第16話 飛んでいる。


「もう、むり……」

 彼女が真っ赤に腫らした目でつぶやいた。


 平和な僕の毎日に、いつも緊迫感をもたらすのは、彼女だ。

 今日も、彼女の一言で、僕は、問題解決に動き出す。



16. 飛んでいる。


 先週までの寒さがウソのように、昨日から一気に空気が変わった。吹き抜ける風も暖かい。外に出ると陽差しは少し強く感じるほどで、そろそろ紫外線対策も必要そうだ。

 

 春だ。

 行きつ戻りつしていた春が、ついに本格的に始動したのだ。

 この時期ならではのちょっぴり不安なような、それでいてワクワクするような、新しい一年のスタートを感じて、僕の心は弾む。

 

 彼女を誘って、どこに出かけよう? もう少ししたら、きっと桜を観に行こう。ブルーシンフォニーを予約しないと。

 僕は、ワクワクして、彼女の部屋のドアホンを鳴らす。


 ぴんぽ~ん。

 返事がない。留守か?

 いや、昨日のメールでは、明日はどこにも行かない、そう言ってたはず。

 あまりしつこく鳴らすのもなんだかな、そう思って、しばらく待つ。


 出てこない。返事もない。

 恐る恐る、もう一度鳴らす。


 びんぼ~ん。

 僕の気持ちを反映してか、なんだか不安げな音が鳴る。


 やっとドアの向こうで、人の気配がして、彼女が出てきた。

 そして。

「もう、むり……」

 出てきた彼女が真っ赤に腫らした目で、つぶやいたのだ。

 え? 

 まさかまさかやけど、別れ話? もうむりって、僕のこと?

 一瞬のうちに、僕の心をフルスピードで不安が駆け巡る。


 で、恐る恐る訊く。

「ど、どうしたん? なんかあったん?」 声が少しうわずる。

「もう。むり」

 そう言った彼女の言葉には、すべて、濁点がついてるみたいだ。

「飛んでるねん。めっちゃ。だから、もうむり」

 そして、マスクの下で、盛大にくしゃみをした。

 花粉症だ。

 寒かった間は、平気だったのに。暖かくなったと思ったら、一気に来たのだという。

 

「花粉か……」 眉をひそめて、僕はつぶやく。でも内心、ちょっとホッとした自分が後ろめたい。

「う」 ウルウルした目で彼女はうなずいている。

 その「う」にも、心なしか、点々がついてるような。

 確かに、この暖かさと心地いい風なら、僕が花粉でも力一杯飛びたくなるだろう。今飛ばんでいつ飛ぶねん、って感じだ。

 

「こんなにきついのは初めて。目だけじゃなくて、くしゃみも鼻水もひどすぎて、もう、むり」

「薬は?」

「病院で処方されたの飲んだけど。あまり合わなかったみたいで、飲むと鼻の奥が詰まって息できへんくらい苦しくなるねん。それで、夜も寝られへんし。それにやたら喉が渇いて、でも水分取ると、もっと鼻水が出て、えらいことになって。やから、もうむり」

「眠気は?」

「眠くないけど、目がしんどくて開けてるのもつらい」

「そうか……。ちょっと待ってて。なんかええ薬ないか調べてみる」

「う」

 彼女がうなずいて、ドアの向こうに消える。その次の瞬間、盛大なくしゃみが立て続けに聞こえた。 かなり厳しい事態のようだ。彼女は去年花粉症デビューしたばかりで、去年はこれほどじゃなかった気がする。

 

 とりあえず、僕は、自分の部屋に戻って、実家に電話する。うちの母親も、かなりひどい花粉症だ。何かいい薬か対処法を知っているかも。母親は、お気に入りの薬の名前とおすすめグッズを教えてくれる。花粉症仲間が増えてなんだか嬉しそうだ。

 教えてもらった薬の名前をメモして、薬局に向かう。

 そして、箱に満量処方と書かれている小青竜湯という漢方薬と、花粉が鼻の奥の粘膜に行かないようにする鼻の穴に塗るものやスプレーなどを買う。

 

 帰ってから、買ってきたものを彼女に手渡すと、彼女が、真っ赤な目で、くしゃみの合間に、きれぎれの、ありがとうを言った。

 ウルウルした目で、僕を見る彼女が痛々しくて、でも可愛くて、思わずそっとその肩を両腕で包み込む。

「早く治るといいね」

「う」

「おさまったら、桜、観に行こうね」

 うん、の代わりに、僕の腕の中で、彼女が大きなくしゃみをした。

 


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