第7話

益子ますこ君って烏丸からすま君のこと好きなの?」


 椿原つばはらひよりから問われたのは知り合ってしばらくしてからだった。紅太郎こうたろうは一瞬詰まったあと、答えた。


「……え? なんで?」


 放課後の教室でテスト勉強をしていたところに、ひよりがやってきた。準備会で配布された夏季合宿のしおりを持ってきてくれたのだ。二人は顔を合わせれば挨拶するくらいの仲にはなっていた。


 ひよりは「わたしもここで勉強していい?」といって紅太郎の前の席に座った。隣のクラスはさっきから笑い声が聞こえてくる。こっちの教室には紅太郎ひとりだった。


「だってここに入ったのって烏丸君がいたからなんでしょ?」

「あーまぁ……」


 つい先日、うっかり口を滑らせたのを紅太郎は後悔した。映画に興味もないのにどうしてトリス学園に入ったのか聞かれて、咄嗟に星斗ほしとがいるからと答えてしまったのだ。

 それだけなら、まだ誤魔化せると思っていた。友だちと同じ高校に進みたいというのはそんなにおかしいことじゃない。しかし、ひよりは妙に勘が鋭かった。


「東中からここに入ったのって益子君だけでしょ。相当がんばったんじゃない?」

「そうですね……」


 だから、今も必死にテスト勉強をしている。かしましい弟妹のいる家だといまいち集中できないからだ。

 後ろを向いたひよりからじっと見つめられている気配を感じる。紅太郎はしばらくどう切り抜けようか考えたあと、意を決してペンを置いた。


「星斗は気づいてないんで、そっとしといてくれるとありがたい……です」


 長い息を吐くようにして、それだけ言った。嘘をつくのは得意ではない。


「あ、やっぱりそうなんだ?」


 ひよりは明るい声で答えた。なぜ勘づかれたのかわからないが、それで話は終わると思った。が、本題はそこからだった。


「気持ちを伝えようと思ったこと、ないの?」

「んー……なくはないけど、星斗だからなぁ」


 今まで誰にも自分の気持ちを話す機会などなかった。気がつくと、紅太郎はひよりが促すままに星斗との出会いから今までの経緯を話し始めていた。

 つたない話をひよりは時折あいづちを挟みながら真剣に聞いてくれた。ある程度話し終わると、教室の外はすっかり暗くなっていた。


「やべ。椿原さん、時間大丈夫?」


 全く進まなかった勉強道具を片づけながら紅太郎が尋ねると、ひよりも立ち上がる。


「あー全然いいよ。こっちが聞いたんだし……それに今日は夕飯当番じゃないから」

「椿原さんって寮だっけ?」


 トリス学園には遠方から通う生徒のための寮があるとは小耳に挟んでいた。当番というからそうかと思ったが、ひよりは首を振った。


「ううん。うち父親がいなくてお母さんも仕事で忙しいから……お姉ちゃんと交代で夕飯当番してるんだ」

「え、すごい」


 ひよりから家族の話を聞いたのは初めてだった。


「すごくないよ。私にとっては当たり前だから」

「あ、そっか。そうだよな……ごめん」


 紅太郎が謝ると、ひよりはふふっと笑う。いつもどこか冷めた印象のあったひよりの自然な笑顔だった。


「益子君って優しいよね」

「いやー……どうだろ」


 実際、紅太郎は優しくなどない。誰かからそう言われることはこれまでにもあったが、どちらかというとずるい人間だと思っている。もしそう見えるとしたら、少しばかり器用で人当たりがいいだけだ。

 曖昧に答えると、ひよりはまた笑った。


「心配しないで。わたしが烏丸君を好きになることはないから」

「え? いや、そんな……」


 紅太郎はうろたえた。そんな心配はしていない、とは言えなかった。確かにひよりはそうかもしれない。脚本の共同制作を持ちかけられて無理やり協力しているだけで、間に紅太郎が入らなければ険悪といっていい仲だった。


