第20話

【ウーロンハイ精霊オッサンがくれたもの・後編】


* * *


「……ん……あー……」


翌朝の目覚めは爽やかだった。酔って寝たはずなのに不思議だ。まさかとは思うが、五本目のオッサン精霊エキスが溶け込んだウーロンハイの効果だろうか。だとしたら複雑な気持ちだ。身体が軽快でも気持ちはよろしくない。


けれど、うだうだ考えていても仕方ない。とりあえずシャワーを浴びて髪と身体を洗い、髭剃りも歯磨きも洗顔も普段より念入りに行なった。精霊とやらの言っていた魔法は鵜呑みにはしかねるが、念には念をだ。万が一の事もある。


──万が一。そう、童貞卒業だ。


その為にも清潔感は大事だ。服装もカジュアルコーデを選んだけれど、アイロンがけはしっかりしてある。


朝食をどうしようかと思い、待てよ街で出逢った美人さんと打ち解けながら食べる事も出来るのではと考えて、食べずに街へ繰り出す事にした。朝の十時、陽射しがまぶしい。


街にはすでに人が行き交っていた。皆楽しそうだ。これから恋人と約束している奴らは爆ぜろと思いながら、辺りを見回す。一人で歩いている、時間のありそうな美人さんはいないだろうか。


……休日なんだから、ぼっちで街歩く人なんて圧倒的少数だよなあ。


そう分かってきたものの、もう引き返せない。心ははやっている。我が息子も期待して……いると思う。今のところ何の反応もないが。


「──!」


と、向こうから歩いてくる女性を見つけた。一人だ。世は休日でも働く人は必ず存在して社会を回してくれているが、そうした通勤中にも見えない。心なしか表情が疲れて見えるのは何かあったのだろうか。


それで重たい事情の人と関わってしまうのは避けたいところだが、何しろ他にめぼしい人はいない。それに、少しむっちりした体型にはメリハリがあって、薄い化粧をした顔も肌が綺麗で映えている。これはいわゆる美人さんだ。


──逃す手はない。


一言でも声をかけるんだ。お茶に誘えれば見つめ合うチャンスはある。上手く誘導出来るか?──知ったことか考えるだけ無駄だ美人さんがすれ違ってしまうではないか。


目の前、あと少しの距離。俺は息を呑んだ。男は度胸だと何かで聞いた事がある。いつの時代の男か知らないが。


「──あの、すみません!」


ああ、思い切って声をかけてしまった。美人さんは怪訝そうに目線を向けてきた。


「……何か?」


「よろしければ……お茶でも飲みませんか?」


目と目が合う。そこですでに三秒は経っていた。あ、これ、このままやり取り出来れば十秒いけそうかもと思ってしまう。それが出来れば何よりだ。


美人さんに目を逸らさせてはいけない。俺は必死に食いついた。活動している脳細胞をフル動員させる。


「あの、向こうから歩いてくるところを見た時、目が離せなくなって……何だか疲れているみたいに見えてしまって……あ、すみません、勝手な思い込みですよね。でも、すごく綺麗で……よろしければ、お茶が駄目なら喫茶店のモーニングセットで一緒に朝ご飯でも……俺の好きなお店のモーニング本当に美味しいんです。モーニングごときですけど、ご馳走させて下さい。ぜひ。あ、でも、やましい気持ちとかじゃなくて……」


いや、やましい気持ちだけだが。


これで何秒稼げただろうか。結構話した。美人さんは俺を「何を言うんだ」とでも言いたげに見つめているが、目と目が合っているなら構わない。あと一押し。


「あの……駄目でしょうか……?」


彼女には、飼い主にすがる犬のように見えているだろう。いっそ、くぅーんと鳴いてすがりたい。


いけたか?──いけたか?!


はらはらしていると、どこかから鐘の音が響いた。お寺のではなく教会にあるような鐘の音。何なんだこれは。


驚いていると、目の前の美人さんは眼差しをすっかり変えていた。どこか酔いしれたような、恍惚とした目になっている。


「……じゃあ……お言葉に甘えて。お勧めのお店に連れて行ってもらえますか?」


美人さんが柔らかい声音で承諾してきた。──あの鐘の音は、もしかして十秒を告げていたのか!


精霊の力なのに教会の鐘の音というのも変な気がするものの、獲物を得た喜びは大きい。


「はい、喜んで!」


幸い、モーニングが美味しい喫茶店は嘘ではない。特にスクランブルエッグとコンソメスープは絶品だ。朝食についてだけで言うなら、満足してもらえる自信がある。俺は意気揚々と「じゃあ、ここから歩いてすぐですから。行きましょう」と満面の笑みになった。それを見て美人さんが、ほうと小さく溜め息をもらす。頬を染めている辺り、精霊の魔法は絶大な効果をもたらしたようだ。


