♯51 凛々しいお姉さんと、混浴してしまった…




 天幕を張り、荷下ろしした物資を運び込んで、ボク・ルーナ・カグヤ・ツバキ以外の面々が『トゥオネラ・ヨーツェン』に戻っていったころには、すっかり日が暮れていた(なおカグヤを除く女性乗組員クルーみな、ディアンドルっぽい衣装に着替えた)。


「疲れたー……」


 ボクはマリナの家から歩いて五分くらいの距離にある小さな泉に肩までかり一息つく。

 滝から流れる水で出来た、小さな川の始点でもあるこの泉は、一角が木製のへいでブロック分けされており、そこには『竜宮の実』がふんだんに投入され、泉の水を湯へと変えていた。


「まさか泉を利用した露天風呂まであるとはなぁ」


 気持ちいい……。オマケに頭上、『うろ』の天井に空いている大きな穴から覗く満天の星空がとっても綺麗……。


「ロケーションといい、少しだけ熱めのお湯といい、天然の温泉みたい……」


 控えめに言って最高だ。

『トゥオネラ・ヨーツェン』にも檜風呂ひのきぶろふうのお風呂があって、あれはあれでおもむきがあるけれど、この解放感は屋外ならではと言える(まあ、航海中も毎日お風呂に入れるだけで有り難い話ではあるのだけれど)。


「ここを使わせてくれたマリナに感謝しないと」


 ……マリナといえば。『ここのお水には様々な効能があるんですよ! 肌の美容にいいですし、治癒能力や免疫力なんかも高めてくれるんです。あ。あと、飲むと生殖能力も高まりますので、畜産にも役立つと思います☆』とか言ってたっけ。下手な温泉よりよっぽどスゲエ。


 ………………。


「……生殖能力が高まるのって、家畜だけじゃなく人間にも効果があるのかな?」


 確認したところ、『生殖能力が高まる』というのはそのまんま『子供が出来やすくなる』という意味みたいなのだけれど……。みんなには――特に<魔女>のお父さん・お母さんがたには、注意を促しておいたほうがいいんだろうか……。『気が付いたらここが赤ちゃんで溢れかえってました』とかシャレにならないぞ……(ちなみにマリナに『人間にも効果があるの?』と確認したら無言の微笑えみだけが返ってきた)。


「ま、いいか。そのへんのことを考えるのはあとで」


 今はこの露天風呂を堪能することに集中したい。


 ……ちなみにルーナ、カグヤ、ツバキ、マリナの四人は一足先に入浴を済ませ、先に戻っている。

 実を言うと、カグヤに『だんなさまも一緒に入る?』と揶揄からかわれ、それにルーナとマリナが『いいですね☆』と同調する場面があったりもしたのだが、もちろん丁重にお断りさせてもらった。


「……なんだかなぁ」


 カグヤはともかくルーナとマリナの第一印象は『慎み深くしっかりしたお嬢様』だったのになぁ。

 カグヤの冗談に、姉妹みたいな阿吽の呼吸で悪ノリしてくれちゃって。


「いや、マリナはともかくルーナのあれは『悪ノリ』とは言えないか……」


 あの目はどう見ても本気だった。

 あのコが一緒にお風呂に入りたがったのはこれが初めてじゃないし。


「普通、十歳ともなれば異性との混浴にもっと拒否反応を示すものなんじゃないの?」


 お嬢様だから世間ずれしているとか、そういう問題じゃないと思うんだけど。


「その点ツバキは流石お姫様というか、一番マトモな反応だったな」


 カグヤの冗談に『まだ結婚しとらんのに混浴なぞもってのほかじゃ!』と顔を真っ赤にしていきどおってたし。


「あー生き返るー」


 目を閉じてしみじみと呟く。


「ホント最高☆」



「――なにせ美少女たちが入ったあとの残り湯だものね?」



「いや、残り湯じゃないから。あの塀、開閉できる場所が何か所かあって、水の入れ替えが可能だから」

「でも、あのコたちが入浴後に水を入れ替えたとは限らないじゃない?」


 …………………………。

 ん?


