第5話
すぐに夏合宿の日はやってきた。
早朝、学校に集合した二十人ほどのトリス学園映画準備会メンバーのなかには会長の
「わくわくするな~! な、
「ああ……」
早朝に弱い星斗の顔色が悪いのは辺りがまだ薄暗いせいばかりではないだろう。目の下にくっきりと陰影ができている。髪もぼさぼさだった。
「大丈夫か?」
「ああ……」
さっきからまともな答えが返ってこない。間違いなく学年ではトップクラスの学力の星斗が試験に手間取ったはずはなく、原因はひとつしか思い浮かばなかった。
「ひよりさんとの脚本、まとまった?」
紅太郎が恐る恐る問いかけると、星斗は露骨に顔をしかめた。
「いつの間にひよりさんなんて呼ぶ仲になったんだ?」
問われて、紅太郎は一瞬ぎくっとするが適当に誤魔化した。テスト期間中に色々と話す機会があり自然と距離が縮まったのだが、星斗には知られたくなかった。
「で、星斗はなんでそんな歯が痛いみたいな顔してんだよ」
「クソ、実際痛いんだよ。昨日から」
やっと開いた口から出て来た言葉はお世辞にもきれいとは言い難かった。予想はしていたものの、紅太郎は苦笑する。
「おいおい。そんなんで三日間大丈夫かよ。よそで寝るの苦手だろ?」
「知らん」
ひよりとの共作は決まったものの、過程が過程なだけあって二人の溝はなかなか埋まっていない。紅太郎もなにかと気にかけていたのだが、期末試験に必死でそれどころではなくなった。
「とりあえず、星斗が書くことになったんだっけ?」
「ああ……」
この話を続けると眉間の皺がどんどん深まりそうだった。しかし、一年生は三人だけだしせっかくなら穏便にいきたいところだ。
「それで、意見もらった?」
「クソッ……あいつ、文句ばっかり言いやがって……」
星斗がひときわ恨みがましい声で言った時だった。
「おはよう」
「ぎゃっ!」
夏の朝にふさわしい涼やかな声がして振り返ると、ひよりが立っていた。大きなキャリーケースを片手に持って、怪訝な顔をしている。
「なに、人を化け物みたいに」
「あ、ご、ごめん! ちょっとタイミングが……おはよう!」
ひよりは「タイミング?」と首を傾げた。星斗との会話はぎりぎり聞かれていなかったようだ。
「それより、できた?
地面に置いたボストンバッグを開けると、星斗は無言で紙の束の入ったファイルを取り出した。
「行きのバスで読むから、また気になるところあったら言うね」
「まだ直させるつもりかよ……」
星斗の口調からこれまでの経緯を察した紅太郎は二人のやりとりをはらはらしながら見守るしかなかった。
「え? でも、最初にわたしの脚本に文句ばっかりつけたのは烏丸君のほうだよね?
それに、わたしは協力してあげてる立場だってこと忘れてない?」
澄んだ声で告げる言葉はあまりに容赦がない。渡り廊下での一件以来、ひよりは星斗と紅太郎に対して声を偽らなくなった。
「じゃ、あとで」
星斗の返事を待たず、ひよりはバスの方へ急ぎ足で去っていった。ガラガラというキャリーケースを引く音が遠ざかっていく。その先には碧と雪花の姿があった。
「はぁ……」
「おつかれ」
うなだれて地面にしゃがみこんだ星斗の様子と見比べて、紅太郎は思わずねぎらいの言葉をかけていた。
***
紅太郎が二メートル間隔の通学にも慣れた頃、小学校で運動会があった。朝から忙しそうな両親に声をかけて、紅太郎は家の外へ飛び出した。
ところが、家の前にいた星斗の機嫌は最高に悪かった。いつもなら「おはよう」と声をかけると「ああ」とか「ふん」とか返ってくるのにその日は無視だった。
──なんでだろう……。
体操服にランドセルを背負った後ろ姿を見ながら、それでも紅太郎はうきうきした気持ちだった。クラスで学年リレーに選抜されたから、バトンを渡すときのイメージ練習に余念がなかった。
だから、前を行く星斗の足取りが遅いことにその背が間近に迫ってから気づいた。
