第74話 春疾風

身体が大きいということは、力が強いということだ。

野生動物が威嚇の為に立ち上がり、自らを大きく見せることで力を誇示するように。

それはこちらの世界の獣や歪魔でも同じ事だ。大きな力を持つ歪魔は基本的にその体躯も巨大である。


無論例外はある。

魔素の影響を余すこと無く凝縮する形で深化を遂げた結果、逆に体躯が小さくなる場合も有るには有る。

だがやはり、例外は例外でしかない。一般的には身体が大きな者のほうが強いのだ。


そんな巨大な歪魔である黒霊山羊ヘイズは探索士協会が定めるところの深度6。

人間の深度と歪魔の深度はイコールではない。歪魔の深度とはつまり、協会が推奨している五人パーティで戦闘した際の目安である。要するに深度6の歪魔と戦うのであれば深度6の探索士を五人集めたパーティで挑むのが望ましいということだ。ユエ達が王都で出会ったヴィリーやリスニは黒霊山羊ヘイズを上回る深度7の探索士であったが、そんな彼らでも黒霊山羊ヘイズとは一対一で戦うのは非常に危険な行為だ。


前述の通り、巨大な体躯は力の強さの証明だ。獣型の歪魔である黒霊山羊ヘイズは、半人型と比べれば知能はそれほど高くないが、その分膂力では半人型を大きく上回る。

『大きくて強い』というシンプルな暴力は、ただそれだけで簡単に人間を蹂躙してしまう。その上毒まで備えているのだ。故に黒霊山羊ヘイズは、深度6と定義された多くの歪魔の中でもトップクラスの脅威度であると言える。


しかし黒霊山羊ヘイズは困惑していた。警戒と言ってもいい。

迷宮内を静かに流れる冷たい空気と、草木と湖が作り出した薄い靄の中。ただゆっくりと、己に歩み寄るだけの存在から目を離せなかった。つい先程まで、己の眼前で必死に抵抗をしていた矮小な存在と同じ生き物である筈なのに。


黒霊山羊ヘイズはこれまでにも幾度となく矮小な者達にんげんを踏み潰してきた。ある時は愚かにも向こうから、またある時は己から。歪魔である黒霊山羊ヘイズにとって矮小な者達にんげんとは路傍の石と何も変わらない。邪魔であれば蹴り飛ばす、ただそれだけの存在だった。


だが今、己の前に立ち塞がるは、果たして今まで踏み潰してきたモノと同じ存在なのだろうか。からは何も感じられない。悪意も、敵意も、恐怖も、不安も。

これまで経験したことのない得体の知れぬ存在を前にして、黒霊山羊ヘイズと戯れるのを止めた。そうして体ごと向き直り、濁る瞳でを睨み続けていた。



* * *



一方で、ベルノルンもまた悩んでいた。

出番を譲って貰ったは良いものの、さてどうするかと問われれば、取り立てて言うほどの計画があるわけでもなかった。だがここまでの探索では、歯ごたえのあるような手合と遭遇したことは無かった。故に退屈気味であったことは事実だ。


ただ倒すだけでは味気ない。ただ試し切りにするのでは勿体がない。それでは折角譲ってもらったというのに意味がない。どうせ戦うのであれば何かしら自らの益にしなければ。


そこまで考えたベルノルンは、しかし思い直すようにかぶりを振った。

確かに黒霊山羊ヘイズは強力な歪魔だ。ベルノルン本人は戦った経験は無いが、騎士団という括りでは確か戦闘した経歴があった筈だ。当時の報告書を思い返せば、何人かの死傷者も出たと記憶している。

ならばベルノルンが苦戦するか、と問われれば答えは否。戦う?それも否。今から始まるのは戦闘ではなくただの蹂躙だ。


と、先程まで交戦していた探索士達を横目に見れば、少数であるとはいえ統制の取れた動きで後退してゆくのが見える。成程、探索士として彼らは確りと一流なのだろう。怪我人のフォローも行われている上に、双剣使いの女が殿しんがりを受け持っている。軍属であるベルノルンは殿の重要性を熟知している。その危険性と責任も。


故にベルノルンは素直に感心していた。

全員が何やら驚いた表情で、自分の顔を見ながら何事か話しているのが気にはなったが。


とまれ、これで後顧の憂いは無くなった。言い方は少々悪くなってしまうが、ベルノルンにとって唯一、彼らが邪魔になることだけが心配だったのだ。下手に手出しをされること、或いは黒霊山羊ヘイズを引き連れて逃げ回られること。どちらも苦にもならないとはいえ、面倒なものは面倒なのだ。