「ほら。見て、ここ。金髪が一本浮いているわよ? これ、あのルーナってコか、マリナってコの髪の毛じゃない?」

「⁉ い、イイイイイイイイイイ、イリヤ姉ちゃんっ⁉」


 目を開けたら、ポニーテールをほどいたイリヤ姉ちゃんが真横にいた。


「いつの間にそこに⁉」


 全然気付かなかった! すっかり気が抜けていたとはいえ、ボクがここまで接近を許すとは……! やるなイリヤ姉ちゃん!


 いや、そんなことより、


「な、なんでイリヤ姉ちゃんがここにいて、裸でお風呂に入ってるの⁉」


 アリシアたちと船に戻ったはずだよね⁉


「何を言っているの、イサリ。お風呂は裸で入るものでしょう?」

「わー、今のやりとりラブコメ漫画みたーい☆ ……って、絶対わかっててボケてるよね⁉」


 まさかイリヤ姉ちゃんのボケに対してツッコむ日が来るとは思わなかったよ。


「冗談よ。……実はあなたと二人きりでお話がしたくてね。一人でこっそり戻ってきたの。で、ここへ向かっているあなたを偶然見かけたものだから。こっそり尾行つけさせてもらいました」

「二人きりで話を……?」

「ええ」

「だとしても、イリヤ姉ちゃんがお風呂に入る必要ある……?」

「あなたが気持ち良さそうに入ってるのを見たら、わたくしも入りたくなっちゃったのよ」

「ボクが出たあとにゆっくり入ればいいじゃない」

「だからあなたとお話がしたかったんだってば。――ねえ、そっぽを向いてないで、こっちを向いてくれない? 大切なお話なの」

「そ、そうはおっしゃいますけども」


 あなたもボクも身体にタオルを巻いていないんですが。

 このお風呂、濁り湯じゃないから、こんな肩と肩が触れ合いそうな距離だと全部丸見えなんですが。


「大丈夫よ。ほら、大切なところはちゃんと腕で隠してるから」

「どれどれ……あ、ホントだ」

「えっち!」

「『ほら』って言ったじゃん! 『見てみろ』って意味の『ほら』でしょあれ⁉」

「だからって素直に見る? 普通は遠慮するものでしょう」


 ……理不尽すぎませんかね……。


「イサリってば、本当は見たかったんじゃないの? わたくしの裸」


 仕方ないじゃない。男だもの。

 小さいころに憧れた美人のお姉さんが、当時の姿のまま、かつ生まれたままの姿ですぐ隣にいるんだよ?

 もう象さんのお鼻がパオーン(比喩表現)ですよ。


「イサリもやっぱり男の子なのね……。まあ、仕方ないか。イサリはイサリでも、もうわたくしが知っている小学一年生のイサリじゃない――高校一年生のイサリなんだものね……」


 言ってイリヤ姉ちゃんはもたれ掛かるようにボクの肩に頭を載せてくる。……腕に吹きかかるイリヤ姉ちゃんの吐息がくすぐったい。お湯で濡れた黒髪と、温められて赤みを帯びた白い肌が色っぽすぎる……。


「あ、あのー、イリヤ姉ちゃん? 仰るとおりボクはもうあのころのボクじゃないんで、くっつくのはやめよう? ボクに襲われたらどうするつもりなの?」

「チ〇コを握り潰してやるわ☆」


 怖い怖い怖いっ!


