第10話

 紅太郎こうたろう星斗ほしとが眠っているのを確認すると、急いでコテージの食堂へ向かった。発表会は夕食後にホールを使って行われることになっている。食堂にはすでに生徒の姿はまばらだった。

 その中にぽつんと座ったジャージ姿のひよりを見つけて駆け寄る。


「ひよりさん!」


 何か考え込んでいるようだったが、紅太郎が呼びかけると急いだ様子で立ち上がった。


「紅太郎君! 烏丸からすま君の具合は……⁉」

「あ、うん。よく寝てるから大丈夫だと思う」


 勢いに気圧された紅太郎が答えると、ひよりははっとした顔で周りを見回した。何人か残っていた生徒の視線が注がれて、声のトーンが落ちる。


「そう……よかった。ごめん、夕食これからだよね?」

「急いでとってくる」


 本当はこの後の発表について話さないといけないのだが、朝食も昼食も食べ逃していた。持ってきていた菓子などで食いつないだものの、さすがに腹が減っている。

 適当に残っていたカレーとサラダを持ってきてひよりの前に座った。


「それで、発表のことなんだけど……」

「うん。会長に伝えたら今回は仕方ないって」


 紅太郎は昨日の夜、倒れた星斗を背負って自分たちの部屋まで戻った。幼い頃からよく熱を出していた星斗の世話には慣れていた。高校になってからはさすがに一度もなかったが、無理をしすぎたのだろう。


 なぜか一緒にいた川瀬かわせみどりは急に倒れた星斗に驚いていたものの、道を先導してくれた。おかげですぐにコテージに帰り着くことができ、熱を出したことを雪花せつかに報告してもらった。


「それなんだけど、碧先輩が烏丸君の役をやってくれるって」

「え⁉」


 思わず、紅太郎も大きな声を出してしまった。カレーが口から出そうになって慌てて水を飲む。


「な、なんで?」


 昨日、深夜のどたばたの中で別れてから碧には会っていない。いつどうやってそんな話になったのか謎だった。


「わかんない。もしかしたら先輩も責任を感じてるのかも……烏丸君に黙ってこそこそしてたこと。今日の朝、台本を貸すように言われて」

「でも星斗の役って一番セリフ多いし、いくら俳優つってもすぐに覚えるのは無理があるんじゃ」


 紅太郎は二週間くらいかかってやっと覚えた。星斗の台本はほぼ会話劇なので長台詞も多い。


「ああ、それは大丈夫。碧先輩、十分くらいの台本ならすぐに覚えちゃうから……でもちょっと心配なこともあって」

「うん?」


 ひよりは机の上で手を組むと顎の下に置いて唸った。紅太郎は食べ終わった食器を脇にどけて、続きの言葉を待つ。


「その……先輩、演技はすごいんだけど悪い癖があって。アドリブで台本を変えちゃうんだよね」

「え! それは……」

「だから、もしかするとわたしたちもアドリブで答えないといけないから……紅太郎君には先に言っておかないとって」

「でも俺ほぼ演技初めてだよ⁉ 無理な気しかしないけど……」


 今考えると、最初にひよりに相談を持ち掛けられた時点で断るべきだったのだ。しかし、後悔してももう遅い。


「それは、わたしももちろんフォローするから! ね、烏丸君がこれで準備会に残れると思って」


 及び腰になった紅太郎に対して、ひよりは手を合わせて嘆願してきた。


「いや、もう今更引けないし……やるにはやるけど」


 星斗に熱を出させてしまったのは紅太郎のせいでもある。ここで自分が出ないせいで準備会に残れないとなったら合わせる顔がなかった。


「ありがとう! じゃあ最後に台本の読み合せだけ急いでやっていこう」


 発表会が始まるまで、あと三十分ほどしかない。 

 紅太郎は星斗の具合を気にかけながらもスマホで連絡を入れる余裕はなく、慌ただしく食器を片づけると台本を取り出した。



 ***



 紅太郎が足を怪我したのは中学一年の夏のことだ。地元の公立中学で、先輩に誘われて陸上部に入った。

 星斗から知識面の指導を受けつつ訓練していた甲斐もあったのか、コーチに着くと紅太郎の上達は早かった。すぐに学年記録を破り、選手に選ばれて地区大会で入賞した。紅太郎自身も驚いたが、次の試練は思わぬ方向からやってきた。


