第89話 中層探索
中層の入口には、協会の雇った見張りが立てられており、上層からの移動を制限していた。見張りを行っていた数人の職員のうち、担当の者へと依頼書を提示して一行は中層へと足を踏み入れた。
彼ら曰く、中層から上層へと歪魔が移動してくるといった様子はないらしい。
「下層から歪魔が移動してきているという情報通りなら、ここからは注意深く観察しつつ進む必要があるね。あれから何日か経っているし、状況は更に変化していると考えたほうがいいかな」
当時、異変に遭遇したユエ達よりも深い階層まで進んでいたアルス達だが、彼らが戻る際にもやはり、中層では見慣れぬ歪魔をいくらか発見していた。その時も多少不審には感じていたが、しかし帰還を優先していたために周囲を調査するといったことはしていない。
つまりここから先がどうなっているのか、あれから数日経った今となっては、その詳細は全くの不明ということだ。
「ふむり・・・ここからは真面目にやるとするかのぅ」
「やっぱり巫山戯てたんじゃねェか・・・」
ここまでひたすら遊んでいたユエも気を引き締める。
探索士らしく、注意深く周囲へと目を向けるようになった一行だが、その足取りは順調そのもの。もともと中層とは中級者、所謂二級探索士程度の実力があれば十分に探索することが出来ると言われている。
出現する歪魔の強さもそれほどではなく、今回の臨時パーティほどの実力があれば、探索しながらでも速度を落とすことなく進むことが出来る。
逆を言えば、そんな二級探索士達が主に活動する中層であるからこそ、
そうして進むこと数時間、一行が40階層を歩いている時だった。
斥候として少し前方を先行していたイーナが、目敏く何かを発見していた。
「見て、この岩の傷。あとそっちには血痕だね。もうすっかり乾いているところを見るに、結構前に誰かがここで交戦してる。血の量からして、致命傷ってほどではないけど、結構痛いダメージを負ってるね」
「岩の方の傷は随分深いですね。武器でつけた傷では無さそうです。しかしこれほどの傷を付ける歪魔となると、少なくとも普段の中層では思い当たりません。ですが大きさから、話にあった
「
フーリアとアクラが痕跡を頼りに、その原因を特定しようと意見を交換する。
ユエにはただの傷にしか見えなかったが、彼らにとっては十分な痕跡なのだろう。聞いたことのない歪魔の名前が次々に聞こえてくるが、前回の探索の際も片っ端から処理していただけのユエには理解るはずもなかった。
「ふんふん・・・ふむり」
彼女に出来ることなど、訳知り顔でふんふん頷きながら周囲の警戒に専念することくらいであった。とはいえ、レイリとアニタが露払いを買って出てくれているために、ユエ達はここまで一度も戦闘していない。挙げ句、調査の役にも立たないとなれば、いよいよすることが無かった。エイルは楽が出来て嬉しそうであったが。
結局その場で分かった事といえば、この場で戦闘があったことと、恐らく下層の歪魔が何かしら、既にここまで移動してきている可能性がある、戦闘したであろう探索師は逃走した、といったことくらいであった。当時ユエ達が
そうして一行が、件の45階層の水場にたどり着いた時、そこにあったのは荒れ果ててた草原と血に染まった湖だった。真紅に染まるといった程ではないが、しかし確かにどす黒く濁った湖面は、以前見た美しい光景とは思えない変わり様であった。
「これは酷いな・・・」
「人の血ではありません。歪魔が争った後か・・・或いは傷を負った状態で入ったか。何れにせよ、歪魔の血ならしばらくすれば魔素に戻って霧散するでしょう。とはいえ当分の間、水場としては使い物にならないでしょうが」
眉をひそめるアルスと、冷静に観察を始めるレイリ。今回の探索に於いては原因の特定も仕事に含まれているため、知識の深いレイリの存在は非常に心強い。
そうして周囲を経過しつつも、各々が調査を進めていたところでまたしてもイーナが何かを発見する。それは今回の依頼の一つ、未帰還の探索士に関係するものであった。
「うぇー・・・食い荒らされてて身元がよくわかんないけど、あっちに死体があったよ。衣服の切れ端とか装備から察するに"狩人"のメンバーだと思うけど」