 けれど、ひよりに対する星斗の態度はこれまでと違って見える。星斗は基本的に自分以外の人間を見下して生きている。少なくとも紅太郎が今まで知る限りはそうだった。


「あれ、違った?」

「いや、なんていうか……椿原さんはそうかもしれないけど星斗のほうはわかんないなって」


 紅太郎は段々と恥ずかしくなってきた。ひよりは指先で三つ編みをもてあそびながらにやにやしている。


「それって烏丸君がわたしのこと好きになるってこと? アハッ、ないない。っていうか益子君って意外と独占欲強い?」

「うっ」


 もうやめてくれ、というように紅太郎は手で顔を覆った。


「椿原さんこそ、意外と……」

「あ、ごめん。きつかった?」


 校舎を出ると、薄暗い中にまだ夕陽の気配が残っていた。坂の上から見える山の稜線がきれいなグラデーションに染まっている。


「いや。まぁ話聞いてくれてありがとう」


 紅太郎は立ち止まって礼を言った。バレてしまったのは気恥ずかしいが仕方ない。それよりも相談相手ができたことを喜ぶべきだろう。


「いいよ。その代わり今度はわたしの相談にも乗ってね」

「うん、もちろん」


 前のめり気味に答えると、ひよりはまた声に出して笑った。打ち解けた雰囲気に紅太郎も自然と笑顔になっていた。



 ***



 期末テストまでの間に紅太郎はひよりと毎日放課後の教室で話すようになっていた。


「烏丸君と一緒に帰らなくていいの?」

「あー合宿の脚本書いてるから。夏休みまでには完成したいって」


 授業が早く終わるテスト期間中は星斗にとって格好の執筆チャンスだ。朝は一緒に通学しているが、このところ放課後はずっと別行動だった。テスト初日のその日も星斗は先に帰っていた。


「なんか今、筆がのってる? らしい」


 朝に星斗から聞いたことをそのままひよりに伝える。


「へーさすが。テスト勉強とかしないのかな」

「勉強は授業で十分らしいよ」


 それで学年トップクラスの点をとるのだから、必死に勉強しているこちらがアホらしくなってくる。


「まぁ、だから休み前にはひよりさんに読んでもらえるんじゃないかな」

「そっかー……」

「どうかした?」


 午前中でテストが終わったので、紅太郎たちは教室で昼食を済ませて明日のテスト勉強をしていた。暗記カードをめくっていたひよりが言葉を濁したので、紅太郎は問題を解いていた手を止める。


「あ、いや。ごめん、プリント終わってからでいいよ」

「じゃあキリがいいとこまでやるわ」


 プリントを最後まで解いて、答え合わせをした。分からなかったところに印をつけて見直せるようにする。


「よし。ひよりさんは?」

「うん。大丈夫」


 紅太郎は立ち上がって伸びをする。もともと勉強は得意ではないのに、直前で詰め込み過ぎている。気分転換にひよりの話を聞けるのはありがたかった。


みどり先輩のことなんだけど……」

「あーうん」


 ひよりは廊下へ出ると、窓から外を見て戻ってくる。


「いた?」


 紅太郎の問いに無言で首を振った。それはいつも屋上にいる川瀬かわせ碧の姿がない、という意味だった。確かに今日はファンクラブの歓声も聞こえない。


「碧先輩、なに考えてるんだろ……」

「またなんか言われた?」


 ひよりは困ったように眉をひそめる。


「ううん。あれから会ってなくて……連絡しても返事が返ってこない」

「なんだそれ。無責任だな」

「しょうがないよ。先輩、忙しいし……」


 急にしおらしい様子になる。こと川瀬碧に関してはいつもそうだった。星斗や紅太郎に対する強気な姿勢とは真逆である。


「でもいくら恩人つっても、無理言い過ぎなんじゃない?」


 ここ数日で、紅太郎はひよりが碧を心酔するに至った経緯を知った。端的に言うとひよりが中学で不登校気味だった時に碧のおかげで再び学校に通えるようになったらしい。


「それはいいの! もともとわたしから言い出したんだし……碧先輩のことなら誰よりも研究してる自信もある。でも、烏丸君と共同制作するのは予想外だったからどうしていいかわかんなくて……」

「そりゃ、ほぼ初対面のやつに突然キレられたのに協力しろとか言われたら、俺なら百パー断るよ」


 紅太郎が言うと、ひよりは声を上げて笑った。表情が少し明るくなる。


「紅太郎君、ほんとに烏丸君のこと好きなの?」

「それとこれとは別」


 秘密を共有したことでずいぶん気安く喋るようになった。余計な遠慮のない話ができる友だちは貴重である。


「まぁ、それは置いといて。碧先輩、なにか隠してる気がするんだよね」

「隠してるって何を?」


 テスト期間中は部活も休みになるから校舎の中はいつもより静かだ。クラスにも二人以外残っていないのだが、紅太郎は声を落として聞いた。


「わかんない。碧先輩あんまり何かに執着したりしないし、むしろそういうのダルいって感じなんだけど……卒業制作は絶対成功させたいって言ってて」

「まぁそりゃ自分が主演するんだもんな」

「そうなんだけど……なんか、いつもと違うんだよね。うまく言えないけど……わたしに協力はさせてくれるけど、全部は話してくれてない気がする」


 ひよりは教室の中から誰もいない屋上の方へ再び目をやった。話を聞く限り、ひよりの心配は抽象的でピンとこなかった。ただ、紅太郎も側にいる人にしかわからない感覚みたいなものは理解できる。


