第一章

第1話 目覚め

 意識がある、と自覚したとき、最初に感じたのは匂いだった。


 都市部とは間違っても言えないような、直截に言えば田舎に暮らしていたが故に、嗅ぎ慣れた匂い。

 木々特有の、人間が本能的に落ち着くような、少し湿った森の香りであった。

 どちらかといえば彼女にとっては好みの香りではあったが、記憶を辿るうちにおかしなことに気づいたのだろう。

 慌てて周囲を見渡そうとするものの、どうにも首を動かすことが出来なかった。

 そもそも視界がはっきりとせず、薄っすらと、緑がぼやけて見える程度であった。


 思い起こした最新の記憶によれば、弟子を帰し、鍛冶場で道具の手入れと片付けを行っていたはずであった。

 弟子を持つようになってからも、手入れと片付けは必ず自ら行うのが習慣となっていたためだ。

 そうして片付けを行っている最中に、僅かに胸に痛みを感じと思った矢先、不意に視界が暗転した記憶があった。

 つまりは室内にいた筈で、田舎とはいえ流石にここまで強く森の香りがすることなどない。

 だが少なくともここが病院の一室、などということはなさそうである。


 首どころか、身体全体が思うように動かず、視界も悪い。

 ならば、と声を出そうと試みるも、喉から出るのは声として形を為さない、呼吸に喘ぐかのような音。

 まるで赤子の泣き声のような、そんな音であった。


 初めての感覚であった。

 最初は身体を縛られているのかと思っていたが、どうにもそうではなさそうである。

 これまで自分の身体が、自分の思う通りに動かないことなどあっただろうか。

 それこそ記憶の中には一度も無かった筈だ、と思い起こしたところでふと気づく。

 そう、記憶の中には、である。

 ここで一つの考えへとたどり着く。それはつまり、覚えていないほどに遠い昔のことなのでは、と。

 記憶力には自信があるほうだったし、呆けるほどには年老いてもいなかった。

 あるはずもないことだが、しかし可能性としては無くはないのだろうか。

 何より、この肌に伝わる感覚はどうやら今の自分は布に包まれた状態である。

 ついでに恐らく全裸であった。


 つまり今の自分は、なのだろう、と思い至るまでには、たっぷり15分ほど必要だった。

 とは言えあくまでも可能性、である。

 そう簡単に、自分は生まれ変わったのだ、と結論付けられるほどの経験を、彼女は積んではいなかった。

 本で目にしたことくらいは何度もあったが。

 そもそもそうだとして、恐らくは野外と思しき場所にいる理由が不明である。

 まさか森の中に捨てられているわけでもあるまい。


 ともあれ身体は動かせず、声も出せず、周囲の確認すら出来ないとなれば、出来ることなど思考以外に何も無い。

 こうして彼女は眼を閉じ、回顧する。

 いつからか癖になってしまった、何度も行ってきたことだ。

 そうして過去を遡り、思い起こす度、いつも同じところに行き着くのだ。

 自分は未だ、何も成せていない、と。

 だがもしも。自分が今、こうして生きていることが現実ならば。

 自分はどうやら、まだ終わってはいないらしい。

 認めよう。自分は第二の人生を得たのであると。

 ならば今度は、今度こそは辿り着いてみせる。自分に誇れる一振りへと。


 そうして決意し、眼を開いたところで、初めて気づいた。

 なにやら髭面の老人が、こちらを至近距離から覗いていたことに。

 老人のほぼ零距離での顔面に心臓が止まるかと思うと同時、意識せず喉から音が出る。正真正銘の泣き声であった。


「───────────?」


 老人は眉を落とし、何かを話している様子だが、言葉がまるで理解できなかった。

 義務教育で教わった程度にしか知識が無かったが、少なくとも英語ではないことは分かった。もちろん日本語でもない。

 というよりも、テレビや動画サイト等、昔より外国語に触れる機会の増えた昨今でさえ、全く聞き覚えがないと断言できる言語だった。


 どうやら生前、まるで接点のなかった国に産まれたようであった。

 そう、見たことも聞いたこともないような小さな国に生まれたのだ。そうに違いない。

 地球上に一体いくつ国があると思っているのか巫山戯るな、と誰に言うでもなく頭の中で文句を垂れてみせた。