 モテ始めたのである。

 背も伸びて、一年ですぐ選手に選ばれた。何人かに告白された。全て断ったが、部活の先輩たちには調子に乗っていると受け止められた。

 その年の夏、練習中に足を引っかけられて転び、運悪く靭帯を損傷してしばらくギプス生活になった。


「中学ってめんどくさいな……」


 紅太郎は部活に出られないので、学校から帰ってくると暇で星斗の家に入り浸っていた。


「あほらし」


 経緯を説明すると、星斗は例のごとく吐き捨てた。

 星斗は無事に私立中学に合格し、かといって特に浮かれることもなく帰ってくると映画を見ているか、本を読んでいるか、脚本を書いていた。


「そんなクソみたいな奴らにかかずらっているのは時間の無駄だ」

「そう……なのかなぁ」


 紅太郎が言い淀むと、星斗は眉をへの字に釣り上げた。


「怪我までさせられてなに呑気なこと言ってんだよ」

「まー証拠があるわけでもないし」


 表面上は練習中の事故ということになっていた。紅太郎は故意に引っ掛けられた確信があったが、訴えたところで更にエスカレートする予感しかない。


「別に俺がいなくても、むしろ俺がいないほうがチームがうまくいくのかもしれない」


 さすがの紅太郎も初めての事態に参って、弱気になっていた。学校では平気なふりをしているが、そのぶん家に帰ると謎の倦怠感があった。なにもかも投げ出してしまいたいような、捨て鉢な気分だった。


「陸上って個人競技だろ?」

「俺はそうだけど……でも結局練習は一緒だし、学校対抗みたいなところもあるから」


 星斗はため息をついて、椅子を回転させると机に向かってしまった。いよいよくだらない、と思ったのだろう。でもそれくらいのほうが紅太郎にとっては気楽だった。


「やめるのか?」


 背中を向けたまま星斗が問う。中学の入学祝いに買ってもらったというパソコンから軽快なキータッチの音がしている。


「……悩み中」

「俺は、そういう場所にいるのは時間の無駄だと思うけど」

「うん」


 さっきも聞いた、と言おうとしたが言葉が続きそうなので待った。キーボードをたたく音が止まる。


「紅太郎はそうじゃないんだよな?」

「できれば陸上は続けたいけど……わかんなくなってきた」


 先輩から誘われて、走るのは好きだから入部した。そうしたら、記録が伸びて選手に選ばれた。結果がすぐに出たのはよかったが、そのせいで目立ってしまい怪我をしたのも事実だった。

 そうまでして、陸上を続けたいかと言われると自信がない。


「星斗みたいに絶対やりたいっていう強い気持ちがあるわけじゃないから」

「でも、悩むってことは心残りがあるんだろ?」


 問われて、考えてみる。すぐにやめる決断ができないのは確かだ。このままやめてしまっては後悔するのでは、とも思っている。


「あー……腹は立ってるかも。見返してやりたい気持ちはあるよ」

「ふん。一応怒ってはいるんだな」

「なんだよ」

「安心した。紅太郎は優しすぎるから」


 星斗は肩肘をついて、机を指でとんとんと叩いている。前かがみの背中にぼさぼさの頭。中学生になっても一切変わらない星斗の姿を見ると紅太郎は不思議と安心するのだった。


「誰だってやられっぱなしは嫌だろ。でも先輩だし、我慢するくらいならやめたほうがいいのかなって」


 やめると言えばコーチは引き止めるだろう。紅太郎の怪我は一か月もすれば回復するし、秋の大会には出られないとしてもまた次がある。


「告発する気は本当にないのか?」


 そこで星斗は椅子を回して紅太郎に再び向き直った。


「ごめん、俺邪魔してるな」

「いいよ。詰まったから……それに借りがあるからな」

「なんだよ、借りって」

「覚えてないならいい。で、質問の答えは?」

「えー……まぁ大ごとにはしたくない。普通に怖いし」


 一対一ならともかく、先輩数人に目をつけられた状態で告発するのは怖かった。教師やコーチの目の届かない瞬間はいくらでもある。練習中に偶然を装って怪我をさせるような連中だ。次は何をされるかわからない。


