくると言った。私は止めた。
「大げさだ。わざわざ行かなくていい。ここには産婆がいるんだ。任せておけばいい」
「…確かに、骨は見えなくなったが」
「そればっかだな」
「馬は痩せると肋骨がよく見える」
馬と同じか。肩をすくめた。
産婆に診てもらう。やはり双子だという。よく育っている。順調そうだが、食べるだけでなく運動するようにと言われた。歩くといいらしい。
幕屋の中でぐるぐる回ってみるが、狭いから居心地が悪い。そんな私を見て男は他所から楽器を借りてきた。弦が二本。男は歌を歌い始めた。私にも歌ってみろという。初めは男の真似をして小さな声で。慣れてくると手を叩いて一緒に歌った。ささやかな楽しみとなった。
嵐が収まって天気のいい日は外に出てみた。普段外になど出ないからここに来て一年過ぎているのに知らない顔ばかりだった。向こうも遠巻きに様子を伺っている。居心地悪く、集落から離れた場所に行った。どこを見ても草原ばかり。故郷はどの方向だろう。ふと思った。
遠くから馬に乗った人が駆けてきた。近づくに連れて男だと気づいた。男は馬から降りて私の肩を掴んだ。
「何処へ行く」
「行かない」
「なんでこんなところにいる」
「散歩だ」
「村から出てはいけない」
「遠くに行くつもりはなかった」
「本当か?」
私は頷いた。男は冷たい目で見下ろしている。いつもこんな目をしている。何を考えてるのか分からないのに、何かを訴えかけているような。私では理解できなかった。
男は抱き上げて馬に乗せた。後ろに男も乗って、ゆっくり村へ向かい始めた。目線が高くなっても草原しか見えない。初めは嫌だった草のニオイ。今はもう慣れてしまった。雨が降ると土のニオイが登ってくる。それも慣れた。男はいつも肉のような、毛皮を纏っているから毛皮くさい。これは慣れなくて、今でも鼻を掠めると男が近くにいるのだと気づく。大きな手が腹を擦る。節くれだった硬い指。働き者の手。そっと手を重ねた。すると腹に振動が。腹の子が蹴っている。クスリと笑う。後ろの男も笑っているに違いなかった。
男にそっと打ち明けた。
「子供が産まれたら、街に返してくれないか」
男は道具を拭いていた手を止めた。静かにこちらを見た。私は続けた。
「勉強したいんだ」
「勉強?」
「本当は、医者になりたかった。そのために勉強して、あの本も、その教科書だ」
かつての婚約者の家は、代々医師をしていた。父は苦心して、その家に嫁がせる約束をしてくれた。私自身、医者になりたかった。
「駄目だ」
男は冷たく言った。そっぽを向いて、また道具を拭き始めた。普通の反応だと思った。女が医者になど、考えられないのだろう。ほとんど諦めていた。
双子は無事産まれた。二人とも男の子だった。
出産してからずっと熱が引かなかった。子供の世話どころではなかった。目を開けていられないほど辛く、目も耳もよく聞こえなかった。
「マハル」
男の声だけはよく通った。薄く目を開けた。男は私の額の汗を拭った。
「桃を取ってきた。食べれるか」
いらないと言った。音にならなかったが、唇の動きで男は理解していた。
「好きだったろう」
本当は好きじゃなかった。元々、妊娠しないために食べていただけ。意識が遠退いていった。
「マハル」
頬が冷たかった。目を開けた途端、外にいるのだと気づいた。身体が動かない。それは厚着をしているせいだった。男が唇を寄せた。それは一瞬ですぐに離れた。
目を覚ます。ぼんやり天井を眺める。いつもの円形の天井じゃなかった。施された彫刻は、私の家のものにそっくりだった。
「マハル」
その声が信じられなかった。母の声にそっくりだった。視線をさまよわせる。直ぐ傍らに母が座っていた。私が返事をすると母は私の胸に顔を伏せて嗚咽した。