「……からすま君、どうかした?」
「なんでもない」
とうとう足を止めてしまった星斗の横に紅太郎も立ち止まる。まだ、学校までの道のりの半分も来ていなかった。
「先にいけよ。もうとっくに覚えてるだろ」
「うん、でも……」
近くで見る星斗の顔は蒼白で、いかにも具合が悪そうだ。このまま置いていったら途中で倒れてしまうかもしれない。今からなら、家まで走って戻ればぎりぎり学校に間に合う時間だった。
「おれ、家の人呼んでくる!」
「おい、やめろ!」
紅太郎は踵を返して走り出そうとしたが、体操服の裾を掴まれて振り返った。星斗はぱっと手を離すと、その場にしゃがみこんでしまう。
「だ、大丈夫⁉」
「大丈夫。だから、余計な事するな……」
憎まれ口もなんだか弱々しい。紅太郎はどうすればいいのか迷って、辺りを見回した。同じ体操服姿で通学している生徒がちらほら通り過ぎていく。
「あ、あのすみません……!」
こちらの様子を伺うようにしていた高学年らしき二人組に声をかけた。知らない人だがなりふり構っていられない。
「あれ、やっぱり。
「具合悪いの?」
南、というのは星斗の二番目の姉の名前だ。どうやら顔見知りらしいと知って、紅太郎は激しく頷いた。
「歩ける? 先生呼んで来ようか?」
「あ、じゃあ俺が行きます!」
よろよろと立ち上がった星斗を両脇から支える形になった二人を見て、紅太郎は叫ぶと同時に駆け出した。まさかスタートダッシュの練習がこんな時に役に立つとは。
学校まで十分ほどの距離を五分で駆け抜けて、運動会の準備のためにグラウンドに出ていた先生を掴まえた。
「先生! からすま君が倒れた!」
説明もそこそこに紅太郎は先生を連れて通学路を引き返し、あとから両肩を支えられて歩いてくる星斗と合流することができた。
「よし、みんなありがとう。烏丸君は先生が保健室に連れて行くから、みんなは運動会の準備に戻りなさい」
先生に言われて、上級生二人は去っていった。紅太郎も目を閉じてぐったりしている星斗は心配だったが、これ以上できることはなさそうだ。途中で様子を見に来ることにして教室に戻った。
──からすま君、大丈夫かな……。
まさか運動会の当日に具合が悪くなるなんて、ついていないにも程がある。せっかく昼休みは一緒に弁当を食べようと思っていたのに。
──今日、どうするんだろ。
朝一番の入場のときに、紅太郎は両親と弟妹の姿を見つけてこっそり手を振った。その横では星斗の父親がビデオカメラを手に立っていたが、母親の姿は見えなかった。
午前中の競技の合間に、紅太郎は保健室へ足を運んだ。賑やかな音楽や歓声が響いているグラウンドに反して、校舎の中はしんと静まっている。一階にある保健室の引き戸をなるべく音を立てないように開けると、誰もいなかった。
今日は運動会だからけが人が出た時のために、保健委員も先生も出払っているのだろう。紅太郎は忍び足でパーテーションで隠されたベッドのほうへ近寄った。
「……からすま君?」
「なんだよ」
小さな声で呼びかけると、応答があった。
「あ、起きてたんだ! どう? 具合」
思わず声を張り上げると、目の前のカーテンがざっと引かれてベッドに横たわった星斗が姿を現した。
「でかいんだよ、声が」
「ご、ごめん……」
慌てて口を押さえて声を低める。見回すと隣のベッドのカーテンは開いていて、保健室には星斗しかいないようだった。
「あ、でも顔色ちょっとよくなってるな」
紅太郎は空いているベッドに腰かけると、改めて星斗の顔をじっと見た。通学路でうずくまっていた時は真っ白を通り越して青かったが、だいぶ血色が戻っている。
「ああ……朝、先生呼んできてくれてありがとう」
続けて星斗にそんなことを言われてびっくりした。今まで親の前でだけ表面上仲良くすることはあっても、あとは無視か不遜な態度しかとられなかった。
「……なんだよ」
