第3話 出会い2
白い壁と白い天井で覆われた七畳ほどの広さのある部屋で僕は眼を覚ました。自分がいつ、どうやってこの部屋に来たのか。昨夜、酒を飲み過ぎてしまったようだ。二本目で呂律が回らなくなり、勢い任せに開けた三本目を空にするともう自力で立ち上がれなかった。その後はどうやって……。
ああ……、最悪だ。僕は己の失態を早送りビデオのように一瞬で思い出した。
リビングからこの部屋まで彼女、ここの家主である未來理読子に肩を貸してもらい、いいや、その表現は正確ではなくて、彼女にしがみつきながら階段を上ってこの部屋にまで来たのだ。部屋に着くなり彼女は僕をベッドに寝かせてくれた。そこまでは覚えていて、その後は直ぐに眠りに落ちてしまったのだろう、全く記憶にない。
厄介になる身で世話を焼かせてしまったのだ。顔を合わせ辛い状況に溜息をつきながらも、ぼんやりと部屋を見渡した。
部屋の色と同色のデスクと書棚があり、出窓から差す日射しを柔らかく遮ってくれるレースのカーテン。部屋の空気を入れ換えるべく窓を開けると、昨夜の雨が嘘のように快晴だが、僕の心境は曇天を超して昨夜と同等の土砂降り状態。
未來理さんが庭の植物にホースで水撒きをしている。しかも楽しそうだ。あれだけ飲んで翌日には何事もないのは体質のお陰か。しばらくその様子を眺めていると視線に気付いた彼女が見上げて、微笑みながら手を小さく振ってくる。彼女に対して小さく頭を下げるだけの無愛想な対応。これでは余計に気まずい関係になってしまうではないか。
いてもたってもいられなくなって部屋を出て階段を下りた。せめて昨日のお詫びと世話になる身として何か手伝いを申し出て謝罪しよう。しかし玄関にあるはずの靴が見当たらない。リビングから窓を開けて、「あ、あの」頭でシミュレーションしていた通りの言葉が言えない。
「おはよう、海津原君。昨日はごめんね、無理に付き合わせちゃって。二日酔いとかは大丈夫?」
「え、あ、はい。その……、僕の靴が見当たらないんですが」
彼女は人差し指を僕に向けると、ゆっくりと指先を下へと向けていく。
彼女の指先を追って視線を落とすと、ちょうど足下、沓脱石にボロボロの靴が陽を浴びるように干されていた。
「お昼くらいには乾くとは思うんだけど、外出する用事とかある?」
「いえ。用事は何も無いので」
「靴が乾いたらお出かけしましょうか。必要な家具とか欲しいものとかあるよね?」
嬉しそうに笑って、「朝ご飯は簡単でいいかな。そのかわり、お昼は外食にしましょうね」水撒きを終えた未來理さんはホースをしまい、玄関からリビングにやって来た。そのままキッチンに立って朝食の準備をしているらしい。
何か手伝えることはないか、そう聞いても彼女はニッコリと笑んで、「うーん、直ぐ出来るから座ってて」とだけ言った。
ソファに座っていると、「あ、テレビ付けてもらっていい?」チャンネルは指定されていないので無難にニュース番組を付けた。
やはりここ最近で大衆の関心事と言えば八王子市内で起きている事件だ。進捗もないのに、よくもまあ連日繰り返し同じ事ばかりを報道する、とひねくれた性格が嘲る。
「おまたせぇ」
甘えた声音でお盆に載った料理を卓上に並べていく。きつね色のトーストと目玉焼き、トマトとコーンのサラダに茶色くなるまで炒めたタマネギのスープだった。これが簡単な料理ならば、今まで実家で食べていた料理は手抜き以下の家畜の餌と言えよう。これだけの労力を費やした料理を簡単なものと言える未來理さんの家庭力というものが恐ろしい。
トーストやサラダは一般家庭の味と比較しても大差はないが、僕が思わず一口飲んで感嘆の声をあげてしまったのは、トロトロになっているタマネギのスープだった。
「お気に召してもらえて嬉しいなぁ」
満足げな笑顔が目の前に咲いている。
「情報屋の仕事について質問があります」
「はい、どうぞ」
「情報収集をする情報屋、探偵とはどう違うんですか」
「そうねぇ。私たち情報屋は探偵では扱いきれない情報をどんな手段を用いてでも入手し、それに見合った報酬額と引き換えに依頼者へと提供するの。私たちが一働きすれば大金が動くし、情報を公にされたことで命を絶つ人もいる。私たちの仕事は人でなしじゃなきゃ務まらないのよ」