「ひよりさんが言うならそうなのかも……。でも連絡つかないんじゃ、聞くこともできないしなぁ」

「そうなんだよね。わたしは先輩の為になるなら何でもしたいんだけど……ただ、脚本だって最近書き始めたばかりだし烏丸君みたいに詳しいわけでもないから」


 合宿用の脚本は星斗が大筋を書き、ひよりが手直しをすることになっている。時間が限られていて──しかもテスト前で──慣れている星斗が筆をとるのは妥当だった。


 本が上がるまでひよりにできることはない。先輩とも連絡が取れないとなると宙ぶらりんで不安なのかもしれない。


「俺も全然わかんないけど……ひよりさんのそういうところを先輩が必要としてるっていうのは確かなんじゃない? 星斗には絶対できないことだし」


 ひより以上に知識もなく、また映画制作に対する熱意もそれほどない紅太郎にはそのくらいしか言えなかった。


「そうだよね……まぁ悩んでても仕方ないし、テスト終わったら先輩から何か連絡あるかも! 今は合宿に行くためにも勉強しないとね」


 しかし、紅太郎の言葉は思ったよりひよりには響いたようだった。


「うん。俺もまじでがんばらないと! 補習とか入ったらヤバいし」

「よし、テストあと二日がんばるぞー!」


 そこから真面目にテスト勉強に勤しんだ二人は、晴れて補習になることなく夏休みを迎えることになった。



 ***



 期末テストが終わった日、紅太郎が母の使いで隣家を訪ねると珍しく星斗が縁側に出てきていた。だいたい二階の自室に閉じこもって映画を見ているか、書きものをしているのが常だった。


 紅太郎は玄関を通り過ぎて庭から縁側へ回る。水を撒いたばかりのようで木々が青々としていた。


「なんかいいことでもあった?」

「……なんで?」


 外に出てきてるから、と言うと星斗に「俺はカメレオンか」と答えられたが意味はよくわからなかった。

 隣に座ると、手元にあった紙の束に再び目を落とした。星斗は伸びた前髪を鬱陶しそうに払う。


「できたのか?」

「ああ……読む?」

「あとでいいよ」


 ん、という返事ともつかない声を発するとそれきりまた黙った。紅太郎は板の間に手をついて木々の間から空を見上げる。外は暑いのに、この庭は不思議と涼しかった。


 心地よい風に吹かれていると瞼が自然と落ちてくる。テストが終わった開放感と昨日までの睡眠不足もあって、紅太郎はずるずると体を床につけた。


 ──あーやばい。寝そう……。


 かしましい蝉の声の間に、紙をめくる音がする。


 ──姿勢、悪いな……。


 屈みこんだ丸い背中とばさぼさの頭を眺めながら、紅太郎の意識は遠くなっていった。


「おい、紅太郎。そろそろ起きろ」


 体を揺すられて目を覚ますと、一瞬どこにいるかわからなかった。慌てて体を起こすと背中が痛い。


「やば、寝てたわ」

「寝るなら帰って寝ろよ」


 呆れたように言う星斗に答えながら、時計を見るともう夕方だった。ここへ来たのが確か四時頃だったから一時間近く眠っていたようだ。背中が痛いはずである。


「もうすぐ母さん帰ってくるから」

「ん? あー……え?」


 星斗に急かされて縁側から靴を脱いで上がる。


「まだ寝ぼけてんのか?」


 顎で板の間に置いた紙袋を示されて、そういえば使いで来たことを思い出した。なんとなく流れで雨戸を閉めるのを手伝って、星斗の部屋へ上がる。


「あ、そうだ。脚本できたんだっけ?」

「まだ直してないけど……」


 六畳ほどの和室でまず目に入るのは大きな本棚で本やDVD・ビデオテープが並んでいる。その隣に小さな薄型テレビと再生機器がごちゃごちゃ積んであり、窓のある壁際に勉強机が置いてあった。

