第18話

 川瀬かわせみどりは具合が悪いふりをして北山きたやま雪花せつかの実家へ帰っていた。


「ムエット、久しぶり」


 雪花の家にいる犬のムエットは昔、碧が拾ってきた。雑種のはずだが随分大きくなった。あまり来なくなって久しいが、いまだに碧を覚えているのかしっぽを振って近寄ってきてくれる。


「碧、暗幕ってこれで足りる?」


 ムエットを撫でている碧に向かって、大判の黒い布を広げながら雪花が言った。


「いけるいける。レンタル?」

「ううん、買ったの。特注よ。あの塔の高さをカバーしようと思ったらレンタルなんて無理だった」

「ふふ、すごい」


 広い屋敷には雪花と碧しかいない。雪花の父は海外出張で帰って来ていないし、雪花も寮住まいだから普段は長く通っている手伝いの人が家とムエットの世話をしていた。


「久しぶりだね、こういうの」


 碧は懐かしかった。昔はよく雪花の家で二人で遊んでいたのに、いつの間にかお互いに話さないことが増えていった。


「そう? 寮と変わらないじゃない」


 二日ほど、学校に病欠の連絡をして休んでいる。降霊術の準備のためだった。碧が一人でやると言ったのに、雪花も学校を休んだ。


「私がはじめたことだから」

「いいのに」


 雪花は律儀だ。碧はそれほど頭が回るほうではないから、雪花の立てた計画に従うと最初から決めていた。どちらがはじめた、とかではない。


「お父さんから連絡あった?」

「いいえ」


 冷たい声で雪花は答える。黒い暗幕用の布の端を折って、等間隔に待ち針を刺していた。その姿は、幼い頃見た雪花の母親の姿に重なった。


「いつ帰って来るんだろう」

「父は何か察していて逃げてるんじゃないかって思うの」

「察してるって……私たちが事件について調べてるのを?」


 雪花は黙って頷いた。

 高校入学後、雪花の父親が帰ってきたのは祖父の葬式と夏の休暇の二度だけだった。それもとんぼ返りだったり、会社関係の付き合いでまともに話す時間はとれなかった。


「昔、碧があの建物から飛び降りたのを覚えてる?」

「うん。ひどい怪我して雪花が泣いてた」


 先日、ひよりにも話した。学校の建設前から北山家は一年に一回はあの場所に行き、祈祷を受ける慣習があった。雪花の父はもちろん、健在だった雪花の母も一緒だった。


「そういえば、なんで私もいたんだろ」

「二人とも家で遊んでるときに急に言われたから、私が泣いて一緒に行くって言ったの」

「へー……そうだったんだ」


 記憶になかった。覚えているのは塔の窓から飛び降りるときに景色がスローモーションになったことと、直前に見た雪花の泣きそうな顔だった。


「まったく。今でも傷が残ってるのに呑気なんだから……それで、父が血相を変えて飛んできた。あんなに怖い顔をした父を見たのは後にも先にもあれが最後」


 雪花は待ち針を刺し終わったらしく、膝を払って立ち上がった。暗幕を碧にも持つように身振りで示しながら話を続ける。


「あの時、父が言ったの。しまったって」

「しまった?」


 雪花は母の部屋にミシンがあると言っていたから、持って行って縫うのだろう。真っ黒な暗幕を二人で運んでいると、なにかとんでもない犯罪の後始末でもしている気になってきた。


「そう。私はずっと子どもから目を離したことに対する言葉だと思ってたんだけど……もしかしたら、違ったのかもしれない」


 切れ長で睫毛の濃い、意思の強い視線が碧を見上げる。


「父は知ってたんじゃないかと思う。あの場所で昔何が起きたのか」



 ***



 夜にどこまでも歩いていくのが好きだった。

 昔から夜目がきいたし、でたらめに歩いても道に迷うことはなかった。昼間と違って誰かに突然声をかけられたりもしない。

 歩いているとだんだん意識が澄んできて、自分が人間じゃないみたいな──一匹の動物としてどこまでも走っていける気がする。


 ──犬。


 犬を拾ったのも、そんな風に歩いている最中だった。正確にはもらったのだ。誰にも言ったことはない。

 その頃から母は仕事の時間が不規則で、家にいないことが多かった。碧は退屈するとこっそりマンションを抜け出して、夜の散歩に出かけた。


 近くに大きな川が流れていて、その周辺を歩いた。危ないから近づかないように、と母からは何度も言われていた。そう言われると、碧はかえって川の側に吸い寄せられていった。


