第16話

 北山きたやま雪花せつかは他校でのラクロスの練習試合を終えて、帰路についていた。

 土曜日の昼下がりで電車は比較的空いている。途中まで一緒だった部員が下車すると、一人になった雪花はポケットを探ってハンカチを取り出した。


 ──あの! 落としましたよ!


 帰り道、試合相手の学校の生徒に声をかけられた。その瞬間、勢いよく振り向きすぎて相手を驚かせてしまった。


 ──……これは洗わないと。


 二、三度汚れを手で払ったあと、雪花は心中でため息をついた。午前中に降った雨で地面が濡れていたせいで、茶色いシミになっている。白いリネンの生地の端についた小さなすみれの花の刺繍を指でなでた。


 ──今日に限ってなんでポケットになんか入れてたんだろう。


 普段使う用のタオルハンカチは鞄の中に入れてあった。雪花にとって刺繍のハンカチはお守りのようなもので、いつもは部屋の引き出しの中にしまってある。


 ──つい不安になって……。


 高校からラクロスをはじめた部員が多い中、雪花は数少ない経験者で自然にチームのリーダーになっていた。ポジションもゴールを守る指示役という重要な立場だ。

 三年生が引退して初めての試合で緊張していた。家を出る時に自然に引き出しを開けてハンカチをポケットに忍ばせていた。


 ──無事勝ったからよかったものの、私はまだまだ弱い。


 蓋を開ければ試合は圧勝で、部員の一人一人が雪花の指示をよく理解して動いてくれた。グラウンドの状態が悪かったにも関わらず、鉄壁の守備でゴールを割らせることなく終わった。


 ──私はみんなに助けられている。


 雪花は何度となくそう思った。二年生になった時、準備会の会長との兼任になるから部長は辞退するつもりだった。それでも副部長をはじめとした部員がフォローすると言ってくれたから今がある。


 ──もっと強くならないと。


 刺繍のハンカチは雪花にとって大切な思い出であり、自分への戒めでもある。

 もうずいぶんと昔に思える、川瀬かわせみどりがただの親戚だった頃。無邪気に二人で遊んでいた日々を雪花は思い出す。


 シューっと電車が音を立てて学校の最寄り駅についた。雪花はハンカチを一度握りしめたあと、鞄の中にしまって立ち上がる。



 ***



 学校の裏手にある寮の前まで来ると落ち着きなく辺りを見回している不審な姿があった。


「会長! よかった。碧先輩に会いに来たんですけど連絡がつかなくて」


 私服姿の椿原つばはらひよりだった。以前と比べて雰囲気が明るくなったが、チュール素材のスカートにオレンジのリップ、髪をアップにしたひよりは一段と垢ぬけて見えた。


「会長? どうかしました?」


 しばらくまじまじと眺めてしまったせいで、ひよりは首を傾げている。これでは自分のほうが不審者だ。


「あ、ごめんなさい。碧、午前中は仕事のはずだから長引いてるのかも」

「そうなんですね……」


 ひよりは目に見えてがっかりとした様子だった。うなだれてスマホの画面に目を落とす。休みの日にわざわざ家からここまでやってきたとしたら当然だ。また碧が適当なことを言ったのだろう。


「よかったら、私の部屋で待つ?」

「え! いいんですか⁉」


 途端にばっと顔を上げて雪花に一歩近づいてきた。その一歩分、雪花は後ろに下がる。


「いいもなにも。あなた、ずっとここで待ってるつもり?」

「はい、そのつもりでした!」


 雪花は鍵を取り出して寮の玄関を開ける。ひよりのように寮の前で出待ち、入待ちをする生徒を以前はよく見かけた。碧が入学してすぐに禁止されて、平日は警備員が見回るようになった。


「会長は部活帰りですか?」


 肩にかけたクロスケースを見ながら、ひよりが聞いた。雪花は先に立って寮の階段を上がりながら答える。


「練習試合があって」

「会長、ラクロス部でしたっけ? トリス学園って珍しい部活が多いですよね」

「そう? まぁ最初に生徒から希望があればどんどん採用したから。歴史がない分、柔軟性くらいはないとね」


 雪花の父親が最初の校長だった時、積極的に生徒からの要望を募った。初期には部活・同好会・クラブなど合わせると五十以上の活動があったという。一年持たずに消えた部活も多かったが、映画準備会ができたのもそういった経緯を踏まえていた。


「わぁ! きれい!」


 雪花の部屋に入ったひよりが声を上げる。寮の部屋は一律ワンルームで食堂や風呂・トイレは共同で別にあった。部屋に入ってすぐに簡易な流し台があり、あとはベッドとデスク、クローゼットがあるだけだ。