「ちなみにですけど、先月はどれくらい稼いだんですか?」
雇用主の稼ぎを把握しておかなければ雇用される側としても安心して働けない。居候という立場ではあるが、それとはまた話は別である。
「先月は平均的に少なかったけど、一千七百八十万くらいだったかなぁ。海津原君に支払う給料の心配は杞憂ね」
それだけ稼げて平均より少ないと言う彼女は他の情報屋と比べてどれくらいのものか興味が湧いた。だが金銭の心配が無くなればこれ以上踏み込むのも浅ましいので話題を切り替える。
「探偵が扱えずそれだけの金が流れる。命を危険に晒すような依頼も舞い込んできてもおかしくなさそうに思えます。保身とかはないんですか?」
「いつ、どこで殺されるかわからないわ。でも私たち情報屋は地域毎に少人数コミュニティーが存在していて、もちろん私も加盟しているのよ。簡単に説明してしまうと、情報屋たちの情報交換や仕事の斡旋所みたいなところかしらね。情報の一部を共有しあうことで抑止力となるの」
「それでも公にされたくない情報だってあるはずです。どんな手段を使ってでも」
「ええ、だから見極めるの。どこまでなら情報を依頼者に伝えても大丈夫かという線引きを。最悪の場合は依頼を探った相手もしくは組織にも交渉をする。口止め料をもらって、どこまでなら話しても問題は無いか、をね」
「その場で殺されそうな状況ですね」
「相手には情報が共有されていることを伝えた上で、自分をついでに売っておくの。相手にとって自分が有価値であれば見逃してもらえる、こともあるの」
「こともある……。見逃してもらえなかった人もいるってことですか?」
「消息を絶った情報屋も数多くいるわ」
トーストを囓った未來理さんは、「でも私は大丈夫。そういった信用の無い組織からのあからさまに危険な依頼は断るから。私が請け負うのは主に国内外の政治事情や軍関係から警察の協力がメイン。今回の八王子の件がそうね」僕を安心させようと、「これからは海津原君もいることだし、危ない橋は渡らないわ」付け加えた。
「今夜、海津原君を私の所属するコミュニティーに紹介したいの。情報屋として働くなら所属しておいてデメリットはないから」
「そのコミュニティーってどういった場所なんですか?」
「その場所場所によって違うけど、私が所属するのは喫茶店を兼業しているわ。夜になると
朝食も片付き始めたところで、「情報屋に必要なものってなんですか」なんとなしに聞いてみたその質問に、「覚悟と無関心」とだけ答えた。
そう言った彼女からは人間味を感じなかった。何かで自分を防御しているかのようだ。
「イメージして欲しいの。人間の心を囲いの外側に置いておくとしましょう。覚悟で形作って無関心で補強した囲いの内側には、恐怖やストレスが源泉のように湧いて溜まっていく。内側からの力に対して、覚悟が弱かったり、無関心になりきれないと、とうぜん決壊してしまう。溜まりに溜まった恐怖やストレスに心が飲まれれば、精神は病み、最期には自ら死を選んでしまうことだってある」
「面白い説明をするんですね、わかりやすかったですけど。でも、そこも見込んで未來理さんは僕を拾った。違いますか?」
「うーん、それもあるけど、海津原君ならいい情報屋に育ってくれそうという私個人の根拠のない直感かなぁ」
人の死について真面目に話していた彼女が一瞬で表情を笑顔に変えた。こういう切り替えの早さは他人の命に対して無関心でいて成せる業なのだろうか。
食器の片付けるのを手伝い、「皿洗いはやっておきます」これくらいしかできないのが悔やまれるが、「じゃあ私はお洗濯をしてくるからよろしくね。終わったら靴が乾くまで好きに過ごしていて」嬉しそうにリビングを出て行き、すぐ後には洗濯機が回る音が聞こえた。
いざ食器を洗おうと服の袖を捲り上げたところで洗剤とスポンジが無いことに気が付く。代わりに食洗機という一般家庭に浸透していない高価な家電が取り付けてあった。
初めて見るそれを十数秒睨み付け。
これはどうやって使うんだろうか。
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