第3話

 幼いころから家族以外の他人はくだらない人間ばかりだと思っていた。


 星斗ほしとは小学校に上がってから、ますますその確信を深めた。騒がしい同級生、休憩時間のおしゃべり、教師のつまらない授業。家で本を読んでいたほうがよっぽど有意義だ。


 ──でも、母さんや父さんは学校に行かないと心配する……。


 小学校までは公立に通うということが家の方針だった。

 星斗は両親が居間で「いろんな人がいるってわかったほうがいい」「でも星斗は繊細なところがあるから……」などと夜に話しているのを盗み聞いた。


 ──卒業までの辛抱だ。


 中学受験をすることはもう決まっていた。星斗が自分でやりたいと言ったのだ。通っている小学校にも受ける生徒は何人かいたが、別に仲がいいというわけでもない。


 星斗には明確にやりたいことがあった。


 ──いっぱい勉強をして、脚本を書いて、映画をつくる。


 星斗の家には山のような本があり、映画があった。それらは両親ではなく、祖父の趣味で集められたものだ。今は家を星斗たちに明け渡して、田舎に隠居してしまった。引っ越す際に、星斗がしぶる両親を説得して本と映画の一部を置いていってもらったのだ。


 ──じいちゃんとも約束したし……。


 実際、星斗は暇があれば本を読み、映画を見ていた。難しくて意味のわからない話もたくさんあったが、想像力を刺激するには十分だった。自分でも作ってみたいと思うようになるまで、そう時間はかからなかった。


 隣に益子ますこ紅太郎こうたろうが引っ越してきたのはそのころのことだ。両親は子ども同士が同級生なのを喜んでいた。


 ──ぼくは大丈夫だし、忙しいのに……。


 ただでさえ姉二人の遊びに付き合わされるのにうんざりしているのに、これ以上時間を取られるなんて勘弁してほしい。

 しかし、生まれたときから体が弱く、友だちらしい友だちのできなかった星斗を心配している両親にそんなことは言えなかった。


「よろしく!」


 玄関先に挨拶に来たのはおおよそ星斗に合うとは思えない人間だった。活発で背が高く、声が大きい。学校にいたら絶対に避けるタイプだ。どうせ足も速いのだろう。

 その場はどうにか乗り切ったが、なんと母は毎日一緒に学校に通えと言った。


「転校生なんだから。この辺りのことも詳しくないでしょうし……星斗がいろいろ教えてあげてね」


 両親はすぐに隣人と打ち解けたらしく──というか姉たちも紅太郎を気に入って一緒に遊んでいたから、気にくわないと思っているのは星斗だけだった──星斗と紅太郎が一緒に通学するのはすでに両家で決まっていた。


 ──最悪だ!


 そこで星斗は両親に心配をかけず、かつ紅太郎を遠ざけるための作戦を練ることにした。


「ぼくは学校で一番勉強ができるんだ。だから転校生なんかと仲良くしない」


 紅太郎に嫌われればいい。親の前では大人しくふるまい、紅太郎と二人の時は性格の悪いやつを演じる。そうすれば、自然と星斗のことを避けるようになるはずだ。


 それから毎日朝は一緒に通うふりをした。親に言いつけられる可能性もあったが、なぜか紅太郎はそうしなかった。かといって、星斗を避けるわけではなく黙って後をついてくる。


