第9話
「はい、ちょっとストップ~」
「……どういうことですか?」
「
「先に帰りました」
碧は芝居くさった動きで顎の下に手を当てて考え込んだ。ショートパンツにマウンテンパーカーという暑いのか寒いのか不明な格好をしている。
フードをかぶったまま急に暗闇から飛び出してきたときは心臓が止まるかと思った。
「ふーん、振られたんだ」
何度見ても不遜な態度だ。碧の言葉は先ほど紅太郎に言われたわけのわからないことを思い起こさせて不快だった。
「……なんでアンタ、こんなところにいるんだ?」
意図的に敬語を使うのをやめた。しかし、碧は全く気にしていないようだった。
「待ちぶせしてたから」
「はぁ?」
平然とのたまう碧に思わず星斗は聞き返した。
「こんな時間に?」
もうすぐ日付が変わろうとしている。待ちぶせ、と気軽に言えるような時間でないのは確かだ。
「そう。いつまでたっても会議室の電気が消えないから何してるのかなって」
星斗たちが読み合せに使っていた会議室のあるコテージはコの字型の大きな建物だ。碧の部屋の窓からはちょうど会議室の並んだフロアが見えるらしく、灯りが消えるのを見計らって出て来たという。
「何って……練習ですけど」
「うん。
知っているならなぜ聞いた、と星斗は再びイライラし始める。後輩たちを心配してくれたのかと一瞬態度を和らげて損した。
「じゃあ、何の用ですか?」
「練習は順調?」
質問に答える気配のない碧の脇を早足で通り過ぎる。このまま適当にはぐらかされて時間を食うくらいなら、帰って脚本を直したかった。
しかし、碧はすぐに追いかけてきて隣に並んだ。
「あれ、ご機嫌ななめ?」
「うるさいな……」
ふわりと人工的な香りが漂ってくる。星斗はより早足になって碧を引き離そうとした。奇妙な追いかけっこをするうちに、気が付くとコテージの前まで着いていた。肩で息をしている星斗と違って、碧は平然としている。
「基礎体力が足らない」
「うるさい! 一体なんなんだ、アンタ。俺は忙しいんだ!」
「私も暇だからこんなことしてるわけじゃない」
みんなもう寝入っているのだろう。コテージは玄関前の灯りがぽつりと点いているだけだった。星斗は碧に向かって抗議しながらはたとあることに気づいた。
──あれ? でも紅太郎が先に帰ってるはず……。
風呂にでも入っているのだろうか。それにしては水音も聞こえない。いや、でも今はとにかく碧を追い払うのが先決だ。
「これ以上意味のわからない話を続けるなら帰ってください!」
「紅太郎君は?」
星斗は声を低めて叫んだ声と、碧の声が重なった。いぶかしげな様子でコテージを眺めている。
「知らない。先に帰ってるはずだからもう寝てるのかも」
「見てきたら? 帰ってなかったら大ごとだし」
「なんでアンタに指図されなきゃ……」
碧の言う通りにするのは癪だが、星斗も紅太郎のことは気になっていた。
「ほら、早く」
急かされた星斗は悪態をつきながら碧に背を向けた。さっさと終わらせてしまったほうが得策だと判断して、懐中電灯を点けたまま二階に上がって部屋に入る。出て行った時のままの状態で、紅太郎が帰ってきた形跡はなかった。
念のため、一階の洗面所と風呂場も覗いてから再びコテージの外へ出る。
「いない」
「連絡は?」
そうだ、スマホを見るのを忘れていた。慌てて取り出すと、紅太郎から通知が来ていてほっとする。
「……『ちょっと頭を冷やしてから帰る』」
星斗と別れたあとに一通だけ届いている。まだ日付が変わる前に送られていた。今は0時半を過ぎたところだ。その場で電話をかけたが、繋がらなかった。
「なにがあったか知らないけど、もう三十分くらい戻ってないってことか」
「ああ……」
昼間なら気にならないが、真夜中の散歩にしては長い。いくら星斗と顔を合わせるのが気まずいのだとしても、コテージの中には戻って来てもよさそうなものだ。
「別のコテージに行ってるってことは?」
「でも、先輩しかいないし……」
紅太郎が準備会にちゃんと参加したのは二、三回のはずだ。こんな夜中に尋ねて行けるほどの関係を築けたとは思えない。そこまで考えてはっと気づく。
「
さっき別れたばかりだが、ひよりなら紅太郎が連絡をしてもおかしくない。星斗が電話をかけようとすると、横から碧に止められた。
「もう寝てるかもしれない。ひよりの部屋は私たちと同じ建物だから、紅太郎君がもし来た道を戻ったんならぜったい私たちと会ってるはず。一本道なんだから」
「そんなの、わき道に入ったかもしれないだろ!」
行動を邪魔されて思わず声を荒げてしまう。とはいえ、一日読み合せをしたあとの星斗の声量はたいして迫力もなかった。
「心当たりがある。行こう」
碧はすぐに踵を返してコテージの横を通り過ぎると、林の中へ入っていった。迷いのない足取りにつられるように星斗も後を追いかける。これ以上知っている人間とはぐれるのは御免だった。
「ちょっと待ってください!」
懐中電灯の灯りで碧の背を照らしながら、やっとの思いでついていく。よくよく見ると碧は懐中電灯も持っていない。心当たりがある、ということはこの辺りの地理に詳しいのだろうが、それにしても不用心だった。
どのくらい進んだのか、見失わないようにするのに必死だった碧が急に立ち止まった。星斗は荒い息を吐きながらやっとしばしの休息を得る。
──こんなに走ったの、いつぶりだ……?