男は突然私を連れてやって来たらしい。もう直ぐ死ぬだろうと思って、故郷に帰りたいという私の願いを叶えてくれたらしい。男は私を預けると、直ぐに去っていった。
父が小さな木製の箱を見せた。中には小粒の金がたくさん詰まっていた。男が置いていったそうだ。詫びのつもりなんだろう。それだけの財産があれば、別に私なんかを盗まなくとも、もっと良い女を嫁に取れたろうに。
産後の肥立ちが悪く、医師が呼ばれて、治療を施していった。薬を沢山処方されて、薬を飲むために、無理やり食事を取った。懐かしい母の味。匂いを嗅ぐだけで涙が出た。母がそっと背中を擦ってくれた。
回復はしなかったが、取り敢えず死に近い状態では無くなった。視力も回復して、耳もよく聞こえた。起き上がっていられる時間も長くなった。
母は遠慮がちに向こうでの暮らしを訊ねてきた。男の悪口をこれでもかと聞かせてやった。すると何故か母は笑っていた。
歩けるまで回復してくると、しきりの向こうの男のことや双子のことを考えるようになっていた。今どうしているだろうか。元気に育っているだろうか。帰ってきたのに、帰りたいと思うようになっていた。
父に医師になりたいと言った。幼い頃から散々言っていたから父も私の気持ちをよく理解していた。本を沢山買ってくれて、先生も付けてくれた。やって来た医師は女性だった。南の大都市からわざわざ来てくださったらしい。私の身体の治療もしてくれた。短い間に沢山の事を教えてくれた。先生は飲み込みが早いと褒めてくださった。昼も夜も本を読んだ。母が心配して一緒に寝ようと言った。二人並んで横になった。窓からは星空が。涼しい風が吹いていた。
夢を見た。双子は大きくなって、私の膝で寝ている。頬を指でつついてイタズラしていると、男が注意してくる。男は私の頬をつついて微笑んだ。
冬が過ぎ、春になった。母は何度も止めたが、父に諭されて最後は見送ってくれた。馬に乗って何日も西を目指した。集落を見つけるたび訪ねた。一族の親戚だという人が現れて、近くまで案内してくれた。
幕屋が集まる場所が。頂上ではためいている旗に見覚えがあった。近づこうとして、このときになって急に不安が胸一杯に広がった。もう男は別の人を迎えているかもしれない。私は子供を育てられなかった。十分あり得た。
馬から降りる。馬に寄りかかって、その集落を眺めていると、一頭の馬が飛び出してきた。どんどんこちらに近付いてくる。馬に乗っていたのは、私の夫だった。
馬から乗り捨てるように乱暴に降りると、男は息を切らしながら私を見下ろした。私は緊張していた。ここまでやって来たのに、何を話せばいいか分からなくなっていた。
「…体調は、良さそうだな」
男は絞り出すように言った。同意するように頷く。
「回復したのか?」
「しないと、ここまで来れない」
「一人で?」
「ああ」
「女の身で…よくここまで。また身体を壊してしまう。はやく家に、」
言いかけて、男は一瞬、迷ったように口をつぐんだ。それから、静かに語りかけるように言った。
「家に、戻ってきてくれるか?」
男の瞳は揺れていた。一年近く会わなかったのに、男が何を望んでいるのかありありと理解できた。それは私の望む答えで、私も同じ気持ちだった。
双子は大きくなってやんちゃしていた。はいはいをして掴まえるのが大変だった。男は慣れたものらしい。ひょいひょい掴んで、一匹を私に抱かせた。
上の子がカルフで下の子がカイトと名付けられていた。双子でも顔が違うから間違えなかった。
初めは見たことのない母親が現れて双子は遠巻きに様子を伺っていたが、母乳を与えると寄ってくるようになった。短い期間でも、この子達に乳をやれて良かったと思った。