黒霊山羊ヘイズもまた、自分を敵として認識しているのか。或いはただ未知に対して警戒しているだけなのか。いずれにせよ、こちらに意識を割いてくれているのであれば問題はなかった。


(さて。そうとなれば折角ですし、例のアレを試してみましょうか)


方針を決めたノルンはその場で歩みを止めた。黒霊山羊ヘイズとの距離はおよそ50mほどだろうか。

この程度の距離、彼女に取っては有って無いようなものである。


ユエとの模擬戦を行ったあの日以来、ベルノルンはただ強くなることを望んだ。

そのために主な犠牲となってくれた第二、第三騎士団長には感謝している。しかし彼らではベルノルンの望むモノを与える事が出来なかった。

速度には自信があった。全力を出した自分は誰にも捉えられないと、そんな驕りにも似た感情すら持っていたといっても良い。しかしそんな彼女はあの模擬戦で考えを改めた。


見えていないにも関わらず、自分の攻撃を捌く者が居た。

思わぬ手段で動きを制限され、誘い込まれ、そうして事実上の敗北を喫した。

屈辱、などと思ったことはない。偏に、ただただ悔しかったのだ。自分でも知らなかった事だが、どうやら自分は非常に負けず嫌いであったらしい。


故に、二度と負けない為に考えた。

剣技を磨くのか。不足している力を補うのか。策を用いるのか。

勿論どれも有効だろう。だがそれらは、果たして自分の求める答えだろうか。


草と蔦に覆われた硬い地面を、確かめるようにつま先で数度叩く。


(否。力でもなく、策でもない。私が欲しいものは唯一つ)


双剣を両手に、地面へ向けるように握り直す。

グローブ越しですらぴったりと吸い付くようなその感触を確かめる。あの時初めて知った悔しさを昇華させて、辿り着いた彼女の決意を胸に。そうして魔術を行使する。それは詠唱のない、たった一つの呪文キーワード


「"辿り至る春疾風アクセル・ステア"」


ベルノルンの身体から煌めく碧の魔力が溢れ、激しく吹き荒れながら彼女の脚へと纏わりついてゆく。

徐々に収束する嵐は脚から足へ。ミスリル製の鉄靴を覆い尽くし、風で編まれた羽が周囲の葉を舞い上げていた。その激しい風圧は周囲の空気を震わせ、密度を変化させる。足元は蜃気楼のようにブレて揺らめいている。ベルノルンの放つ異様な気配に、先程まで敵意を顕にして彼女を睨みつけていた黒霊山羊ヘイズが、その鋭い蹄を一歩前に差し出そうとした、ように見えた。


涼風すずかぜ


瞬間、ベルノルンの姿がその場から霧散する。

その速度はいつぞやの模擬戦の時の比では無い。空気が泣き叫び、爆発のような轟音が鳴り響く。その衝撃は遠く湖面まで届き、水面を波立たせていた。


初風はつかぜ


その様子を周囲で見ていた者は、誰一人彼女の姿を捉える事はできなかった。

五人の探索士達は勿論のこと、ソルも、エイルも、深度の上昇によって元々の優れた視力がさらに上昇したユエでさえも。先程まで呑気に食事をしながら観戦していたユエは、その両手から肉を取り落とし、口をあんぐりと開いて驚きを隠せずにいた。


風冴かぜさゆ


最初に爆音が鳴り響いてから数瞬後、周囲の全てを置き去りにしたベルノルンがその姿を見せた時、事は既に終わっていた。足を踏み出したように見えた黒霊山羊ヘイズの蹄がようやく地に着いた時、両足が膝の上でズレ落ちた。次いで、いつの間にか切り落とされていた後ろ足が崩れ、長く鋭い角は幾つもの欠片へと割断され、最後に太い首が斬り飛ばされて頭部が宙を舞う。

後に残るのは、ただの一歩も踏み出すことを許されずに絶命した黒霊山羊ヘイズの、血を流すことも忘れて崩れ積み上げられた肉片だけであった。


返り血の一滴も付いていない双剣を、まるで血振りするように両手で振り払い、ゆっくりと納刀する。そうしながらも、阿呆のように驚き呆けているユエへと目をやるベルノルン。

そんな彼女の顔には、いつものようにむっつりとした無表情でありながら、心なしか満足そうにも見える気色が浮かんでいた。


なんのことはない。彼女が望んだものは唯一。

自分の全速を捉える者がいるのなら、捉えられなくなるまで速度を上げれば良い。気配だとか勘だとか、そんなものすら関係の無いところまで。

結局の所、彼女もまた脳筋の一人だった、というだけの話であった。

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