脇腹のあたりに懐かしい痛みと、くすぐったさがある。だいたい朝から動きっぱなしでここまできているのだ。今まで持ったのが不思議なくらいだった。星斗は肺のあたりを押さえて中腰になる。
「おーい! こうたろーくーん!」
動けないでいる星斗をよそに、碧が呼びかける。落ち着いたよく通る声が闇の中にこだました。しばらくして、がさがさと草をかき分けるような音が聞こえてくる。
「あ! すみません……ここです!」
うずくまった姿勢のまま星斗は紅太郎の耳慣れた声を聞いた。なんで、よりによってこんな時に大声を出さないのか。
突っ込みたかったが、急に首のうしろが熱くなって吐き気がこみあげてきた。
「え? 川瀬先輩……なんでこんなとこに。あれ、星斗? 大丈夫か?」
──大丈夫じゃない。クソ、わけわからんこと言って急にいなくなりやがって……。
悪態は言葉にならず、星斗は冷たい草の上に体を横たえた。
***
小学校の高学年になると中学受験をする生徒とそのまま公立に進む生徒は明確に分かれるようになった。仲が悪くなるとかではなく、生活サイクルが全く違ってくるためだ。学校が終わればすぐに塾へ行くため、自然と交友関係も塾が中心になってくる。
星斗もその一人だった。塾では習熟度に合わせてどんどん先へ進んでいけるため、学校よりは学び甲斐があった。最初のテストの結果で一番上のクラスになったから余計である。
しかし、環境が変わっても友人ができるとは限らない。むしろ慣れない場所で星斗の人見知りは加速していた。それに一応一番上のクラスではあるが、その中で星斗はかろうじて真ん中くらいだった。
今まで勉強ができる、という一点で他の生徒を馬鹿にしてきたが通用しなくなった。世の中にはコミュケーション能力があり、かつ勉強もできる奴がいるのだ。
「あ、星斗! 今日は塾じゃないのか?」
縁側でぼんやり考え事をしていると、玄関から走ってきたのは紅太郎だった。五年生になってまた背が伸びた。
「熱出たから、休んだ」
星斗は静かに答えた。本当は部屋で寝ているべきなのだろうが、母親が出かけた隙を見計らって降りてきた。一日塾を休んだことで生まれた妙な焦りから気を逸らしたかった。
「え? そんなとこいていいのか?」
急に伸びてきた手が額に当てられる。星斗はびっくりして身を引いたが間に合わなかった。
「あー……俺の手の方が熱くてよくわかんないな」
「はなせっ!」
星斗が手を払うと、紅太郎が嬉しそうに笑う声が降ってきた。
「よかった。元気そう」
「はぁ?」
「なんか、しょんぼりしてたから」
文句を言おうと顔を上げると、思いのほか真剣な表情をしている。てっきりいつものようにふざけた調子で言っているとばかり思っていたから意外だった。
「紅太郎って……」
どうしてそこまで他人の心配ができるのか不思議だった。いつかの運動会の時も邪険な態度を取られていたにも関わらず、星斗を助けた。結局、小学校で友だちと呼べるのは紅太郎だけだった。
「なんだよ?」
「いや、変なやつだよな」
面と向かって礼をいうのは今更照れくさい。
「星斗にだけは言われたくねー」
すぐにふざけた調子で言い返されたので、肩にパンチをお見舞いする。紅太郎は笑いながら倒れる真似をした。
「そういえば、最近あれ書いてないの? きゃくほん? だっけ」
「あー……勉強で忙しくて……」
熱がぶり返したわけでもないのに、頬が熱くなった。星斗は小学校に入ってからずっと脚本の真似事めいた物語をいくつも書いていた。紅太郎と仲良くなってからは書いたものを強制的に読ませ、セリフを朗読してもらったりもした。
最近は塾通いで忙しくなったのもあるが、急に恥ずかしくなってしばらく書くのをやめていた。
「ふーん、そっか。あれ面白いからまたなんか書いたら見せてよ。俺、星斗のおかげで国語の朗読褒められたんだ!」
紅太郎は得意そうに言った。
「ほんとか?」
「え、うん」
星斗はまんざらでもない気持ちで鼻をすすった。それまで鬱々としていたが、少しやる気が湧いてくる。
「仕方ないな。紅太郎がそこまで言うならまた書いてやるよ」
「おう。調子戻ってきたな」
それから再び塾の傍ら脚本の執筆をするようになった。紅太郎は時々部屋に来て、星斗が書いた話を読んで笑ったり、わからないところを聞いたりした。
***
夏合宿の二日目、星斗は朝から熱を出して寝込んだ。
目が覚めるとぼんやりした視界に見知らぬ天井が映った。合宿でコテージに泊まっていると気づくまでにタイムラグがある。頭が重く、目を開けていられない。
──そうか……昨日、あれからどうなったんだ?