私は男に木箱を返した。本代や教師代、治療費で少し減ったが、ほとんど手を付けなかった。男は傍らに置いた。
「昔、出稼ぎしたときに稼いだものだ。こんなもの、ここでは羊よりも価値の低いものだが、役に立ってよかった」
「子どもたちが飲み込まないように隠しておいてくれ」
「ああ、マハル」
「ん?」
「愛している」
「…どういうつもりだ」
「どうとは」
「急にそんなこと言い出して、何を企んでるんだ」
「なにも」
男は平然と言った。
「もっと早く言うべきだった。言いたいから言った」
「…馬鹿」
気まずくて顔をそむける。顔が熱いような気がした。
双子が膝の上で寝ている。指でつついてやると、それを見ていた男が私の頬をつついた。
四人でくっついて眠った。真ん中に双子を挟んで、すやすやよく寝てくれた。男が寝返りを打つ。双子を潰してしまいそうで、腕を伸ばして肩を叩いた。男は目を覚ました。
「もうちょっと双子から離れてくれ。潰しそうだ」
男は起き上がって私の隣りで横になった。背中にピッタリくっつくと、直ぐに寝息を立てた。子供が三人いるような気分だった。
歩くようになると、今まで以上にやんちゃになった。私が座っていると膝に抱きついて、立っていると足に抱きついてきた。抱き締めると抱きついて、小さな手で私をしっかりと握りしめていた。
あーとかまーとか言っていた双子が、ママ、と言った。教えていたわけではない。男も私のことは名で呼んでいた。男に言うと、飯の「まんま」だろうと言われた。
「子供はよく聞いている。そろそろ言葉を教えていこう」
「お前なんて呼べないな」
意地悪く言ってやった。男はチラリとこちらを伺うように見た。
「そろそろ、名で呼んでくれないか」
「言ってなかったか?」
「聞いたことがない。俺の名前、覚えてるか?」
間髪入れず男の頬を引っ張ってやった。硬くて全然伸びなかった。
「ドルジ」
羊追いから帰ってきた男に呼びかける。ドルジは振り向いた。カルフとカイトは私の足にしがみついている。ドルジが近づくと口々に小さな声でお帰りなさないと言っていた。双子の頭を撫でた男は、最後に私の額に額を合わせた。昨日から熱が出ていた私を気遣っての事だった。
「…まだ熱があるな」
「熱冷まし飲んだから大丈夫。それより言ったもの、採ってきてくれたか?」
ドルジは小さな袋を見せた。沢山の薬草。よしよしと頷いた。ドルジは二人に母から離れるように言った。言いつけどおり二人が離れる。ドルジは私を抱きかかえた。それからさり気なく触れるだけのキスをして、家に帰った。
体調は、結局回復しなかった。月の物が来ないから、恐らくもう子供は望めない。ドルジも分かっていて、何も求めなかった。
様々な薬草を乾燥させて薬を調合した。薬が必要な人たちに配った。
水を貰いに行った後、ドルジが他の男と話しているのに遭遇した。咄嗟に建物の裏に隠れた。
「次の子供まだ出来ないのか?」
「もう作らない」
「たった二人?」
「別れたらどうだ」
「俺が無理に連れてきた。俺のせいで身体が弱くなった。これからは、出来るだけ望むことをさせてやりたい」
「そんなんじゃ一族の長になれないぞ」
「構わない。ここを追い出される事になっても。昔、西で働いていたから、なんとかなるさ」
男たちは口々にまだ何か言っていた。そっとその場を離れた。
幕屋に戻ると入り口で、女が待っていた。子供が熱を出したという。熱冷ましを与えた。
男はたくさん集めてきた薬草を幕屋の中に入れようとした。慌てて止めた。
「ごみが散らかる。外で選別する」
外で一つ一つ使えるものと使えないものを別けていく。いつしか女ばかり、人だかりが出来ていた。
