第21話
父が救急車を呼んで同乗し、
「私がみどりをつれていったから……どうしよう。みどりが死んじゃったら」
お店屋さんごっこの最中に父から出かけると言われて、遊び足りなかった雪花が駄々をこねて碧を連れて行った。
どうせまただだっ広い山の中で変なお祈りに付き合わされるのだ。碧と一緒なら退屈しないですむという軽い気持ちだった。
「雪花のせいじゃないよ。パパが病院へ連れて行ってくれたから大丈夫。私たちはさきにおうちに帰りましょうね」
母は肩を抱いて優しく励ましてくれたが、雪花の頭には碧が飛び降りた一瞬の出来事が焼き付いていた。
──あれはいつものみどりじゃなかった。
祈祷の間、雪花と碧は大人たちの目を盗んで塔に忍び込んだ。普段は行儀よくしている雪花だったが、活発な碧が一緒だと大胆になる。
はじめて入った塔のなかは空っぽで、壁をくりぬいた高い窓から日が差し込んでいるだけだった。珍しいなにかを期待していた雪花はがっかりした。
「せつか! 階段がある!」
ぼんやりと光の筋を眺めていた雪花を碧が呼びに来た。円形の塔の入り口付近が不自然に歪んで死角になっている。細長い通路を行くと、上に伸びる石の階段があった。
「すごい! 行ってみよう!」
暗い階段を上っていくには勇気がいったが、碧はためらいなく足を進めた。塔に沿って曲がった階段はすぐにその背を隠してしまう。
「みどり、まって!」
雪花は後ろを振り返りながら小さく呼びかけたが返事はなかった。あまり大きな声を出すと外にいる大人たちに気づかれてしまう。仕方なく、一歩踏み出した。
階段は長く感じた。石壁に沿ってゆるくカーブし続けているので、どこまでも続いているように錯覚する。しかも、人一人がやっと通れる幅で、閉塞感があった。窓の一つもなく昼間なのに薄暗い。
──なんかいやだなぁ……。
諦めて引き返そうかと思い始めた頃、やっと明るい光が差し込んでいる出口が見えた。雪花は転びそうになりながら、駆け足で外へ出た。
「……なにここ」
そこは不思議な空間で、なにより危なかった。真ん中に大きな穴が開いていて、そのぐるりをドーナツ状の廊下が囲んでいる。廊下、といっても建物と同じ石造りで柵もなにもない。
知らずに飛び出した雪花は、目の前にある落とし穴を覗き込んで息をのんだ。下はさっきまで自分たちがいた場所だとわかる。
「せつか!」
落ちなくてよかったと安堵する暇もなく、碧の声がして顔を上げる。
「……みどり?」
碧は雪花と向かい合う形で反対側にいた。なぜか足を窓にかけたまま、こちらを見ている。
「なにしてるの? 危ないよ!」
碧は笑っていた。止めなければ、とすぐに思った。なにかが、いつもの碧と違っていた。
「大丈夫だよ! ねぇ、すごくきれいなんだ。せつかも一緒にいこう!」
「だめ! みどり! 戻ってきて!」
窓の外を指し示している碧は雪花が声を荒げるのを不思議そうに見つめた。赤ちゃんみたいな透明な目だった。
──あれはみどりじゃない。
雪花が駆け寄ろうと立ち上がった瞬間、碧は飛んだ。笑いながら。
「大丈夫、大丈夫。雪花は悪くないよ」
頭を撫でてくれる母の手は温かかった。
──誰かがみどりをあやつってたんだ。
碧は足から落ち、地面が柔らかかったため奇跡的に何針が縫う軽傷で済んだ。後日、見舞いに行った雪花が聞いても碧は何も覚えていなかった。
「これ、あげる。私がママと一緒にぬったの」
ショックでふさぎ込んでいる雪花を見かねて、母が提案してくれたのだった。白いハンカチに刺繍をしてプレゼントするとお守りになるんだよと言って。
雪花は碧の好きだったカモメの刺繍を母に教わりながらやった。母はお揃いになるように同じハンカチにすみれの花の刺繍を入れてくれた。
「あ、カモメだ。かわいい!」
「だからもう危ないことしちゃだめだよ」
碧はきょとんとした顔をしていた。覚えていないことを言われてもと思ったのだろう。でも、雪花の顔を見て頷いた。
「これを見たら、私が言ってたこと思い出して」
「うん」
実際に碧はハンカチを気に入ったのか、怪我をした足に巻いて何度も眺めていた。雪花を安心させようとしていたのかもしれない。
それから数日して、碧の母親が家に来た。親戚のはずなのに、碧とはよく遊んでいたのに、碧の母とは数えるほどしか会っていなかった。でも、その数回の印象が強烈に残っていた。
「きれいだね、みどりのママ」
「……そうねぇ」
のちのち母にそう言ってしまったことを激しく後悔した。
でも、その時は何も知らなかった。母は父と話をしにきた碧の母に、丁寧に紅茶を淹れていた。穏やかに微笑んでさえいたのだ。
母についていくと、父の部屋から言い争うような声が聞こえてきた。
