第76話 エイルと山羊

「もう来てる!そこまで来てる!あああッ、もうッ!!こうなったらやるしか無いッ!!ミナ!エイミー!準備して!ルヴィはベイルを安全な場所まで運んで!」


 既に目と鼻の先まで迫った黒霊山羊ヘイズを睨みつけてウルが叫ぶ。

 事ここに至り、彼女らに逃走は許されていなかった。苦虫を噛み潰して前を見据えれば、そこには先程自分たちが苦戦した歪魔と変わらぬ姿があった。


 持ち前の明るさで誤魔化してはいたものの、ウル達のパーティが機能していないのは紛れもない事実であった。ベイルは自分の役割をきっちりと熟してくれた。であれば現在戦えない事に文句などあろう筈もない。しかし現実問題として最前衛の盾役が潰されている以上、代わりに前衛を務めるのはウルにしかできない。


 だが元々パーティ内でのウルの役割は攻撃役だ。

 防御技術はそれほど高くないと自覚していたし、ましてや守備に優れたベイルをあっさりと戦闘不能に追い込んだ相手ともなれば、ベイルの代わりが出来るとは、ウル自身思えなかった。

 頼みの綱であったイサヴェル公爵は夢の中。この状況で眠れることには驚嘆の念を禁じ得ないが、ウル達にとって状況は最悪でしかなかった。助かったと思った矢先にまたしても異常事態イレギュラー。如何に歪園メイズがイレギュラーまみれとはいえ、流石にコレは無いだろう。今日はどうしてこれほどツイていないのか。ウルは次々に浮かんでくる愚痴を、ただただ投げ捨て続けた。現実逃避は死とイコールだということを、長く探索士を続けてきたウル達はしっかりと弁えていた。


 出来る出来ないではなく、やるしか無い。そうでなければ死ぬのだから。

 意を決してベイルに代わり、パーティの最前に立とうとするウルに、しかし待ったがかかった。


「あー、覚悟完了したところ申し訳ないんスけど、下がってて貰えるッスか」


 声の主は褐色メイドエルフであった。

 面倒そうに、渋々であることを隠そうともしない声色で、しかしその両の瞳は確かに迫りくる敵へと向けられている。慌てた様子のない足取りでウル達の前に立つエイル。くるぶしまであるロングスカートが靡けば、健康的な脚が見え隠れしていた。


「ッ!?何をッ!冗談を言っている場合じゃ───」


「私はあの二人ほど余裕あるわけじゃあ無いんスよ。だから言ってるんス。邪魔だから退くッスよ」


 そう言い放つエイルはいつの間にか両手に黒皮の手袋を装着していた。

 この手袋こそがエイルの主要兵装である『殺戮者ゴームグラス』。

 刀以外については門外漢であるユエと、あらゆる武具に精通したルンドが協力して作り上げたエイル専用の武器である。その禍々しいネーミングもまた、ユエの持つ知識とルンドの拘りの折衷案だ。


 エイルの現在の深度は8であり、あくまでも深度のみで比較した場合の話ではあるが、これは深度6とされている黒霊山羊ヘイズを一人で相手取った場合に五分か微有利といったところである。

 それでもエイルが『余裕が無い』と言うのには理由があった。


 エイルはアルヴにおける良家の子女である。

 貴族の長男長女以外を王族の元へ奉公に出すということ自体は珍しいことではないが、しかしエイルの場合は少し特殊であった。エイルの父親と国王であるバルドルトは幼い頃より私的に懇意にしていたため、その繋がりでバルドルトから個人的に頼み込まれたのが生まれてくる王女の世話役であった。

 こうしてエイルは、ユエとソルの二人と共に育てられることとなった。


 ソルがユエにべったりであったため、連れ回される形で共に"聖樹の森"を駆け回ることの多かったエイルだが、そもそも彼女が修めている技術の全てはソルの世話と身辺警護の為である。

 つまりは家事全般とである。


 エイルの『余裕が無い』というのはつまるところ、ここに起因している。

 今でこそ、そこらの探索士より余程戦えるようにはなったものの、歪魔や獣に対する戦闘技術はユエやソルと比べれば格段に低いのだ。あの二人が異常といえばそれまでだが、エイルは自己の対歪魔における経験と練度は低いと認識している。故に『守ってやる程の余裕が無い』のだ。