何をしているのかと聞かれたので、薬を作っていると言った。どんな薬が作れるのかと聞かれ、色々答えた。どこそこにこれが咲いていたとか、そんな話になっていった。
ドルジが現れると皆一斉に退散していった。目で追いながら、ドルジはどうしたと訊ねてきた。薬の話をしていたと答えた。
「本当か?」
「嘘つく意味が無い」
「肩身の狭い思いをさせている」
「面と向かって言ってくるのはお前の母親くらいだ。皆子供が大切らしい。薬の話しか聞かれなかった。本当だ」
選別を終えて立ち上がる。ドルジは薬草を一まとめにして肩に乗せた。その後ろをついていった。
女達がいろいろな草を持って幕屋に入ってくるようになった。一つ一つ見て、何に効くとか効かないとか、これは取り扱いが難しいから使わないようにとか、そんなことを教えた。人がやって来るのが煩わしいが、同じ年頃の子供が来て面倒を見てくれるのは助かった。女たちと薬以外の話をする事が多くなった。彼女たちは専ら噂話が大好きで、色んな家の事情に成通していた。縫い物をするようにお喋りを楽しむ。それが彼女達の生き方だった。
母さま母さまと子どもたちが呼ぶ。腕を引っ張られて座り込むと抱きつかれた。ドルジは子どもたちに狩りを教えこんでいた。厳しい教えらしいから、その分母親に甘えているらしい。私はたくさん甘やかして、子供の好きなものばかり作った。子供が狐やウサギを仕留めてきたら、私は声を上げて喜んだ。すると二人は競って獲物を獲ってくるようになった。
「母さま、お外行こう」
「今日も狩りだろ?」
「母さまも一緒に行こう」
「邪魔になるから、ここで待ってる。気をつけてな」
「やだ!一緒に行く!」
頑固なのは父親似か。やれやれと立ち上がった。
狩りの様子を遠目で見る。子供用弓矢を器用に操って、獲物を追いかけていた。ドルジと三人で鹿を追い込み、矢を放つ。どれかが命中して鹿が倒れる。一瞬のことで、見事な連携だった。子どもたちが手を振る。私も振り返した。
子供達に文字を教えるのは私の役目だった。地面に一文字ずつ書いて覚えさせた。名前が書けるようになると何処でも名前を書きはじめた。弓矢の柄にも一本一本書いてあるのを見たときは、しばらく笑いが止まらなかった。子供は面白い。いつまでも見ていたくなる。母になれてよかったと思う。
ドルジは子供には笑いかけない。私にも滅多に表情を見せない。必要なことしか話さない。いつものことだが、母親とは絶え間なく話しているのを知っている。妹ともよく話しているようだ。
その妹が、よく眠れないと相談に来た。診察すると頭が温かった。眠るときに水枕して冷やすと眠れるだろうと教えた。妹はお礼を渡そうとしてきたが、薬を処方してないからいらないと断った。その代わり、と聞いた。
「ドルジとはよく話してるようだが、何を話してるんだ?」
妹は驚いた顔をして、それから笑いだした。
「貴女の話ですよ」
「私の…?」
「何を食べたとか、子供とこんな話をしていたとか、何をしていたとか、だから私、貴女が毎日何をしているのか全部知ってるのよ」
「監視してんのかアイツ」
「兄さんは昔っから無口だけど、好きなものになると誰かに話したくて仕方なくなるらしいの。小さい頃は上手く作れた矢とか、お気に入りの馬とか、ずっと聞いててうんざりだった」
妹はまたくすくす笑いだした。
「でも貴女が来てからは、ずっと貴女の話だけ」
「何だか嫌だな」
「ごめんなさいね、私は誰にも言いふらしてないから安心して。お母さまもきっと、誰にも話してないと思うわ」
頭を掻いて、誤魔化す。恥ずかしい気持ちを見せないようにしたが、無理だった。