「……から……に……なんて信じられない! みどりは……ないでしょう!」
おそらく碧の母の声だったが、続いて何か答えている父の声は聞き取れなかった。母も入るのをためらっているうちに、ドアが激しい音を立てて開いた。
美しく巻いた長い髪を揺らして、碧の母が出て来た。すぐに外にいた雪花と母に気づいて一瞥すると立ち去ろうとする足を止めて、こちらに近づいてきた。あまりの迫力に雪花は母の後ろへ隠れた。
「あ、紅茶を……」
「ここでいただきます」
碧の母は雪花の母が淹れた紅茶をその場でひと息に飲み干すと、ふーっと長いため息をついた。
「ごちそうさま。ちょうど喉がかわいてたの」
「よかった」
雪花が母の後ろから顔を出すと、碧の母は目線を合わせて言った。
「いつも碧と遊んでくれてありがとうね」
頭をひと撫ですると、そのまま踵を返して去っていった。たぶん五分もしない出来事だった。香水のいい匂いがしばらく残っていた。
「……変なひと」
母がぽつりとつぶやいた。
あの時、母は父と碧の母の関係について既に知っていたのだろうか。祖父の日記には母も承知しているようなことを書いてあったが、果たして本当にそうだったのか。
雪花が疑ってしまうほど、母には敵意みたいなものがまるでなかった。まるで困った人だとでも言いたげで、碧の母のほうにも親しみがあったような気がする。
その件はそれで終わったかに見えた。碧はリハビリを終えて退院し、傷は残ったがどんどん元気になった。
しかし、今度は母が急に入院することになった。
「ママはしばらく検査のために留守にするからね。雪花はいい子にして待っててね。碧ちゃんも遊びにきてくれるから」
「すぐに帰ってくる?」
「うん。きっとね」
そう言ったのに母は結局帰ってこなかった。雪花はその頃の記憶があまりない。碧が塔の上から飛んだ瞬間は鮮明に覚えているのに、そこから母が亡くなるまでの記憶はおぼろげだった。
毎日、雨が降っていた。梅雨時期だったのだろうか。
お手伝いさんが来て、雪花の面倒を見てくれた。父は前より家を空けるようになって、帰ってくるときは碧が一緒だった。それがとても嫌だった。
碧は以前と変わらず遊びに誘ってきたが、雪花は断って勉強することが多くなった。いい子にしていればまた母が帰ってくると信じていた。
──ばかみたい。
葬式に参列した人たちは早すぎる母の死を悼みながらも、好き勝手にひそひそと囁きかわしていた。「呪いだ」「祟りだ」と言ったり、「愛人はきてないのか」とか。
雪花はすでに言葉の意味合いをなんとなく理解していたが、その全てが空虚だった。ただ、父の横ですみれの刺繍のついたハンカチを握りしめていた。
──みどり、何してるんだろ。
結局、碧と碧の母は現れなかった。こんな時に限って来ないなんて、と親戚たちは呆れていた。父は何も言わなかった。ただ長いこと母の顔を眺めていた。
数週間後、父に連れられた碧がいつものように家に来た。
「お母さんが変」
「……変って?」
「せつかのお母さんが死んじゃったのがショックで暴れてる。だからしばらくこっちに泊まるんだって」
碧は何も理解していないようで、父から説明された言葉を反復しているだけだった。雪花は怒りに似た気持ちが湧き上がるのを感じた。
「なんでみどりのママがショックなの? 私のママなのに!」
葬式の時にも出なかった涙が頬を伝った。雪花は持っていた鉛筆や机の上にあった本やノートを全て地面に投げつけて、声を上げて泣いた。いつの間にか目の前にいる碧も泣いていて、二人の声を聞きつけたお手伝いさんが慌てて飛んできた。
それから碧は雪花の家にいたり、マンションに帰ったりを繰り返すようになった。雪花は無心に勉強することで母のいない寂しさを紛らわした。
碧とは親戚よりは親密で、姉妹よりは距離がある関係を保っていた。学校はずっと別々だったから、成長するにつれてお互いに深く干渉することは少なくなっていった。
「雪花、最近私おかしくない?」
中学校に入ってしばらくしたある日、碧が急にそんなことを尋ねてきた。
「たまに記憶が飛ぶときがある」
「いつもぼーっとしてるけど」
「んー……そうじゃなくて。ああ、あの時みたいな感じ。どっかから飛び降りてけがした時」
忘れかけていた記憶がよみがえって、雪花はぞっとした。碧はいつもの能天気な口調で足をそっと撫でている。後遺症も残らず、今では小さな傷があるだけだった。
「私の前では変わらないけど……大丈夫なの?」
「たぶん?」
「たぶんって……」
碧の母は海外と国内を行ったり来たりしていた。俳優業は引退したが、たまに雑誌などのインタビューは受けていたようだ。それも段々とやめて、完全に移住するらしいと父から聞いた。