「いや、ほんとに体調悪いんだなって思って……」
紅太郎が言うと、星斗は器用に片方の眉を上げて変な顔をした。
「はぁ? 当たり前だろ。嘘であんな無様な姿晒したと思ってたのか?」
「ぶざ? さら……なに?」
時々、星斗は紅太郎にはわからない難しい言葉を使う。聞き返すと、これ見よがしにため息を吐かれた。
「はぁ……もういい」
「そういえば入場の時からすま君のお父さん来てたよ。お母さんは後から来る? おれ、一緒に弁当食べようと思って、昨日お菓子を……」
「……もう来てるよ。さっきまでここにいた」
紅太郎の意識は昨日選りすぐったお菓子のほうへ飛んでいた。だから、星斗が何のことを言っているか気づくのに一瞬の間があった。
「あ、お母さん? そうだったんだ。でも元気になってよかったな。競技は出られるの?」
何気なく聞いたが、星斗は無言で首を振った。具合が悪い時とはまた違った表情の堅さだった。
「また、がっかりさせた」
「え?」
それきり、星斗は口をつぐんで黙り込んでしまった。紅太郎は返す言葉を探したが、何と言っていいかわからない。がっかりさせた、というのは母親のことだろうか。でも具合が悪くなったのは仕方ないし、今はこうして無事だったのだから喜んでいるのではと思う。
思ったが、星斗の表情を見るとどうしても簡単に口に出すことができなかった。
「……もう行けよ。リレー出るんだろ?」
「うん。知ってたんだ?」
珍しく星斗のほうから話題を振られたのが嬉しくて、紅太郎はぱっと顔を上げる。実際は出て行かせようとしただけかもしれないが、気まずい沈黙は苦手だった。
「庭でめちゃくちゃ練習してただろ」
「え? なんで知ってんの。こっそりやってたのに!」
リレーに選抜されてから、紅太郎はひそかに自宅の裏庭で特訓をしていた。弟妹にかっこ悪いところは見せられないと、両親にも内緒にしていたのに。
紅太郎が上げた抗議の声に、星斗はにやりと笑う。
「ぼくの部屋からちょうど見えるから。紅太郎んちの裏庭」
「えー! なんだよ。それならフォームとか見てもらえばよかった」
学校の練習では全体の段取りがメインだったから、一人一人の指導まではしてもらえない。紅太郎は転校したばかりでクラブにも入っていないし、親も運動が得意なほうではなかった。
紅太郎がそう言うと、星斗はなぜかびっくりしたように目を見張った。
「本気で言ってるのか? ぼくに」
「うん。だってからすま君、勉強できるんでしょ?」
スポーツ漫画だとデータ面から主人公にアドバイスしてくれるキャラクターがいるものだ。紅太郎はひそかにそんな存在がいたらいいなぁと憧れていた。
小学校に入って一カ月ほど、弁の立つ星斗に教師でさえも舌を巻いている姿を何度か見た。理論なら学校で右に出る者はいなさそうだ。
「おれはバカだけど、からすま君が指導してくれたら卒業までにリレーで一位になれるかも!」
「はぁ? ぼくはリレーなんか興味ないし、そんなことできるわけないだろ」
「そうかなぁ?」
そっぽを向いた星斗の頬は心なしか赤かった。ずいぶん元気になってきて、いつもの調子が戻っている。内心でほっとした時、校内放送のアナウンスが流れた。
『学年リレーに出る選手は入場門の前に集まってください。繰り返します……』
「あ、行かなきゃ。からすま君、あとでお菓子持ってくるね!」
紅太郎は慌てて立ち上がった。結局昼休みにどうするかわからないが、保健室で二人で食べるのも悪くなさそうだ。弁当とお菓子を持ち込んで食べたら怒られるだろうか。
「……星斗でいい」
「ん?」
「呼び方。ぼくだけ呼び捨てにするの気分悪いから!」
すでに保健室の扉に手をかけていた紅太郎は笑いながら振り返った。
「うん、じゃあほしと! あとでね!」
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