「そうか・・・イーナ、すまないけど案内してくれるかい?一応僕も確認しておくよ。細かい報告もそうだけど、遺品の回収もしなきゃだしね」
出発前にイーナが口にしていた通り、未帰還のパーティ二組のうちの一組は既に手遅れだったらしい。イーナに連れられてアルスが向かった先、湖畔に沿って数百メートルほど離れた場所には肉と臓物、そして幾ばくかの衣類の切れ端が散乱していた。
こういったことは探索士をやっていれば少なからず遭遇する、謂わばいつものことではあるが、しかし何度経験しても良い気分にはならない。ユエは沈痛な面持ちで遺品の回収の為に遺体を漁るアルス達を遠くに見つつ、しかし次の瞬間には別の方角を睨みつけていた。
小さな耳をひくりと動かし、眼を細めて草原の先を見つめている。まだ他の者は誰も気づいてはいない様子であったが、ユエの飛び抜けた五感は何者かの接近を捉えていた。そんな義姉の様子にいち早く気づいたソルが問う。
「お姉様?」
「敵じゃ。それほど大きくはない。じゃが随分と数が多い」
「アルスさん達を呼び戻しますか?」
「あやつ達ならば心配なかろう。ここまで楽しておったことじゃし、そろそろわしらも一働きしておこう」
「承知しました」
「エイル、ノルン。仕事じゃぞ」
何か思うところでもあるのか、しげしげと湖面を見つめていたベルノルンと、暇に飽かして釣りの準備を初めていたエイルへと声をかける。
「丁度。退屈していたところでした。とても間が良いですね」
「わたし要らなくないッスか?三人で十分ッスよね?」
「数が多そうなのでな。手早く片付けるに越した事はなかろ」
そんな四人の様子に気づいたアニタが、小走りでユエの元へとやってくる。
つい先日深度が上がったアクラやイーナ、フーリア達と同じく深度9であるアニタ。
パーティリーダーであるレイリよりも深度が高い彼女もまた、普段からパーティ内では専ら戦闘要員なのか、探索フェイズでは非常に退屈そうにしていた。
「ゆ、ユエちゃん、どうしたの?敵?」
「うむり」
いつのまにか"ちゃん"呼びとなっていたが、ユエはそれに気づかなかった。
というよりも、自信がどう呼ばれるかなど気にしたことが無かったとも言えるが。
「私はまだ全然感じないけど・・・凄いなぁ。私も戦っていい?」
「良いのか?ここまでも露払いを任せておったし、疲れておらんか?」
「全然!むしろ身体を動かしてるほうが落ち着くから!」
そういって彼女は、柄も合わせれば身の丈ほどもある戦鎚を振り回して、疲労など無いことをアピールする。彼女の巨躯と同程度のサイズとなれば、それはもはや通常の戦鎚ではない。その分重量も凄まじいであろうに、それを事もなげに振り回す姿からは彼女の戦闘能力の高さが伺えた。ユエがこれまで出会った者の中では、ユエ自信を除けば最も力が強いかも知れない。
多数の痕跡が残るこの場所では、荒らされる前に速やかに戦闘を終えたいと考えていたユエからすれば、彼女の申し出を断る理由はなかった。
「では頼むとしよう。初の共同作業じゃの」
「───!!うん!頑張ろうね!」
そうこうしているうちに、調査を行っていたフーリアやアクラ、レイリも彼女達の様子に気づいた。明らかに戦闘準備を行っている彼女達を見て、彼らもまた調査の手を止めて問いかける。
「どうしました?」
「何だ敵か?何処───おぉ?」
「これは・・・地鳴りでしょうか」
耳を澄ませば微かに聞こえる振動音。徐々に大きさを増してゆくそれは、ユエ以外の者達も漸く聞こえてきた。見ればアルスとイーナもまた、遠くから何事か叫びながらこちらへ向かってきていた。
「よいよい、ここは調査の役に立たぬ新米探索士に任せて、おぬしらは調査に専念しておれ」
ユエはそう言うと、散れと言わんばかりにぞんざいに手を払ってアクラ達を追い払う。同じ様に、遠くこちらに向かってきているアルス達へも『任せておけ』と手振りで伝える。
ユエ達の実力を知っているアクラはさっさと引き下がったものの、しかし未だユエ達が戦っているところを見ていなかったレイリは困惑していた。
「お、いいのか?んじゃお言葉に甘えるか」