「うっ・・・で、でも・・・」


「いいから。ここは任せておくッス、よッ!」


 言うが早いか、前傾で駆け出したエイルはまるで地を這うかのように低姿勢となり、いつの間にか取り出した投げナイフを素早く黒霊山羊ヘイズへ向けて投擲する。ユエの特性投げナイフは極限まで風の影響を受けないように設計されており、直線的な軌道でありながらも凄まじい速度で敵へと到達する。前両足の関節、眼球、口内。例え小さな投げナイフであっても、刺されば多少なり効果が得られそうな場所、すなわち急所を一切の容赦なく狙い撃つ。


 だが当然というべきか、放たれたナイフはいとも簡単に弾かれ、或いは薙ぎ払われた角によって叩き落されてしまう。完全にエイルを敵と認識した黒霊山羊ヘイズが怒りを顕にして速度を上げた。

 しかしエイルとて、先のナイフで傷を与えられる等とは思っていない。刺されば幸運ラッキー程度のものである。本命は別。エイルが『殺戮者ゴームグラス』を軽く握り込めば、黒霊山羊ヘイズの死角となる側方上空から、いつの間にやら投擲されていた短剣が角度を急変化させて敵の急所へと襲いかかる。


 先の投げナイフよりも少し大型の短剣が六本。回り込むように飛翔するそれらが、正面からは見えない急所、すなわち耳や後頭部、頚椎を貫かんとしていた。

 直線的な軌道で飛来するナイフに眼を奪われれば、驚くほど本命には気づき難い。


 エイルに誤算があるとすれば、獣型歪魔の表皮は人のそれとは比べ物にもならないほど頑強であるということだろう。後頭部や頚椎を狙った短剣はその強靭な体皮に阻まれ、耳を狙ったものは体毛に阻まれてしまっていた。


「あーッ!やり難いッス!!だから嫌なんスよ!」


 思い通りにいかなかった苛立ちが声になるが、エイルの嘆きなど黒霊山羊ヘイズに理解出来るはずもない。如何に歪魔との戦闘経験が少ないとはいえ、その身のこなしは軽く素早い。頭上へ影を落とす巨大な蹄を、地に手を擦りながら滑るように走り抜けることで回避し、すぐさま次の手段を講じる。


(てか危なッ!目測誤ってたッス!掠ったんスけど!?)


 見ればスカートの裾がほんの少しとはいえ切り裂かれてスリットのようになっていた。

 人と歪魔では、大きさも速度も動きも、何もかもが違うのだ。故に一度のミスが命取りに成りかねない。今の一瞬でさえも、あとほんの少しズレていたら踏み潰されていた可能性すらあった。


(投擲はイマイチッスね・・・そうなると肉薄するしかないッスか。いやー・・・嫌すぎるッス)


 エイルの戦闘技術は、直截的に言えば暗殺系である。

 人であればただナイフを投げるだけで良い。しかし歪魔となるとそうはいかないらしい。根本的なダメージ不足がエイルの選択肢を削っていた。


「ま、やるしか無いから、やるんスけどね───ッ!」


 そう言ってスカートを翻したエイルの両手には小さな包みが二つあった。

 赤い包みと白い包み、そのうち白い方を黒霊山羊ヘイズの鼻先へと放り投げる。見るからに怪しいが、相手は所詮知能の低い獣だ。自らへと飛来する物体は、それがなんであれ取り敢えず振り払ってしまう。振り払われ、一瞬のうちに破れた包みからは大量の白い粉が吹き出し、粉煙となって黒霊山羊ヘイズの顔面を覆い隠してしまう。


 視界を失った黒霊山羊ヘイズが苛立つように頭部を振り回し、徐々に拡散してゆく煙。次いで赤い包みを放り投げる。瞬間、赤い包みから溢れた粉末が白煙と反応し、大きな破裂音と共に激しい爆発が黒霊山羊ヘイズの顔面を襲った。視界のない状態で突如発生した爆発は、黒霊山羊ヘイズへと少なくないダメージを与えることに成功していた。右目は潰れ、鼻頭は大きく裂けて流血しており、顔付近の体毛も燃えている。とはいえ当然、この程度では倒すには至らない。


 爆炎が未だ残る中、思いがけない痛みに猛り狂う黒霊山羊ヘイズの、その隻眼となった瞳が次に写したものはエイルが握る鉄片であった。まるで釘を片手剣ほどに大きくしたような鉄片の、その鋭く尖る先端の鈍い輝きが、黒霊山羊ヘイズの左眼が写した最後の光景だった。