「今、家に一人でしょう? 病院とか……」
「大丈夫だよ。学校が忙しいせいかも。今度、文化祭で出し物するんだ」
まるで雪花に大げさだと言うように、碧は笑った。
「ならいいけど……学校、楽しそうね」
「うん。楽しいよ、仲良しの友だちもできたし」
雪花は碧も海外に行くつもりなのか聞きたかったが、なんとなくその時は聞かなかった。
それから、ぱったりと碧は家に来なくなった。以前から母親が帰ってきている間や特に理由がなくても来ない期間はあった。雪花も学業に忙しく、碧ばかりを気にしていられなかったのもある。
だから、父が学校から呼び出しを受けて碧を連れ帰った時はびっくりした。半年もしないうちに碧はもともと痩せていたのが更に細くなり、頬はこけ、青白くなっていた。
「碧⁉ どうしたの⁉」
「……雪花?」
呼ばれて機械的に返事をした碧の目には生気がなかった。以前はぼんやりとしていても、ぱっと目を引く存在感があった。まるで碧の体だけがそこにあって、中身が入れ替わってしまったようだった。
「雪花、碧と大事な話があるからちょっとだけ二人にしてくれ」
父にそう言われて、その場は碧も引き下がるしかなかった。部屋に戻るために一度は歩き始めたが途中で立ち止まると、父の部屋へと再び向かった。
どうしても気になって仕方なかった。
──あの時、どうしてドアが少し開いてたんだろう……。
戻らなければ、そしてドアが開いてさえいなければ雪花は父の言葉を聞かずに済んだ。雪花は自分の運命が変わるとも知らずに、ただ碧に何があったのか知りたくてドアの隙間からこぼれてくる声に耳をすませた。
「私は絶対に君だけは守ると約束したんだ」
***
祖父の残した日記を読んだとき、雪花は父の言葉の本当の意味を知った。
──私は愛されていなかった。
ただ、直感的にそう確信した。用心してカップに注いだ最後の一滴が溢れだすように理解したのだった。
父の声のトーンや力強さ、優しさを碧がどう受け止めたのか。雪花はすぐにその場を立ち去ったので、後の会話はわからない。
「私は来年の卒業制作をできるだけ遅らせて、中止に追い込めればそれでよかった。表向きは父に従いながら、あなたたちを利用して映画制作をひっかきまわして時間稼ぎがしたかった」
「この茶番もそのためか?」
「表向きはあなたの反応を見て、過去の事件について本当に何か知っていることはないか確かめるため。でも父は碧の降霊術を過敏すぎるくらい嫌がっていたから……撮って送りつけてやるつもりだった。」
碧の憔悴した姿を見せれば、父からなんらかの反応が引き出せると思った。雪花は星斗に向かって喋りながら、全てを押し隠せている自信はなかった。
「でも失敗した」
雪花は画策が失敗に終わったことを悔やみながら、どこかでほっとしている自分がいた。
「私は準備会の会長として最低な行いをしようとしてた。やるべきことをやったら、もう降りるつもりでいるけど……烏丸君の脚本を通してあげることもできない」
「別にいいさ。どうなっても俺が選ばれるように書くだけだ」
星斗はちらりと紅太郎を振り返って言った。宣言通り後ろで大人しくしていた紅太郎がカメラから目を離して、軽く頷いている。
あんな風にしがらみのない、ただの幼なじみになれたらどんなによかっただろう。
「雪花。私は……」
それまで黙って星斗との会話を見守っていた碧が口を開いた。言いかけた言葉を聞きたくなくて、かぶせるように雪花は言う。できるだけ冷たく、突き放すように。
「碧、ごめんなさい。私はあなたの降霊術を利用したの。自分の復讐のために」
手を振り払った時に雪花の気持ちは伝わったはずだ。星斗や他の人間はごまかせても碧には通用しない。
「雪花、知ってたよ」
「碧……?」
碧はすぐ近くまで来ると、真っ直ぐに雪花を見つめた。手を振り払った時の動揺した様子はすでになくなっていた。静かな湖面みたいな瞳に雪花が映っている。
「ずっと私のこと、恨んでたよね」
雪花は唇を噛み、顔を背けた。それまで碧と過ごした日々が逆再生されて、ぱちりと止まる。初めて会った日、碧はひとりで遊んでいた雪花を誘って立派な砂の城を作った。
──なんで今、そんなこと思い出すんだろう。
「それでも一緒にいてくれて、ありがとう」
碧が差し出した手を、雪花は取らなかった。
「ばかにしないで」
「……ごめん」
足元から寒気が上がってくる。クシュン、という小さなくしゃみが碧の背後から聞こえた。
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