「普通だと思うけど……」

「いや! だって碧先輩の部屋しか入ったことなかったんで!」

「碧の部屋と比べたら誰だってきれいでしょ?」

「まぁそれはそうなんですけど! いや、碧先輩は忙しいからしょうがないです」


 同意してから慌ててフォローを入れるひよりがおかしくて、雪花は笑ってしまう。雪花の記憶では芸能活動を始める前から碧の部屋は散らかっていた。


「いつも片づけてくれて助かるって碧が言ってた」

「え! そんな……わたしにできることってそれくらいなので」


 碧がひよりを連れて来たのは中学生の時だった。思春期に入り、雪花とは距離ができていた頃。碧はなんの相談もなく、芸能活動を再開した。

 その頃、碧は母親が海外に行ったのをきっかけに雪花の家に引き取られていた。しかし、実際はほとんど帰ってくることはなく、通っていた中学にもたまに行くだけだった。


「碧があなたを連れて来たとき……」


 献身的に碧に尽くすひよりはよく懐いた犬みたいだ。幼い頃、碧が拾ってきた子犬の面倒をこっそり二人でみていたことを思い出す。


「はい」

「きっとすぐに飽きると思ったの」

「えーと……それは、先輩がわたしにってことですか?」


 碧は母親とマンション住まいだったから、犬は飼えなかった。家に連れてこられた子犬はやがて雪花が父親に願い出て、雪花の犬になった。それを機に碧の足は遠ざかった。


「うん。でもあなたは違ったみたい」

「先輩はそんな人じゃないですよ」


 それまで明るかったひよりが急に声の調子を落とした。雪花はらしくもない失言をしてしまったことを後悔する。


「ごめんなさい。失礼なことを言った」

「私のことはいいんですけど……会長は碧先輩のことが嫌いなんですか?」

「え?」


 ひよりはまっすぐに雪花の目を見つめている。どう返事をしたものか考えているうちに、続けて口を開いた。


「わたし、実は最初会長に嫌われてるのかなって思ってました」

「……どうして?」


 雪花が驚いて聞くと、ひよりは慌てたように手を胸の前で振る。


「すみません! なんていうか、言い方があれなんですけど……品定めされる感じがあって」

「ああ……」

「失礼ですよね! ごめんなさい」

「私もさっき変な言い方したから、お互いさまよ。それに……当たらずとも遠からずっていうか」


 気をつけなければ、と雪花は思う。ひよりは一途に碧に尽くすだけの犬ではない。


「ちょっと話をしたほうがよさそうね。座りましょうか」


 しばらく立ったまま話していた。雪花はひよりに座るように言ってから、部活道具を降ろした。


「なにかいる? といってもお茶くらいしかないけど……」

「あ! わたし、お菓子持ってます!」


 雪花が備え付けの小さなシンクに立つと、ひよりは落ち着きなく持っていた紙袋を差し出した。



 ***



 碧は中学の頃、降霊術と称して占いめいた集会を開き同級生から金を集めていた疑惑があった。碧の母親が海外に行ってしまい、雪花の家に預けられる前のことである。

 学校から呼び出しを受けて父が事情を聞きに行ったが、関係していた生徒たちが揃って口を噤んだため事実はうやむやになった。


「だから、私があなたのことを品定めするような目で見ていたとしたら、その頃碧に近づいてくる人に対して警戒していたんだと思う」


 熱心に話を聞いているひよりを見ると、一応は納得してくれたようだ。


「そうだったんですね……その、先輩からも降霊術の話を聞いたんですけど、大丈夫なんでしょうか?」

「カメラマンの霊を呼び出すという話ね。碧がやりたいというから」


 ひよりは雪花の淹れた紅茶を飲みながら、物問いたげな表情を浮かべている。雪花は心の中で間をはかりながら言葉を続けた。


「正直、もうそれくらいしか頼れるところがないの。あまりやりたくはない方法だったけど……ただ、降霊術は体に負担がかかるみたいだから、椿原さんが見ていて異常を感じるようだったら、碧を止めてほしい」

「……わかりました」


 ひよりは力強く頷いた。碧に関することだからか、頭から疑ってかかることはしない。


 ──ありがたいのか、厄介なのか……。


 碧の何をしても妙に説得力の生まれてしまう性質は役には立つが、中学の時のように使い方を間違えれば大変なことになる。今まで碧に魅了された人々が群がり、おかしくなるのを目の当たりにしてきた。