「そんな卑猥な単語を口にするイリヤ姉ちゃん、見たくなかったよ……。今、ボクの中でイリヤ姉ちゃんのイメージがガラガラと音を立てて崩れてるよ……」

「大袈裟な。『チ〇コ』って言ったくらいで」

「ワザとやってる⁉ そもそもあなた、確か良家のお嬢様だよね⁉」

「……イサリ、良家のお嬢様に変な幻想を抱いてない? 良家のお嬢様だろうが人間よ? 殿方のアレに興味が無いワケじゃないのよ? 言っておきますけどね、あのルーナってコだって、」


 一応『アレ』という表現に改めてくれたことは評価する。けど、


「うるさいなぁ! 仕方ないだろ、童貞なんだから! 幻想のひとつやふたつ抱かせてよ! ――あと、こんなしょーもない議論にルーナを巻き込むのはヤメて! ルーナは『赤ちゃんはコウノトリさんが運んでくるんですよ☆』って本気で信じているような純真無垢なコの! 大人になってもずっとそんなあのコのままでいてくれるに違いないの!」

「イサリ……それは純真無垢とは言いません。単なる無知です。あと、今のあなた、シスコンって言葉では片付けられないくらい気持ち悪いわよ?」


 ……うん。正直、自分でも気持ち悪いと思った。


「まさかあのイサリがこんなふうに育つなんてね……」

「想像と違った?」

「……いえ、そうでもないかも」

「それって、小1の時点で気持ち悪く育ちそうな気配はあったってこと……?」

「なんでそうなるの……。そうじゃなくて。あなた今、自分のためというよりは、あのルーナってコのためにいろいろ頑張っているでしょう? あなた、小1の時点で年下の女の子の面倒を一生懸命見ていたじゃない」

「それってアズサのこと?」


 あれは面倒を見ていたというか……振り回されていたというか……。

 まあ、『じゃあルーナには振り回されていないのか?』と訊かれたら、最近ちょっと怪しくなってきたけれど……。


「そういえばアズサはこっちに来てないの? あなたは来てるのに」

「あー……うん。昼間説明したとおり、一緒に海外旅行中だったんだけどね……。乗っていた豪華客船からルーナが海に転落しちゃって、ボクも救助するため海に飛び込んで……。で、白鯨シロに呑み込まれて、こっちに来ることになったから」

「つまり、別行動中だったお陰でアズサはこっちに来なくて済んだってことね。アズサにとっては良かったのか悪かったのか……」

「? 良かったに決まってるじゃん。悪かった要素が何かある?」


 アイツは異世界転生モノや異世界召喚モノの物語が大好物だったけれど、アイツ自身が異世界に行きたがっていたかというと、そんなことは無いし。


「……今はアズサと正式にお付き合いしているのでしょう? だから年頃の男女で海外旅行を、」


 恐ろしいことを言わないでほしい。


「いや? 単に叔父さんと叔母さんに頼まれて、アイツの御守おもりとして同行しただけだよ」

「…………御守りなら、おじさまかおばさまが自分ですればいいじゃない」

「神社の仕事があるから難しかったんじゃない?」

「………………娘の恋路を応援するために、娘が好きな男に同行させたという可能性は?」

「好き? アズサがボクを? あはは、ナイナイ。昔のアイツしか知らないとイメージしにくいかもしれないけれど、今ではアイツ、ボクを便利な下僕げぼく扱いしてるんだから」

「げ、下僕扱い? あのアズサがイサリを? あんなにイサリっ子だったのに?」


 なんだイサリっ子って。お祖母ばあちゃんっ子みたいに言わないでほしい。


「だいたいどこの世界に好きな男のエロ本の傾向を身内にバラそうとする女がいるのさ」

「そう。イサリもやっぱりそういう本を持っているのね」


 失言だった。


「で? イサリはどういう本を持っているの?」


 言 え る か。

 昔、巫女さんの格好で修練後のマッサージをしてくれた憧れのお姉さんに、『ボクが所持しているエロ本は巫女さんモノばっかです』とか口が裂けても言えんわ。


「うう……、まさかイリヤ姉ちゃんとこんな下世話な話をする日が来るとは……」

「言っておきますけれど、わたくしが通っていたお嬢様学校の教室で生徒たちが交わしている会話なんて、こんなわたくしでも耳を塞ぎたくなるようなモノばかりですからね?」

「そんな悲しい事実知りとうなかった…………あれ?」


 そこでようやく気付いた。


「イリヤ姉ちゃん、さっきから喋りが流暢りゅうちょうじゃない? もしかしてカグヤから『バビロンの実』を貰って食べた?」

「その『バビロンの実』とやらが何かは知らないけれど、こっちの言語を急に流暢に喋れるようになったワケじゃないわ。単に今は日本語で喋ってるだけ。ここにはあなたとわたくししかいないのだから、無理してこっちの言語で喋る必要は無いでしょう?」