 ──変なやつ。


 最初は馬鹿なのかと思ったが、一か月経ってもそんな調子だった。そんなある日、星斗は教室にいるときに声をかけられた。


「ねぇ、ほしとくんって隣のクラスの転校生と友だちってほんと?」


 たぶん、同じクラスの女子だったと思う。普段、机に向かって書きものばかりしている星斗は学校にいる人間の区別がついていなかった。


「え? ああ……紅太郎のこと?」


 そう返すと、一緒にいたもう一人の女子が頷いている。声をかけてきた方が手を背にあてて、その子を星斗の前に押し出すようにした。


「あ、ご、ごめんね。急に……あの、こうたろう君って誰か好きな人とかいるのかな?」

「は?」


 意味が咄嗟に理解できなくて、反射的にそう返していた。相手は星斗の反応に怯えたように隣の女子の肩に手を置いた。


「ちょっと! は? じゃないでしょ。ね、だからこいつはこうなんだって!」

「こうってなんだよ。そんなん本人に聞けばいいだろ」


 この知らない女子のどっちか──おそらく大人しい方は紅太郎のことが気になっているのだろう。それくらいは星斗にもわかった。理解できないのは、なぜ直接聞かずに自分に聞いてくるのかということだ。


「ぼくが紅太郎と一緒に来てるのを調べる時間があるなら、本人に聞いた方がずっと早い。それをしないでここにきた理由は?」

「あんたねぇ!」

「い、いいよ! もう……ごめんね、ほしと君」


 涙声になった大人しい方の女子が気の強い女子をなだめるようにして、星斗に小さく謝るとその場から走り去った。


「なんなんだよ……」


 二人の去った方を呆然と見ながら、星斗はつぶやいた。ただでさえ理解できないことが多い学校生活なのに、紅太郎のせいでまるで悪者みたいな扱いだ。周りをみると、同じクラスの生徒がひそひそと囁いている。


 ──クソッ、どいつもこいつも!


 激しい音を立てて椅子を引いて、さっきまで集中していた書きものに戻ろうとした。しかし、つかんだと思った物語の断片はすでになく、頭の端を涙を浮かべた顔がちらちらしている。


 ──アイツのせいで……。


 行き場のない怒りを星斗は全て紅太郎のせいにした。星斗が担任の教師から呼び出しを受けたのはその日の午後のことだった。



 ***



 トリス学園映画準備会の最中に飛び出した星斗は心の中で悪態をつきながら、怒りのままに突き進んでいた。


 ──クソッ!


 ひよりのぽかんとした表情や、会長の雪花の冷たい目を思い出しては髪をぐしゃぐしゃにかき回す。癖毛でまとまらない髪がさらにあちこちに飛び跳ねた。


 ──今度こそ、うまくやるつもりだったのに!


 半分は脚本に対して熱意の欠片もないひよりに、半分は激情に駆られて失態を犯した自分に対する怒りだった。これでは、提出した脚本も読まれるかわからない。それどころか星斗自身が準備会に残れるか怪しかった。


「星斗!」


 後ろから紅太郎の声がして、星斗は立ち止まる。いつの間にか学園の中庭を突き進んで、知らない場所に来ていた。


「どうしたんだよ! みんな、びっくりしてたぞ……」


 近づいてきた紅太郎の手には星斗の通学鞄があった。それを見て初めて、忘れていたことに気づく。星斗は差し出された鞄を受け取ると、無言で踵を返した。


「おい、校門ならこっちだぞ」

「……クソ」


 無駄に広いトリス学園にまでイライラしてくる。決して星斗が方向音痴なわけではない。入学して間もないくせに校内を把握している紅太郎がおかしいのだ。完全に八つ当たりに近い視線で、逆方向に歩き出した背を睨みつける。


「この学園には失望した」


 星斗が吐き捨てると、紅太郎は足を緩めて隣に並んだ。しばらくなにも答えずに歩いていたが、校門の前まで来てぽつりと言った。


「……失望したってことは期待してたんだ?」


 抑揚のない声に、星斗は驚いて隣を見上げる。紅太郎は普段能天気なくせに、たまにこうやって妙に冷静になることがあった。かと思えば、急に感情を露わにすることもある。


「そうだな」


 校門を出て、バス停までの道を歩きながら後悔が押し寄せてくる。頭に血が上ると周りが見えなくなって、気がつくとはれ物に触るように扱われる──小・中学校で散々思い知ったはずなのに、また同じことをしてしまった。