 ──でも、私は違う。


 降霊術の会の本当の目的は伏せたまま、雪花はひよりに向かって微笑んだ。


「お菓子、せっかくだからいただこうかな」

「あ、はい! ぜひ!」


 ひよりの持ってきた菓子は普段口にしないものが多かった。爪楊枝に刺さったきなこ餅や当たり付きの飴やガムなど、存在は知っていても幼い頃は食べることを禁止されていたからだ。


「そうなんですね! 先輩も駄菓子はあんまり食べなかったらしくて……おうちの方針だったのかな? 確かに体によくはないのかもしれませんけど、こういうのって無性に楽しいんですよねぇ。あ、これもおいしいですよ!」

「お皿……」

「いいですいいです! 洗うの面倒だし、パーティー開けするんで!」


 立ち上がろうとするとひよりに止められた。


「パーティー開け?」

「え! 部活とかでしませんか?」


 ひよりがスナック菓子の袋を中央から割いて机の上に広げた。部活や準備会の打ち上げで見たことはあったが、名前は知らなかった。


「これってパーティー開けっていうんだ」

「あれ? 言わないですか? 勢いよくやりすぎるとパーンってなるから気をつけないといけないんですけど……」


 ひよりはスナック菓子をつまみながら言う。その指先はグレーとオレンジの配色で一本一本が微妙に違う形に塗られていた。


「椿原さんは器用なのね」

「えーそんなことないですよ! わたし、すごいそそっかしいんで……これだって何回もパーンってしたから用心深くなっただけで」

「そう? だってお化粧も上手だし……おしゃれだし」


 気になっていたことがつい口をついて出た。ひよりがきょとんとした顔で見返してくるので頬が熱くなる。


「ごめんなさい。その……私はあんまり詳しくなくて。そういう服とかお化粧品ってどこで買うのかなって。いや、不快だったら答えなくていいから」


 次第に早口になって何を言っているのかわからなくなる。こんなことを聞くつもりではなかった。ただ、こっそり雑誌を見て憧れていたファッションやメイクをしたひよりが羨ましかっただけで。


「あ、じゃあ今度一緒に行きましょうよ! 先輩と三人で」


 そんな日が本当に来るのだろうか。雪花のもくろみを知っても、ひよりは同じように誘ってくれるだろうか。



 ***



 ひよりが帰ったあと、雪花は自室でパソコンを開いた。トリス学園の理事長である父親に再三メールを送っているのだが、この日も返事はなかった。


「雪花、お風呂どうぞー」


 そこへノックもなしに碧が部屋のドアを開けた。いつものことである。

 寮生は風呂の順番が決まっていて、出たら次の人に声をかけていく。碧は濡れた髪をそのままに部屋に入ってくると、ベッドに腰かけた。


「なんかしてた?」

「いいえ」


 あのあと、碧も帰ってきてひよりと三人でお菓子を食べ、そのまま雪花の部屋でだらだらしていた。碧は部屋が散らかっているから帰りたくないのだ。

 雪花はパソコンを閉じると、髪を乾かしてからベッドに横になるよう釘を刺して部屋を出る。


 ──このまま、連絡がなければ……。


 星斗が提出してきた脚本をコピーして送った時に電話して以来、父の声は聞いていない。それから何度かメールのやりとりをしたが、ここ一か月ほど仕事が忙しいのか全く音沙汰がなかった。

 シャワーを浴びながら、雪花は最後に父としたやりとりを思い出す。


「とにかく、表に出ないようにしてくれ。今は大事なタイミングなんだ」


 あたたかい湯は、練習試合で疲れた身体とここ半年間で溜まった鬱憤を流してくれるようだった。それもこれも、今週末で終わりだ。


「パパ、慎重にいきましょう。家のことが外に漏れたら大変なことになるから……こちらのことは私にまかせて、パパは仕事に集中して」


 ことさら大げさに言ってほくそ笑んだのは雪花自身だった。


 ──とんだ化かし合いをしてたものよね。


 父は──あの男は小心なくせに雪花になんの相談もなく、碧を売り込むために手を回していた。怯えたふりさえしていたのかもしれない。一歩手前で阻止できたのは運がよかった。


 ──絶対に、卒業制作を勝手にはさせない。


 風呂から上がって部屋へ戻ると、碧は案の定ベッドで眠っていた。雪花が白い頬に手を伸ばしかけたとき、碧は身じろぎして目を覚ました。


「……ん、せつか?」

「髪、乾かしてない」


 濡れた枕を見て、雪花はつぶやくように言った。

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