「…ドルジは、何も話してくれない。子供たちにも冷たいし、狩りも厳しいみたいで、ここの男は皆そういうものなのか?それともドルジだけがそうなのか?」
「厳しいのは当たり前です。ここは夏に蓄えておかないと冬では死ぬ人もいます。だから狩りが上手くないと、生きていけません」
「私は…そういうのは違うと思う。ちゃんと褒めてやらないと、出来るものも出来なくなる」
「褒めるのが私たち女の役目だけど、家には家のやり方があります。マハルさんは遠くから来られた方だから考え方が違います。兄さんとよく話し合ってみては?頑固者だけど、貴女の話なら聞いてくれるはずです」
私は頷いた。妹はそっと手を取った。
「今度は私とお話しましょう?兄さんの話、聞かせてあげます」
ドルジが帰ってくる前に飯の支度を始めたが、少し遅かったらしい。終わらないうちに帰ってきた。後ろから双子も顔を出した。幕屋に入るなり外套を外して、それを振り回して遊びだしていた。
ドルジは匂いで直ぐに分かったらしい。目だけで訴えてきた。
「これ、お前の好物だと教えてもらった」
鹿肉を焼いてスープにつけたもの。ドルジは鍋に視線を落とした。
「誰から」
「妹。香辛料も分けてもらった」
「マハルは好きじゃないだろう」
「言った覚えない」
「匂いの強いものは嫌いだと言っていた」
「いつの話か知らんが、もう十年もいるんだ。いい加減慣れてくる」
適当に味付けして味見してみる。これでいいのか分からなくてドルジにも味見させた。無言でお玉を返される。これでいいらしい。鍋を回した。
「マハル、今日は体調がいいな」
「体調じゃなくて、機嫌がいいんだ。妹からいろいろ聞いた。夜の暗がりを怖がって母親にしがみついていたとか、自分だけ獲物が捕れなくて泣いてたとか」
「そんなことを話したのか」
「情けない話がたくさん聞けて気分がいい」
「昔の話だ」
「カルフとカイトは兄弟がいない。私しかあの子達を優しく出来ない。だから、ドルジももっと優しくしてやってくれ」
「分かった」
あっさりとドルジは言った。あんまりにもあっさり。私は目を細めた。怪しんでいるのを察したのだろう。ドルジは口を開いた。
「だが強くなって欲しい。狩りは続ける」
「ああ」
「マハルに似てきたな」
「そうか?ドルジに似てる。カルフなんか本当に小さいお前だ」
「可愛いから、何でもしてやりたくなる」
「そんなこと思ってたんなら、してやってくれ」
ドルジはそっと私を抱きしめた。いつもこの男は温かい。男のニオイを嗅いだ。
「ドルジ、今夜、双子は妹の幕屋で世話してくれる。だから、」
「必要ない」
「あの子達を身籠ってから、お前は一度も求めなかった。でも、お前だって男だろ。まだ若い」
「負担になる。こうして傍にいてくれるだけでいい」
「…分かった。私…私がしたいんだ。身体を重ねたい。気持ちよくなりたい。…ドルジと」
ドルジは身体を離して、マジマジと私を見てきた。私は目を逸らした。
「…こ、子供はもう出来ないけど…そういう事はしたい…」
絞り出すように言った。恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。顔を伏せて手で隠す。男は私の腕に手を滑らせて、手に手を重ねると、そっと外した。マハル、と囁くように名を呼ばれる。一気に緊張が高まって、でも期待もしていた。
「先に飯だ」
「……………」
「冷めるだろう。早く食べよう」
私が呆気にとられているうちに、手が離れて、男は小皿を取り出した。いつもの澄まし顔。こちらは覚悟して言ったのに。女から誘うなど、はしたないと分かっているのに、さらりと躱されて、緊張はすっかり解けて恨めしく男を睨んだ。