 情けなくも泣き喚きながら考えを巡らせていると、老人が指で頬を撫でてくれていた。

 生前の記憶があるとはいえ今は赤子である。

 赤子らしく笑顔の一つでも差し上げようと、老人の指を握る。


 まるで枯れ木を踏んだような、軽快な音とともに、老人の指は明後日の方向へとひん曲がっていた。




 ──────────────────



「む、泣き声・・・じゃと?」


 聖樹の朝露を採取する、その途中であった。

 一月に一度、聖樹の特定の場所にのみ溜まる朝露と呼ばれる樹液を採取するのが、彼の仕事であった。

 もはや魔素の塊とでも呼ぶべき超高濃度な魔素を含んだそれは、人が飲めば魔素の欠乏から起こる数々の症状をたちまちに癒やし、体内の魔素による自然治癒力を爆発的に促進させることで、ある程度の傷も癒やしてしまうほどの優れた薬となる。

 エルフの国、ここアルヴの奥地の森に唯一存在する聖樹から、一年に五人分しか採れない貴重な薬であり、各国からの要望により、年に四本を分配する形で販売していた。

 なお残りの一本はアルヴに保管されるようになっている。


 そんな貴重な薬である朝露は、採取する者も厳しく選定され、採取箇所も代々この役目を負った者にしか伝えられることはない。

 そもそも聖樹周辺は、聖樹の影響で歪園メイズと化しており、少数しか存在しないとはいえ歪魔わいまも存在する危険な場所である。

 遭遇した場合にはそれを退ける、ないし、排除するかその場から逃げることが出来るだけの実力が必須なことは言わずもがなである。

 彼はアルヴの前国王の兄であり、世界的に有名な魔術研究の第一人者でもある。

 その実力は折り紙付きであった。


 そんな彼が採取の折、耳を澄ませてようやく聞こえるかどうか、というほどの小さな声を聞いた。ともすれば気の所為かと流してしまうほどの小さな小さな、泣き声だった。

 前述の通り、ここには自分しか存在しないはずである。

 不審に思い、慎重な足取りで声が聞こえたと思しき場所へと辺りを見回しながら向かう。まるで自分がこれから、悪事でも働こうとしているのかのような気分になった。

 そうして今しがた自分がいた場所から、凡そ150mほど歩いた場所、聖樹の根元であった。


「赤子・・・?それも鬼人族の子じゃと?」


 おそらくは手製の、木で編まれた籠の中に、布でくるまれた赤子が、恐らくは捨てられていた。

 生後3~4ヶ月といったところだろうか。美しい銀色の髪に、額の両脇に小さな二本の角。

 紛うことなく鬼人族の赤子が、目を閉じて静かに存在していた。

 その姿は、赤子であるというのにも関わらず、ただ美しいと老人に感じさせた。


「ありえん、どういうことじゃ」


 鬼人族は基本的に黒髪、もしくは赤髪、青髪である。銀髪の鬼人族など彼は聞いたことがなかった。

 何故鬼人族が、エルフの国における聖地であり、歪園メイズでもあるこの場所に?

 それ以前に、種族など関係なくそもそもこの場所には自分以外存在するはずもない。

 状況全てが、あまりにも不自然であった。

 とはいえ、このような場所に残していくわけにはいかない、ということだけは確かであった。

 何より、哀れであった。


「状況はまるでわからんが、それでも見て見ぬふりはできんじゃろ」


 彼は聖人ではないが、それでも人並みには子どもが好きであったし、ちょうど現国王である甥のところに娘が生まれるところであった。

 別段エルフの国だからといって閉鎖的なわけでもない。他種族も頻繁に訪問してくるような国である。

 義姉としてよい姉妹になってくれるであろうと判断し、ならばこの哀れな幼子を自ら育てようと、そう思った。

 そうして考えるうちに赤子が眼を開き、彼を見て泣き出してしまった。


「おお、すまんのう。顔が怖かったかのう?」


 あやすように頬を撫でると、赤子が指を、小さな手で握り返してくる。

 ただそれだけで堪らなく愛おしく感じてしまうほどに、既に彼は赤子に感情移入してしまっていた。


 と、そう思った次の瞬間に、老人の指は綺麗にへし折られていた。


「えぇ・・・力強すぎじゃろ・・・」



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