「悪かった」

「いや、俺に謝られても……まあ悪いと思ってんなら明日にでも椿原つばはらさんに直接言えば?」


 星斗はおとなしく頷いた。ひよりに対して思うところがあったとしても、あの言い方はよくなかった。


「明日、ちゃんと謝る」


 実際に口に出して言うと、だんだんと頭が冷えてきた。隣に並んだ紅太郎が目を見開いて、わざとらしく二度見してくる。


「なんだよ」

「なんか、変わった? 星斗」


 居心地が悪くて、星斗はそっぽを向いた。


「そうか?」

「うん。昔はぜったい謝らなかった。覚えてるか? 二人で職員室に呼び出されたの」

「ああ……」

「あんとき、先生にいくら言われてもぜったい謝らなくて。俺の方がおかしくなって笑っちゃったんだよな」


 紅太郎は昔を懐かしむように言うが、星斗にしてみれば消してしまいたい記憶だった。勉強はできないくせに、こういうことばかり覚えているのだ。


「知らん」

「覚えてるくせにー」


 星斗はふざけて寄せられた肩を鬱陶しげに振り払う。内心ではいつもの調子に戻った紅太郎にほっとしていた。



 ***



 次の日、紅太郎と星斗は一本早い電車で登校し、朝一でひよりのクラスに向かった。しかし、人もまばらな教室に姿はなく廊下で無為な時間を過ごしただけだった。


「昼休みにするか。それか手紙でも書く?」


 始業十分前になってもひよりが現れないので、紅太郎はそう提案する。あまり友人たちの前で何度も呼び立てるのも迷惑かもしれない。


「おまえのクラス、先生早いだろ」

「じゃあ昼休みに……」

「おう。いつものとこな。俺は隣のクラスだから休み時間にでも行って声かけとくよ」


 そう言って星斗と別れた五分後に、やっとひよりが廊下の向こうからやってくるのが見えた。都合よく一人だった。なぜか教室に入るのをためらうように一度立ち止まったので、その隙を狙って声をかけた。


「椿原さん」


 声を落として呼びかけると、ひよりははっとして紅太郎のほうを見た。すぐに眉がひそめられる。昨日のことがあるので当然の反応ではあった。


「昨日は本当にすみませんでした」

「はぁ……なんでひそひそ声?」


 一応こちらまで歩いてきてくれてほっとした。しかし、始業まであと五分なので急いで用件に入る。


「いや、俺声が大きいってよく言われるんで迷惑かなって……あの後、大丈夫でした?」

「大丈夫もなにも……なんなの、あの人」


 ひよりは不快な表情を隠さなかった。紅太郎は早口で弁明を図る。


「あの、今日の昼休みに渡り廊下まで来てもらえませんか? 星斗が昨日のことを謝りたいって。さっきまで一緒に待ってたんですけど、授業始まるから……」


 我ながらしどろもどろになっている自覚はあった。と、同時に予鈴のチャイムが鳴って廊下に出ていた生徒たちも教室に戻り始める。


「親切なんですね」

「え?」


 ひよりはきつく結んだ三つ編みの先を指先でつまんで眺めている。咳払いしながら答えた声は周囲のざわめきに紛れて聞き取りづらかった。


「わかりました。昼休みに渡り廊下で。あなたもいるんですよね?」

「は、はい。います」


 思ったよりすんなりと受け入れられて、驚く。もう廊下には人影がなく、紅太郎は焦りながら返事をした。お互い、教室の前と後ろの扉を目の前にして教師が来たらすぐに引っ込めるような体勢だった。


「あと敬語じゃなくていいです。同級生だし」


 最後に言って、ひよりは返事を待たずに入ってしまった。誰もいない廊下に足音が響いてきて、紅太郎も慌てて席に戻る。とにかく昼休みの約束だけはとりつけられて、肩の荷が下りた。


 ──あんまり怒ってない、のか?