「あ。なるほど。そりゃそうか」

「今頃気付いたの?」

「すみません……」

「別に謝る必要は無いけれど……」


 言って、イリヤ姉ちゃんはクスリと笑う。


「な、何? なんで笑うの?」

「いえ……、同世代の男の子とこんなに腹を割ってお話をするのは生まれて初めてだなと思って……。しかも相手があのイサリだなんてね……。なんだか不思議な感じ」


 まあ、本来なら絶対あり得なかった状況だよね、これ。年齢差的に。


「で、何か大切な話があるんだよね? のぼせる前に聞いていい?」

「……ええ」


 イリヤ姉ちゃんはボクの肩の上に載せていた頭を退けると、ボクのほうへと向き直る。そして、それを見て彼女のほうへ向き直ったボクへ、正面からこう告げた。


「お願い。クロエの『お兄ちゃん』になってあげて。ほんの少しでも、あのコのお母さんを喪った悲しみが和らぐように……。あなたならきっと出来るわ。お母さんを喪った悲しみを知っているあなたなら」


 ………………。無茶を言う。


「クロエにはロウガさんの他にもオリガ一家やイリヤ姉ちゃんがいるじゃない。現にクロエはイリヤ姉ちゃんのことを『身内』と判断していたよ? ボクの出る幕なんて無いでしょ」

「……わたくしはね、こっちの海岸に流れ着いたところをミズキさんに発見されて、介抱してもらったの。ミズキさんは変わり者だったけど、同じ日本出身のわたくしを居候として迎え入れてくれて、いろいろ親切にしてくれたわ。わたくしがあっという間にこっちの言語を覚えられたのも、ほとんどミズキさんのお陰」

「イリヤ姉ちゃんから見ても変わり者だったんだね……クロエのお母さん」

「そうね。生きていれば今頃イサリと意気投合していたんじゃないかしら」


 どういう意味だ。


「クロエがわたくしを『身内』と判断しているのは、お母さんとわたくしのきずなそばで見ていたからに過ぎないわ。クロエ自身がわたくしに心を許しているワケじゃない」

「……そんなことないと思うんだけどな」

「いいえ。そうなのよ。現にわたくしでは、お母さんを喪ったクロエを一度も笑顔にすることが出来なかったのだから」

「…………お母さんを喪って一ヶ月かそこらの人間を笑顔にしてあげるなんて、たとえ心を許されていたって難しいと思うよ?」


 母さんを喪ったボクが笑顔を取り戻せたのは、どれくらい経ってからだったっけ……。


「ありがとう。あなたにそう言ってもらえると、少しだけ救われるわ。でもわたくしでは、どれだけ時間を掛けようと無理に決まってるから」

「どうしてそう思うの?」

「……クロエは『お母さんにとって自分はあくまで研究の対象でしかなかったんじゃないか』って悩んでる。でも、わたくしにはそれを否定する根拠が無い」


 ……何言ってんだ、このヒト?


「根拠って。『自分から見たミズキさんは間違いなく娘を愛していた』って言ってあげればいいだけじゃない。そこに根拠が必要? それとも、イリヤ姉ちゃんから見たミズキさんは明らかに違ったの?」

「……わからない」

「わからないって」



「親の愛を知らないわたくしにはわからないわ」



 ………………え?