「来たよ」

「ああ? またあんたか」


 数週間前、橋のたもとにテントを張って生活している人と知り合いになった。碧が夜に歩いている時、小さな灯りが点いているのを見つけて近寄っていったのがきっかけだ。


「またこんな時間に出歩いてんのか」


 ぶっきらぼうな声は鬱陶しそうで、早く帰れと言わんばかりだった。碧はそういう大人の態度が珍しくて幾度となく様子を見に来ていた。


「今日は先客がいるからだめだよ」

「あ、犬だ!」


 それは薄汚れた灰色の子犬だった。テントの中に入れた段ボール箱の中で眠っている。


「触ってもいい?」

「ああ……起こさないようにね」


 碧は犬に触れるのは初めてだった。小さく上下している背中に触れると、垂れた耳がぴくりと動いた。


「どうしたの。この子」

「知り合いが拾ってきたんだ。連れてこられても困るんだけどね……そうだ、あんたもらってくれないか?」

「え⁉」


 碧は一度ならず、誕生日やクリスマスに母に交渉したことがある。でも許可はでなかった。家を空けることが多く、碧だけでは世話が無理だと言われた。


「この子、大きくなる?」


 加えて、碧のマンションで大型犬は飼ってはいけないことになっている。


「なるだろうねぇ。このなりだと」

「うーん、じゃあダメかも」


 碧が事情を説明すると困ったという風でもなく、ひとり言のようにつぶやいた。


「残念だね。まぁ誰か飼ってくれそうな人がいれば教えてくれ」

「見つからなかったらどうなるの?」

「さぁね。わしもずっとここにいるわけにはいかんからな」


 その人はすっと視線を川の向こうにやった。外は真っ暗で何も見えないはずなのに、はっきりと目的を捉えているような鋭い目線だった。どこかからガァと低い鳥の鳴き声がした。



 ***



 雪花の祖父の日記には星斗たちには見せていない部分があった。

 日記を見つけたのは高校に入学した春で、雪花の祖父が逝去したので部屋を整理した折に出てきた。


「碧、私たちただの親戚じゃないかもしれない」


 ある日、雪花が青ざめた顔をして寮の部屋にやってきた。

 話を聞くと、祖父の日記に雪花の父と母、そして碧の母との関係が詳しく書いてあったという。


「私たち、異母姉妹かもしれないの」

「へぇ……そうなんだ」


 雪花にそう言われて、碧はぼんやりと答えた。物心ついた時から父親はおらず、俳優業に忙しい母と暮らしてきた。母方の親族も海外暮らしで会ったことはなく、唯一身近で世話になっていたのが雪花の父だった。


「もし日記に書いてあることが本当だとしたら、父は……」


 雪花の母は小さい頃に病気で他界していた。碧は公立中学卒業後、一年フリースクールに通ってトリス学園に入学したから実際は雪花の一歳年上になる。碧の母は雪花が生まれる前に雪花の父と関係し、碧を出産していたということだ。


「そんなの許せない」


 日記には雪花の祖父が父親から相談を受けて何らかの便宜を図った旨が書かれていた。また雪花の母は知っていて受け入れているとも。


「……誰が?」

「父に決まってる。そんな人だったなんて……碧は知ってたの?」


 碧は正直そんな話をされても心が動かなかった。なんだか他人事みたいだ。母には遠縁の親戚だと聞かされていた。映画のスポンサーで仕事でも世話になっている、親切な人。


「知らない」

「私たち、ずっと騙されてたんだ。そういうことでしょ?」


 いつも冷静な雪花が声を震わせている。当の父親は祖父の葬式には戻ってきたものの、海外での仕事にとんぼ返りしていった。


「雪花、怒ってる?」

「怒ってる。父にもだけど、今まで何も気づかなかった自分に……碧、あなたは何も思わないの?」


 雪花らしい、と碧は思う。そんなの親たちが隠していたのだからわかるはずがなかった。怒りの矛先を自分に向ける必要なんかないと、言おうとした。


「私はあなたからずっと奪っていた」

「え? なにを?」

「いろんなもの」


 父親を、ということだろうか。でもそれなら猶更、雪花に罪はない。


「それなら、私も一緒だよ」


 雪花のほうが幼い頃に母親を亡くし、父親も仕事に忙しかった。碧の母も忙しくてよく家を空けていたから二人は励まし合って幼少期を過ごした。


「碧、私は父を尊敬していたの。だから、たくさん勉強をして経験を積んで会社を手伝うつもりだった」

「うん」


 実際、雪花はずっと品行方正で優秀だった。小さい頃、碧が寂しくて泣きわめいていた夜も根気強く励ましてくれた。碧は中学でグレてしまったが、反抗期らしい反抗期もなかったようだ。


「碧が中学の時、父が代わりに学校に行ったことがあったでしょう」

「……うん」

「あの時、偶然父の部屋の前で碧と話してるのを聞いたの。碧、父になんて言われたか覚えてる?」

「あんまり。あの頃、いつも調子悪くてぼーっとしてたから」


 思い出そうとしてみたが、本当に覚えていなかった。雪花の──自分の?──父親と話をしたことはかろうじて記憶に残っていたが、話の内容は抜け落ちている。

 雪花は碧の返事を聞いて、少しの間考えていた。


「……そう。とにかく、私は父が許せない。日記に書かれていたことが事実ならできるだけ父を苦しめて、家を壊してやりたい」


 今まで父親を敬愛していた雪花の急激な変化に碧は戸惑った。しかし、雪花のことだからやると言ったらやるだろう。一度決めたらやり遂げる意志の強さと、目的を達成するための努力を怠らない姿勢は知っている。


「碧も協力してくれる?」


 雪花の強い視線に、碧は静かに頷いた。


 それからずっと暗い幕の内側にいる。演出・脚本は雪花の役目で碧は役者だ。ドラマの中の人物を演じるように日々を生きるのは慣れていた。母のため、父親かもしれない男のため、クラスの友だちのため──そして雪花のために碧は誰かを降霊させる。

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