 エイルによる一連の攻撃はまさに瞬く間の出来事であった。

 黒霊山羊ヘイズからすれば、わけもわからぬうちに光を奪われたとしか言いようがない。


「ふんッ!・・・うわっ、ばっちぃッス!」


 肩まで突き刺した右腕をと引き抜くエイルは、自身のメイド服が酷く汚れてしまったことを嘆いた。致し方ないとはいえ、換えがあるとはいえ、やはり気分的には最悪である。


(っていうか、ここまでやってもまだ生きてるのが信じられないッス。やっぱり人とは勝手が違うッスね───うわッ)


 などと自らの攻撃の成果を確認していたところで、エイルは思案を急ぎ取りやめた。

 黒霊山羊ヘイズは感覚器が特別優れているというわけではない。故にエイルは、両目を潰し視界を奪えば大人しくなると考えていたのだ。しかしエイルの予想に反して、視界を失った黒霊山羊ヘイズは暴れに暴れた。エイルは腕の汚れを落とす間もなく慌てて退避する。


 巨体である黒霊山羊ヘイズが暴れれば、矮小な人間───厳密にはエルフだが───にとってはそれだけで驚異となる。踏み潰されれば大怪我はもちろん、そのままあっさり死んでしまう可能性も高い。このまま放置しても直に黒霊山羊ヘイズは絶命すると思われるが、しかしこれだけ暴れるとなれば速やかに処理する必要があった。


「だ、大丈夫ですか!?怪我は!?」


 言われるがまま、少し離れた場所からエイルの戦闘を固唾をのんで見守っていたウルが心配して駆け寄ってきた。未だ敵が暴れ回っている以上、本音を言えば離れていて欲しかったが、しかしそれも直ぐに終わることをエイルは知っている。


「大丈夫ッスよ。スカートが破れたのと、右腕がベットベトになったくらいッスかね・・・やっぱり大丈夫じゃないッスね、最悪ッス」


「あ、あはは・・・ご愁傷さまです」


 未だ敵は倒れていないというのに汚れの心配をするエイルに、ウルもまた毒気を抜かれたのか訳の分からない合いの手を入れていた。ベテランの探索士であるウルからすればこのくらいの汚れは日常茶飯事なのだが、目の前のどう見ても探索士といった風ではないメイドにとっては耐え難いだろう。そんな風に場違いな事を考えていたウルであったが、ハッとしてエイルへと詰め寄り、興奮も顕にして捲し立て始めた。


「ていうか最近のメイドさんって凄い強いんですね・・・一人であそこまで追い詰めちゃうなんて信じられなくて。私ちょっと感動と興奮で心臓バックバクですよ!公爵様がなんかスヤッスヤになっちゃって、ホントにもう駄目だと思ったんです!一発で貴方のファンになっちゃったかも!あーっもう!凄かった!」


「やー・・・駄目駄目ッスね。やっぱり慣れない事はするもんじゃないッス」


「いやいやいや、意識高すぎません?そんな謙虚なところもなんかいいなぁ・・・あ、ところであの大暴れしてるのどうするんですか?トドメ刺します?放置します?」


「ん、ああ。それなら必要ないッスよ。もう終わってるッス」


「へ?い、いやでも───」


 要領を得ないエイルの言葉に困惑するウル。

 そんな彼女を尻目にエイルが力を込め、『殺戮者ゴームグラス』を装着した右腕を胸の前へと引き絞りながら握り込む。ウルにはそれがどういった動作なのか、まるで見当も付かなかった。


 直後、大暴れしていた黒霊山羊ヘイズが耳をつんざくような不快な断末魔の声を上げ、ひび割れた地面の欠片を撒き散らしながらその巨体を地面に横たえた。よくよく見てみれば、人間の数十倍、あるいは数百倍はありそうな太い首がすっぱりと切断されていた。物言わぬ遺骸と化した黒霊山羊ヘイズからは、滴り落ちる血によってキラキラと輝く極細の糸のようなものがエイルの右手まで伸びていた。


「え"・・・?えっ!?どういう・・・?」


「暴れれば暴れるほど食い込む、ってやつッスよ。すれ違った時に床と脚に絡めておいたッス」


「いやいや、何をで解説しちゃってるんですか?何の話をしてるんですか?」


「あとはキュっとすれば自分の力で勝手にスッパリっス」


「聞いて!?しかも最後めっちゃ雑だし!」


「侍女たるもの、謎は多い方がんスよ」


「深いこといった風に締められた!!しかも全然意味わかんない!」


「あっはっは」


 渋々行った戦闘であったが、思いがけずファンを獲得したことで気分を良くしたエイルは、このような状況でもキリっとした表情で眠り続けるベルノルンの回収をウル達に任せ、とうに戦闘を終えているであろう二人の元へと歩いていった。

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