「ど、どういうこと……? 確か、イリヤ姉ちゃんにはちゃんと両親がいたと思ったけれど」

「両親がいても、愛してもらえるとは限らないでしょう。実の母は物心がつく前に事故で亡くなってしまったし、父と育ての母にとっては、わたくしは家を発展させるための道具でしかなかったから……」

「父と……育ての母」

「あの二人にとって重要な子供は、育ての母の連れ子である兄だけ。わたくしがあの二人と一緒に家で食事をしたことは数えるほどしかないのよ? それどころか、あの二人から笑顔を向けられた記憶すら無いわ。わたくしの結婚相手だって、あの二人が勝手に決めたの。しかも、顔も名前も知らない二十も年上の男。正式に婚約する直前にこっちへ来ることになったから、とうとう一度も顔を合わせず仕舞いだったけどね」


『あの二人』。イリヤ姉ちゃんは実の父と育ての母を『お父さん』『お母さん』ではなく、そう呼んだ。何度も。


「わたくしにはわからない……。親の愛を知らないわたくしが、ミズキさんのクロエへの愛を語っていいいのかすら……」

「イリヤ姉ちゃん……」

「だからこそ、異母弟とはいえ、弟が出来るかもしれないとわかったときはすごく嬉しかったわ。姉として最初から愛情を注いであげれば、腹違いの子でも『本当の家族』になってくれるかもしれない――そう思った。……結局、弟は死産だったのだけれどね」

「『本当の家族』……」



 ――『ゴメンね……丈夫に産んであげられなくて。今日まで、ちゃんと向き合ってあげられなくて……』



 ………………。

 ボクは。

 最後の最後に、あのヒトとも『本当の家族』になれたのだろうか。

 それとも、最後までなれなかったと見るべきなのだろうか。


「本当のことを言うとね、わたくし、あなたの向こうに、生まれてこれなかった弟を見ていたの。『弟がちゃんと生まれてくることが出来ていたら、きっと弟ともこんなふうに……』ってね」

「……知っていたよ。叔母さんが教えてくれたから」

「おばさまが?」

「うん。『戦友の娘が、弟の死産で負った心の傷を少しだけ癒してくれてありがとう』っていうお礼の言葉と一緒にね。今思えば、叔母さんは亡くなった友人が遺した娘さんのことをずっと気に掛けていたんだろうね」

「……おばさまが……。そう……。そうだったのね……。だから、わたくしをあの神社のバイトに誘ってくれたんだ……。父を説得してまで……」


 そう言って星空を見上げたイリヤ姉ちゃんは、ぽろぽろと涙を零し始める。


「皮肉なものね……。おばさまといい……ミズキさんといい……あなたといい……わたくしに紲を感じさせてくれたのは、いつだって両親以外の誰かだった……」

「イリヤ姉ちゃん……」

「なのにわたくしは……。ごめん……ごめんなさいイサリ……!」

「えっ?」


 いったい何が――


「わたくし、本当は最低な人間なの……! あなたがイサリだとわかったとき、本当は『知っている人間がこっちに来てくれてよかった』って……『これでわたくしは独りぼっちにならず済む』って、喜んじゃったの! こっちに来てからのあなたの苦労なんて微塵も考えず! あんなにお姉さんぶっておいて!」

「――――――」

「クロエのことだって、ミズキさんに頼まれたのはわたくしなんだから、自分でなんとかしなきゃいけないって頭ではわかってるのに! でも、『イサリは優しいから悩みがあったら話してほしいはずだ』って自分に都合よく考えて……!」

「イリヤ姉ちゃん……」

「わたくしは……わたくしは、あなたが思っているような人間じゃない……! 最低で、身勝手な、浅ましい人間なのよ……!」


 そう言って。

 全裸にもかかわらずボクに抱き着き、ボクの胸の中で『う……ううう……』と本格的に嗚咽を漏らし始めたイリヤ姉ちゃんを見下ろし。


「……そうか」


 ボクは、ようやく思い出す。

 実感する。


「そうだったね……」


 ――どんなにしっかりしているようでも、イリヤ姉ちゃんはボクと同じ十六歳。

 まだ大人だとも子供だとも言い切れない微妙な年頃なんだよね……。


 右も左もわからない、言語すら通じないような世界にたった一人放り出されて、それでもどうにかこうにか生き延びてきたら、自分を助けてくれた、最も心許すことが出来たヒトが死んでしまったんだもんね……。