「俺はすぐに答えの出ない問題は苦手なんだ」

「あー……うん。そうだよな」


 テスト勉強ならともかく、人間関係について尋ねるのは荷が重かっただろうか。親や教師よりも言いやすかったから星斗に相談してしまったが、突き放されても仕方ない、と紅太郎は覚悟した。


「でも、紅太郎は俺なんかよりずっと周りのことをよく見てるし、いつもその中で最善の道を選んでる。だから、今答えが出なくても……無理に頭で考えるより、自分が自然に行きたいところへ行くのがいいんじゃないのか?」


 珍しく言葉を選びながらそんなことを言うので、紅太郎は目を見開いて星斗をまじまじと見つめた。


「なんだよ」

「え、びっくりした」


 てっきり、俺に聞くなとか辛辣な言葉が返ってくるものと思っていた。正直にそう言うと、星斗は憮然とした表情でため息をついた。


「俺をなんだと思ってんだよ」

「やーごめんごめん。でもそうだよな。今足が思うように動かないから暗くなってんのかも。治ってから考えてもいいもんな」


 結果的に、紅太郎は陸上部をやめた。コーチには引き止められたが、心はすでに決まっていたから迷いはなかった。

 足の怪我のことは結局言わなかったが、しばらく経って紅太郎を誘った先輩から謝罪を受けた。紅太郎がやめたあとに、別の生徒にも似たようなことをして問題になったらしい。


 先輩は紅太郎をかばったら今度は自分がターゲットになると思い、怖くて言い出せなかったという。今なら戻っても大丈夫だと熱弁されたが、紅太郎は首を振った。


 

 ***



 ホールにはすでに合宿に参加したほとんどの生徒が集まっていた。みんなグループごとに分かれて最後の仕上げに追われている。なかには凝った衣装を着ている集団もあって、ジャージ姿の紅太郎は冷汗が出そうだった。


 ──あんなんで大丈夫なのかな……。


 今更思っても仕方のない考えがよぎる。


「あ! 碧先輩、いた」


 まったく緊張しているそぶりのないひよりが隣で小さく声を上げた。意外と肝っ玉が据わっているというか、あまり人目を気にしていない。

 暗幕の陰に川瀬碧と会長の北山きたやま雪花せつかが話している姿が見えた。ひよりに引っ張られるように近くまで寄っていくと、何やら言い争っている。


「今、話しかけないほうがいいんじゃ……」

「ほんとだ。どうしたんだろ」


 騒がしいホールの中で、二人の様子に気づいているのは紅太郎とひよりだけだった。しばらくすると、暗幕から碧だけ出てきた。呼びかけるまでもなく、すぐにこちらに気づいて歩いてくる。


「やっほー」


 碧は深刻さを微塵も感じさせない気の抜けた口調で手を振った。


「先輩! 大丈夫だったんですか? その、会長と……」

「うん。怒られちゃった」


 ためらいなく聞いたひよりにも驚いたが、碧もなんでもないふうに答える。紅太郎は口をつぐんで成り行きを見守ることにした。


「色々勝手なことしたから」

「それって……」

「まぁ、ひよりは大丈夫だよ。それより今日はよろしく」


 碧は紅太郎に向かって手を差し出した。握手を求められていると気づいて、ためらいがちにその手を握る。華奢で冷たい手だった。


「よ、よろしくお願いします」

「うん。楽しくやろう」


 緊張が伝わったのか、碧は明るく言った。それができれば苦労はしない。


「では、そろそろ演劇発表会を開始します。最初のグループは準備してください」


 マイク越しの雪花の声がして、辺りが急に静かになった。


 ──覚悟を決めるしかない。


 紅太郎は深呼吸をして暗くなった舞台の上を見つめる。

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