スープを注ごうとする男の手が、ふと止まった。小皿を置いて、鍋に蓋をした。すると男はやや乱暴に私を押し倒した。首元に舌を這わせ、貪るように求めだした。突然の豹変に驚きつつ望んだ結果になって、自ら身体を差し出した。
翌日熱を出した。子供は引き続き預かってもらって、ドルジが私の世話をしてくれた。
「マハル」
幕屋の中、ドルジが被り物を取った。眠るにはまだ早い。私の前に座って、改まったように切り出した。
「廟参りに行かないか?」
「廟参り…どこに?」
「レセトまで。少しかかる。二日あれば着くが、大事を取って三日かけて行って帰ってくればいい。子は母に見てもらえばいい」
「廟参りだなんて、新婚旅行みたいじゃないか」
「そのつもりで提案している」
私は苦笑した。この年で新婚旅行だなんて。でも、やっと最近、夫婦になれたような自覚もあった。良い機会だと思った。
「旦那さま」
初めて言ってみて、何だか照れくさかった。男も不思議そうに目を瞬かせている。
「夢だったんだ。旦那さまと、そういう所に行くの。母さまから何度もそういう所に行った話を聞いていたから。羨ましかった」
「…すまなかった」
「違う。いや、違わないが、昔のことはもういいじゃないか。連れてってくれるんだろ?楽しみだ」
男は微笑んだ。私が笑っているから、向こうも笑った。
二人で廟参りへ。私の体調が良かったのもあってスルスルと目的地に着いた。見慣れない大都市の街並み。私がいた故郷よりも何倍も広くて、人も多く、雑多だった。ドルジは私を守るように肩を抱きながら人混みを上手い具合に進んでいく。出稼ぎをしていたから、これくらいの街くらい平気なのだろう。頼もしかった。
廟は全面彫刻が施されていて、大きかった。中に入ると暗く影になっているからか、とてもヒンヤリして、少し音を立てるだけで反響した。祭壇に供え物をして、拝礼する。本来なら子宝に恵まれるのを願うが、もう叶っている。夫と子供たちの安寧を願った。
街は何でも物に溢れている。私は薬草と本を。ドルジは子供の為に算盤を買っていた。持ち運び用に、小さいものが欲しかったらしい。
宿に泊まる。最上階の三階の部屋にしてもらって、窓からは街が一望出来た。飯の自宅で、あちこちで窯の煙が上がっていた。昼間見た廟も小さく見えた。初めは一人で眺めていたが、荷物の整理を終えたドルジも一緒になって、外を眺めた。
帰りの道中、私は何気なしに言った。
「何だか、帰るの勿体ないな」
「もう少し滞在するか?」
街を離れてしまえば、見渡す限り草原だった。同じ草原でも、私たちの住んでいる草原とは景色が違った。そんなことが分かるくらいには、私も草原の暮らしに馴染んでいた。
「いや、子供たちにも会いたい。土産も買ったし、名残惜しいだけだ」
ドルジは頷いて、こちらに馬を寄せてきた。私が乗っている馬と、ドルジの馬が互いに顔を擦りつけあっている。仲の良い二頭は放牧させてもいつもピッタリ寄り添っている。
ドルジも身を乗り出して額に口づけした。それから目、頬に触れて、唇を合わせた。触れるだけで直ぐに離れる。私はそっと目を開けた。ドルジは既に身を引いてズレた服の合わせを直していた。様子を見るようにこちらを一瞥する。すると、ふ、と柔らかな笑みになった。
「名残惜しいが、帰るか」
「…ドルジ」
「なんだ」
「そんな顔も、出来たんだな」
ドルジの顔が無表情に戻る。今度は私が身を乗り出した。ドルジが腕を伸ばして支えてくれた。ドルジの首に手を回して唇を押し付けた。男の舌を味わって、いつ終わるかもしれない幸福に身を委ねた。
誘拐した男と結婚した話 112 @yaekomama55
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