 哀しくて、哀しくて……淋しくて。誰かとの紲を感じたい……確かめたいと思わずにはいられなかったのは、クロエだけじゃなくイリヤ姉ちゃんもだったんだね。




 本当はただ、ボクに甘えたかった――はクロエのことを口実に、ボクに寄り掛かりたかっただけなんだね……。




 なのにボクは、自分の中の勝手なイメージをキミに押し付けていた……。昔の『頼れるお姉ちゃん』像を求めていたんだ。


「……泣かないで」


 胸の中のイリヤ姉ちゃんの――いや、頬を伝う涙を拭う。


「ごめんね。ボク、誰かを救えるような大層な人間じゃないんだ。なにせ自分の母親の救いにすらなれなかった人間だから」

「っ」

「だから、クロエもきっとボク一人じゃ救えない。一緒に考えよう。クロエを淋しさから救う方法を」

「一緒……に?」

「うん。クロエの『お母さんにとって自分はあくまで研究の対象でしかなかったんじゃないか』という悩みを解決できるかはわからない。でも、たとえそれが無理でも、クロエを淋しさから救う方法は他にもあるかもしれないだろう」

「イサリ……」

「きっと見つかるよ。ボクとイリヤなら」

「! 今……『イリヤ』って」

「うん。学年で言えばそっちが一個上だけど、現時点では同い年だしさ。現時刻をもって姉ちゃん呼びは終了。弟的存在は卒業させて頂きます。――『姉ちゃん』なんて呼ばれたら、頼りにくいでしょ?」

「あ……」

「だから今後は泣いちゃう前に、何かあったら遠慮なくボクを頼るんだよ? なんでもかんでも一人で抱え込まずにさ。――ボクはもうキミが知っているあのころのボクとは違う。多少なりとも大人になってるんだ。今なら一緒に考えたり、悩んだりして、イリヤの重荷を半分くらいなら持ってあげられるだろうから」

「イサ……リ」


 イリヤは再び目を潤ませ、号泣しそうな気配を漂わせ――しかし、不意にハッとしたように目をみはると、自分の左胸、心臓の辺りを抑える。


「? どうしたの?」


 自分が全裸であることを思い出し、急に恥ずかしくなって胸を隠した……というワケでもなさそうだ。

 右胸の膨らみとか股の間とかは惜しげもなく晒したままだし……(ヤバい、シリアスな場面なのについ目が行ってしまう)。


「っ」


 自分の鼓動を確かめるみたいに心臓の辺りを抑え、瞼を閉じていたイリヤは、再び瞼を持ち上げてボクを真っ直ぐに見つめると、頬を朱に染める。


 え。何? ホントどうしたの?


「イサリ……どうしましょう……。たぶんわたくし……あなたに――」


 そのとき。



「何をやっとるんじゃお主らはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」



 頭上から怒声が降ってきた。

 ボクはもちろんイリヤも弾かれたようにそちらへと振り向く。


 そこにいたのはもちろん――


「つ……ツバキ⁉」

「『つ……ツバキ⁉』ではない! 旦那様の帰りが遅いから心配になって様子を見にきてみれば、年頃の男女が一緒に風呂に入り、あまつさえ裸で抱き合って……! いったい何をしとった⁉」