川瀬碧が急に現れて、夜の林に入っていったのは覚えている。それから紅太郎が見つかったような気がしたが、記憶がおぼろげだった。
「星斗、起きたのか?」
物音がして、紅太郎が覗き込んで来た。
「ああ……」
「あ! 起きるな、起きるな。熱出てんだから。おとなしくしてろ。今、氷枕の替え持ってくる」
すぐに顔が引っ込んで、階下に降りるばたばたと激しい音がした。
首を傾けると、溶けた水っぽい感触がある。額にもなにやら生ぬるいものが貼られていた。
──今、何時だ?
星斗はうつぶせになると、肘をついて起き上がろうとした。しかし、変なふうに腕を敷いていたせいかしびれて思うようにいかなかった。
手間取っているうちに紅太郎が戻ってきた。
「おい、起きるなって」
「水くらい飲ませろ」
無理やり出した声は無様に枯れている。紅太郎が持ってきたペットボトルを受け取ると一気に半分ほど飲んでしまった。
「熱測ってくれ。あと、何か食べるか?」
「それより今何時だ?」
窓から差し込んでいる陽の光を見て、嫌な予感がする。
「一時過ぎだよ。会長とひよりさんには報告してある」
「はぁ? なに悠長なこと言ってんだ⁉ 早く脚本なおさないと……」
星斗はベッドから飛び起きようとしたが、肩を押さえつけられた。しかし、そんなことをしなくても起き上がった拍子にめまいがして再びベッドに伏せてしまう。
「ほら、言わんこっちゃない。心配しなくても事情は説明してあるから」
紅太郎は体温計を星斗に渡すと素早く氷枕を取り替えながら言った。朦朧とする頭で、脚本の筋書きをどうにか十分以内に納めることができないか考えようとした。
「とにかく今は寝てろ」
手っ取り早い方法はとにかくセリフを削ることだ。シャーリーとカークフェルの会話が一番長いからそこをどうにか短縮できないか──そんなことを考えている間に視界は再び暗闇に包まれていった。
二度目に目が覚めた時、辺りは暗くなっていた。星斗はベッドの傍らに置かれたスマホで時間を確認する。合宿二日目の午後七時だった。結局あれからまた半日ほど寝てしまったようだ。
──紅太郎は……いないみたいだな。
薄暗い部屋の中に人の気配はない。昼間は開いていた窓も閉められていた。デスクの前にあった椅子が近くに動かされていて、その上に新しいペットボトルの水と体温計が置いてある。
星斗は水を飲むと、体温計を脇に挟んで再びベッドに横たわった。昼間に一度起きた時よりも体は軽くなっているし意識も明瞭だった。
──たぶん、下がってるな。
幼い頃からの感覚で、すぐにわかる。予想通り平熱まで下がっていた。
起き出して階下に降りると誰もいなかった。ちょうど夕食の時間で一番大きなコテージに集まっているのだろう。これ幸いとシャワーを浴び、すっきりした。まだ少しだるさは残っているが書きものくらいならできる。
──一日無駄にしてしまった。今からやっても意味ないかもしれないけど……。
なんせ小演劇の本番はまさに今日の夜なのだ。予定では夕食後に発表することになっていた。
紅太郎やひよりからは何の連絡も来ていない。星斗が脚本を直してもぶっつけ本番で成功できる可能性は低かった。
──まぁでも、やってみなきゃわからないしな。
よく祖父が言っていた。後からあの時こうしていれば、と思うくらいならやってみたほうがいいと。月並みなようで、その言葉には不思議な重みがあった。大抵、星斗と並んで映画を見ている時だった。
原稿を取り出すと、デスクに広げて鉛筆を手に取る。何度も繰り返し読み合わせをしたせいでセリフは全て頭に入っていた。星斗はためらいなくいくつかのセリフの上に線を引き、短い言葉を書き足していった。
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