 昼休みはすぐに来た。授業が長引いてしまい、紅太郎は走って渡り廊下まで向かった。近くまできて足を緩めると、踊り場から声が聞こえてくる。


「……んでそんな……てるんだ……」

「……ません。あなたこそ……」


 なにやら言い争っているようだ。星斗にはよくよく言い聞かせたはずなのに、これ以上大ごとになっては取り返しがつかない。紅太郎は階段を二段飛ばしで上がった。


「こんにちはー……」


 ぱっと二人がこっちを向く。星斗はたった今上がってきた階段に腰かけて、ひよりは渡り廊下へ出るドアに寄りかかっていた。


「ごめん、ちょっと授業が長引いて……」

「益子君、悪いけど私帰るね」


 紅太郎が話し始めたのを遮って、ひよりは星斗の前を通り過ぎると階段を降りようとした。


「え⁉ ちょ、ちょっと待って! 椿原さん、この通り! こんなやつだけど、脚本への思いだけは人一倍あるから……失礼なことを言ったのもいい映画を撮りたいっていう気持ちが暴走したからで……話だけでも聞いてやってくれ!」

「紅太郎! 声」


 星斗から言われて、はっと気づく。階段を降りかけていたひよりが耳を押さえている。叫んだ紅太郎の声は辺りに響き渡り、生徒がくすくす笑いながら通り過ぎて行った。


「やべ」


 昼休みに入ってしばらく経っていたから、教師がいないのは幸いだった。


「声、ほんとに通るね。役者志望でもいいんじゃない?」

「舞台向きだよ、こいつは」


 ひよりが言ったあと、星斗が膝に置いたノートから目を離さずに続く。紅太郎は我に返って、そのノートを上からぶんどった。


「おい! なんだよ」

「なんだよじゃないだろ! ちゃんと椿原さんに謝ったんだろうな⁉」


 だんだんと振り回されているのがバカらしくなってきた。準備会から追い出されて映画を作れなくなったらトリス学園に入った意味がない。そのことは昨日星斗と散々話し合ったはずだった。


「謝ったよ。ちゃんと」

「じゃあ何でさっき喧嘩してたんだよ……」


 階段に立ち止まったままのひよりとノートを取られて憤然としている星斗に交互に目をやった。紅太郎が早とちりしただけで、争っていたわけではないのか?


「昨日のことは別にいいです。どうするかは会長が決めることだし。さっきはそれとは関係ないことでごちゃごちゃ言われたから……」

「ごちゃごちゃってなんだよ。なんで、いつも変な声で喋ってんのか聞いただけだろ」


 変な声、と言われたひよりは顔を上げて星斗を睨みつけた。紅太郎はまた話がややこしくなると困ると思い、ノートで軽く頭を叩く。


 ──変な声、ってなんのことだ?


 疑問の答えはすぐに返ってきた。


「だから、あなたに関係ないでしょ⁉ 脚本に思い入れがあるのか知らないけど、それ以前に人との関わり方を勉強したほうがいいんじゃない? 映画は一人じゃ作れないってことわかってる?」


 激しくまくしたてたひよりの声は澄んでいて、今まで聞いていた声とは全く違っていた。言っていることは辛辣なのに、耳に心地よく響いて脳が混乱する。星斗の言っている意味がようやくわかった。


 ──確かにこれはもったいないような……。


 紅太郎の知るひよりはワントーン低い声でぼそぼそ喋っていた。あれは無理に作った声だったのだ。だから、妙に咳きこみがちで聞き取りづらかったのだと納得する。


「益子君がどうしてもって言うから来たけど、その態度を改めないと私にどうこう言えないから!」


 声に衝撃を受けている間にそれだけ言い残すと、ひよりは階段を降りていった。紅太郎も二度目は止められず、後ろ姿を見送るしかなかった。


「おい、仲良くするつもりあんのかよ……」


 うなだれて頭をかいている星斗に紅太郎は思わずつぶやいていた。

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