「いや、しかし・・・この地鳴りから察するに相当数が多いと思われますが」
「嬢ちゃんらが任せろって言ってんだから任せておけって。心配すんな、こいつらアホみてぇに強ぇから」
噂では既に何度も耳にしているが、しかしそれはユエがアルスを蹴り飛ばしたという話だけ。そこらの探索士ならばともかく、こと一級探索士ともなれば、それは実力を推し量るにはなんとも曖昧な情報だ。
今ひとつ納得のいかないような、心配するような表情のレイリであったが、そんな蹴り飛ばされたアルスの仲間であるアクラに、ばしばしと肩を叩かれて漸く引き下がる。既に一度共に戦ったことのあるらしい彼がそういうのであれば、ということらしい。或いは、実力をその眼で見る良い機会だと考えたのかもしれない。
そんなレイリに対して、パーティメンバーであるアニタが頼み事をする。
「レイリさん、アレだけお願いしてもいいですか?」
「ええ、勿論。ウチの代表として、存分に暴れて下さい」
短いやり取りのあと、レイリが何かしらの魔術をアニタに大して行使した。
レイリの青い魔力の粒子が徐々にアニタを包み、体全体を覆ってゆく。
『回り廻り、力は巡る。流れ集う、力の奔流。希うは、彼の者を変格せしめる血気の咆哮。その力が齎すは刹那の煌めき』
詠唱の後、全身を光に包まれたアニタの姿が、その眩さに掻き消える。
次の瞬間、ユエ達の目の前に立っていたのは筋骨隆々の大女ではなく、ユエよりも少しだけ歳上のように見える少女であった。
ユエが童女であるとすれば、それよりも少し成長したくらいの小柄な少女。
その手にはすっかり身の丈の数倍となってしまった戦鎚を持ち、防具はサイズが合わずに地面にずり落ちていた。衣服はぴっちりと身体に張り付くようなものであったおかげか、むしろちょうどよいサイズ感となっている。
もはや邪魔以外の何物でもなくなった防具をいそいそと一箇所に集め、少女が意気軒昂に声をあげた。
「よしオッケー!じゃあ行こっか!」
戦鎚を肩に担ぎ、ウィンクしながらぐっと親指を立ててユエ達に向き直るアニタ。呆気に取られたユエ達は口を開き、まるで金魚のように口を開閉させていた。
「待て待て待てーい!!どういうことじゃー!」
「えっ?なになに?」
「『なになに?』ではないわ!おかしいじゃろ!!どういう原理じゃ!!」
ユエの発した当然の疑問に、レイリがどこか自慢気に
「簡単に説明すると、一定時間彼女の膂力を凝縮する支援魔術です。厳密に言えば体内の魔力密度を変化させて云々なのですが、それは置いておきましょう。つまりその結果身体が縮むというわけですね。恥ずかしながら、実は私は王都で人気の魔術少女の詩が大好きでしてね。それをイメージしながら術式を改良していたらこうなってしまいました」
「あはははは!いや、いいッス!コレはイイッスよ!姫様、あとで詳しく聞くべきッスよこれは!」
「無論です。これは私では考えが及ばない非常に斬新な魔術です。是非後ほどお話を伺いましょう」
どう考えてもユエに使うつもりであろうが、しかし既に目視出来るほどに接近している敵を前にしては、問い詰めている時間はなかった。
「ええい、気になり過ぎて話について行けぬが、後回しじゃ!敵は───」
忙しなく背後や前方を振り返るユエの目に写ったのは、彼女もよく知る歪魔の姿であった。いつぞやの歪園でも、"聖樹の森"でも戦ったことのある歪魔、スコルの大群だった。そしてスコルの特徴といえば、つまり。
「はいソルは留守番決定!物理組はさっさと突撃じゃー!」
「ああっ、最悪ッス!姫様の魔術で楽出来ると思ってたッス!」
「例の。以前騎士団がお世話になった歪魔ですね。ここで借りを返しておきましょう」
「・・・」
アニタのまさかの変身から続く早すぎる展開に、弾かれるように飛び出してゆくユエ達物理組。一方居残りを命じられたソルは、なんだかんだと暇を持て余していたのか、或いは久しぶりにユエと同じ戦場に立ちたかったのか。
すっかり不機嫌となってしまったソルが、無言でユエの尻を眺めていた。
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