 顔を真っ赤にし、口のをワナワナと震わせて怒鳴ってくるツバキに、ボクは慌てて弁明する。


「い……いやいや! 確かに混浴はしちゃったけども! でも、変なことはしてないよ⁉ ずっと真面目な話を――」

「真面目な話⁉ 風呂の中で⁉ 全裸で抱き合いながらか⁉ 嘘をつくでないわ!」

「嘘じゃないって!」

「なら訊くがの、どんな真面目な話をしていたと――ハッ⁉ ま、まさか求婚⁉ だから急にイリヤを呼び捨てに⁉」

「なんでそうなるの⁉ イリヤは『本当の家族』をずっと欲しがっていたとか、そういう話だよ!」

「イリヤが『本当の家族』をずっと欲しがっとったから、『家族になろう』と求婚したのか!」


 うん。今のはボクが悪かったよ。

 なんでこの流れでそこをピックアップしちゃうかな……。


「ねえ、黙ってないでイリヤも弁明を――って、いつの間にかいなくなってる⁉」


 さっきまで隣にいたはずのイリヤの姿が無い!

 ボクとツバキが押し問答しているうちに自分だけさっさと逃げやがったよ、あのヒト……。






                 ☽






「――ハア……ハア……ハア……」


 つ、つい逃げてしまった……。イサリは大丈夫かしら……?

 ……ごめんなさい、イサリ。あなたを置いて一人だけ逃げてしまって。


「服は………………よかった、ちゃんと全部持ってこれたわね」


 泉のほとりに畳んで置いておいた服を反射的に掴んできたけれど、忘れ物がなくて本当によかった……。これで下着が無かったりしたら目も当てられないわ。


「誰かに裸を見られる前に着てしまわないと」


 まあ、他のみんなはとうに船に戻っていて、今『洞』こっちにいるのはイサリとカグヤちゃんとルーナちゃんとマリナさんと、あとはツバキさんだけだから、少なくとも殿方に裸を見られる心配は無いはずだけれど。


「………………。ツバキさん、か」


 とても怒っていたわね……。

 まるで亭主の浮気現場を偶然目撃した奥さんみたいな剣幕だったわ。


「まさかとは思うけれどツバキさん、イサリのことが好きなのかしら……?」


 っ。

 胸が……チクチクする……。

 これは……、初めて経験するこの胸の痛みは……。


 じゃあ……やっぱりわたくしは……。


「イサリのことが……好――」


 ! な……何を考えているの、わたくし!


「ダメよ、そんなの!」


 だって、相手は『あの』イサリなのよ⁉

 わたくしと彼は本来ルーナちゃんと彼以上に年齢としが離れているのよ⁉


 そう……、彼はわたくしにとって未来の地球から来たから偶々たまたま年の差が縮まってしまっただけで……、彼が『あの』イサリである事実は揺るがないのだから……、異性として意識するなんてもってのほかだわ……。


「そうよ。わたくしにとってイサリは『弟』のような存在もので……」



 ――『うん。学年で言えばそっちが一個上だけど、現時点では同い年だしさ。現時刻をもって姉ちゃん呼びは終了。弟的存在は卒業させて頂きます。――「姉ちゃん」なんて呼ばれたら、頼りにくいでしょ?』



「あ……」


 そうだ……。

 彼はもう……わたくしの『弟』を卒業したんだった……。

 今やわたくしと彼は対等な存在で――


「なら……いいの? そういう関係になってしまっても……」


 ! だから何を考えているの、わたくし!

 卒業したのは、あくまで未来の彼でしょう⁉


「わたくしと彼は、本来いるべき時代、帰るべき場所が違うのよ!」


 仮にわたくしがなんらかの方法で元いた時代、場所に帰れたとしても、そこに彼はいないんだ。

 両親とすら良好な関係を築けていなかったわたくしは、正直そこまで地球に未練は無いけれど……。でも、彼は違うんだから……。

 彼はわたくしとは別の時代、場所へ帰るために、頑張っているんだから。


 この初恋は――最初はじめから失恋が確定しているんだ。


「……いっそイサリが『地球へ帰るのは諦めてここで一緒に生きよう』と言ってくれれば、わたくしは何も悩まずに済むのに……」




 ――ひとつだけ確かなことは。

 わたくしはもう、イサリを『弟』として見るのは無理そうだということだった。



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