 星斗は椅子に腰かけると、持っていた紙の束を差し出した。


「お、読んでいいの?」

「ああ」


 紅太郎は本棚と反対側にあるベッドに腰かける。受け取った紙の束はそれほど厚くなかった。


「短いな」

「十分以内に収めないといけないから、それでも長いかもしれない。ざっと読んであとで一緒に読み合わせてくれ」


 かつて何十枚もの長編を読まされたこともある。普段たまにマンガを読むくらいの紅太郎が教科書以外で読むのは星斗の書いた脚本だけだった。

 すぐに背中を向けてパソコンに向かう星斗を横目で眺めて、紅太郎は用紙の上に目を落とした。


『宇宙の辺境にある見捨てられた星に不時着した異星人たちはそれぞれの食料を求めてさまよっていた。地球人であるシャーリーが洞窟へ入っていくと奥から会話のような音が聞こえてくる……』


 そんな出だしから始まって、あとは延々と会話が続いている。

 一度眠ったのがよかったのか、紅太郎は自然と物語に没入することができた。昨日まで語呂合わせの暗記や慣れない英文に苦戦していた現実は消え去って、宇宙の彼方へ意識が飛んでいく。



 ***



 夏休みに入って最初の土曜日、紅太郎は中学校のクラスメイトと遊ぶために最寄り駅にいた。待ち合わせ時間にはまだ余裕があり、相手は来ていない。

 

 ふと聞き覚えのある声がしてスマホから顔を上げると、改札の駅員と話しているひよりがいた。

 揉めているわけではないが、怪訝な顔をされている。紅太郎はひとまず様子を見ようと近くに立っていた。しばらくすると出て来たので、声をかけた。


「ひよりさん!」

「え? あ、紅太郎君⁉ なんで……」


 紅太郎を見た瞬間、ひよりの顔にさっと気まずい表情が走った気がした。それで声をかけないほうがよかったかと思ったが、かけたものは仕方ない。


 私服姿のひよりはミニスカートに大きな襟のついたブラウスを着ており、髪も下ろしている。学校での姿とはずいぶんギャップがあった。声を聞かなければ、ひよりだと気づかなかったかもしれない。

 

「なんでって……ひよりさんこそ。家、このへんだっけ?」

「あ、ううん。違うんだけど、ちょっと用事があって。紅太郎君は?」


 改札前の混雑を避けて脇によけると、自然と立ち話をする格好になる。紅太郎が友だちとの待ち合わせに早く来すぎたことを伝えると、ひよりは頷いた。


「そうだ、あれから先輩と連絡ついたよ!」

「お、よかったじゃん」


 声と表情がぱっと明るくなった。さっきのは気のせいだったかと、紅太郎は安心する。


「星斗とやり取りしてる?」


 完成した脚本を読み合せたあと、星斗はメールでひよりに送ると言っていた。合宿はもう再来週に迫っている。


「メールもらって色々意見送ったところ。今日、烏丸君は?」

「家にいるんじゃないかな。わかんないけど、だいたいそうだから」

「そっか……」

「もしかして、星斗に用だった?」


 紅太郎が尋ねると、ひよりは我に返ったように首を振った。


「ううん! 今日は先輩に頼まれごとされてて……あ、ごめんね。友だちと待ち合わせてるんだったよね」


 友だちは来る気配をみせないが、ひよりは先を急ぐのかもしれない。現に視線と体は駅の出口に向いていた。


「ああ、うん。じゃあまた合宿で! セリフ、練習しとく」

「ありがと! じゃあ、また」


 別れの言葉を口にすると、笑顔で手を振りながら去っていく。紅太郎は手を振り返しながら、後ろ姿が人に紛れていくのを見送った。


 ──どこ行くんだろ……この辺、なんかあったっけ。


 住むのに不自由はないが、とりたてて珍しい場所があるわけでもない郊外の駅だった。駅前にあるいくつかの商業施設を通り抜けると、あとは住宅街が広がるばかりだ。


「おいー、なに今の! もしかして彼女?」


 紅太郎が考えていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと待ち合わせをしていた中学の友だちが立っている。


「違いますー。高校の友だち」

「またまたー。モテるヤツは違うな~」


 にやにやしながら言ってくる友だちを放って、紅太郎はさっさと改札のほうへ歩いていった。すぐに追いついてきた悪友と談笑しているうちに、ひよりへの疑問はひとまず消え去っていた。

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