──魔法使い。本当に魔法使いになれたんだ。無双だろこれ。


俺は浮かれきっていた。喫茶店でモーニングを共にしている間は朝食の味について語り合えた事で間がもった。しかし朝食を終えて、ようやく十一時。


なるべくゆっくり食べたのに、ここからホテルに誘うには時間が早すぎる。どうしたものか。彼女にも予定があるかもしれない。内心でものすごく焦った。


だが、魔法使いの魔法は絶大で無双なのだ。美人さんが呟いた。


「……帰りたくないな……」


心臓がバクバクと鳴って弾けそうだ。一世一代の勇気を振り絞り、出来るだけ落ち着いた声を出した。


「……帰りたくないって言うあなたを、一人で帰らせたくないです」


美人さんの瞳が潤んだように揺らめいた。畳み掛けるなら今だ。


「あの、どこかで落ち着いて休みませんか?」


「……私が疲れて見えるから?」


「それもあります。放っておきたくないです」


「……ありがとう」


美人さんの笑みは儚くて、少し心が痛んだ。


ともあれ、成功したのだ。それからは、あれよあれよという間にビジネスホテルの一室にまで来てしまった。


──だが、そこで最大の問題が起きる。童貞耳年増問題ならまだ可愛い。それどころではない、童貞無知問題だった。


正直、風俗は敷居が高くて怖いので経験がない。漫画やラノベも結構な過去に読んだものでは性行為について触れていてもテクニックなんて書いてくれていなかった。単なるえちちち乳ぽろりラッキースケベなレベルだったのだ。キスでさえ、描写はあっても曖昧で、経験ゼロで無知な自分には現実味に欠けていた。


──それで、この状況から何を何から始めろと?


密室に二人きりになり、沈黙が生まれた瞬間から脳はパンクした。これからなのに敗北宣言を出してくれた脳みそが心底憎い。


まずシャワーだろうか。いや、それでは完全にこちらの目的が明確にばれすぎる。まずは対話だ。彼女の話を聞いてみて、上手いことキスに持ちこんで……キス?


昔は口吸いと言われていたキス。口を吸うからキスなのだろうか、いや、ちゅーちゅー吸っても変だと思う。唇を重ねて、ええと舌を使うとか唾液を絡ませるとか読んだ記憶があるけれど、そんな事をしたら美人さんの顔が唾液で汚れはしないか。お互いにヨダレまみれの顔でキスの後に見つめ合えるのか。訳が分からないよ。そもそも鼻で息をするらしいけど、そんな事していたら鼻息が荒くなるだろう。鼻をふんふん言わせながら甘いキス、それって何なんだ想像もつかない。


──そう、俺は童貞をこじらせるあまり、甘く熱いムードというものに幻想を抱きすぎていたのである。そして今まさに幻想と現実の狭間で苦悶しているのだ。


沈黙と時は無為にすぎてゆく。だんだんと空気が重くなるのが分かる。もうパニックだ。どうすれば打開出来るか余計に分からなくなった。


美人さんの表情は見る見るうちに曇っていった。失望がはっきりと見てとれる。せめて、せめてここで優しく抱き寄せてあげられればいいものを、俺はおろおろするばかりになり、そこに思い至らない。


風邪もこじらせれば生命にかかわる。童貞もこじらせれば──男としての沽券にかかわる。


「……私、やっぱり帰るね。一人でいるより寂しいし虚しいよ……」


ああ、魔法が効いているはずなのに。なのに、美人さんは憑き物が落ちたように肩を落として、表情も冷めきっている。


「あ、あの、待っ……」


「──さよなら」


美人さんを引き留めようとしたものの、気の利く言葉も浮かばずにいる俺はすっかり失望されてしまったようだ。美人さんは素早く身を翻して足早にドアへ向かい、俺の言葉も待たずに部屋を出て荒くドアを閉めた。


足音が遠ざかる。聞こえなくなる。


「……ちくしょう……」


俺はうなだれるしかなかった。


それから、室内のミニ冷蔵庫にある酒をありったけ呑んだ。精算の金額、そんなもの知ったことか。


せめて、美人さんから、疲れて見える表情をしていた理由を、帰りたくないと言っていた理由を、聞き出せていたらよかった。その後悔も後の祭りだ。しかしなぜ魔法がとけた。


「──馬鹿だろお前」


「うわっ」


空き缶から、精霊オッサンがぬっと現れた。煙とかのエフェクトもない。精霊は呆れ返った様子だった。


「そりゃ魔法だって万能じゃねえんだよ、とけるだろ、あんなに失望させればよ。お前さ、何かっこつけようとしてんだよ阿呆が」


容赦ない……泣きたい。


「あー、呆れた呆れた。──最後のアドバイスだ。お前さんが惚れてる境田春子とかいう娘さんに試せ」


「えっ……でも、そんなズルで境田さんを騙すみたいなまね……」


「うるせえ、経験ない童貞こじらせ野郎が先人の教えにつべこべ抜かすな」


「うっ……」


「とにかく、やれ。俺はほどこせるだけの情けはほどこしたぞ──いいな?」


「ちょ、──」


精霊オッサンは言うだけ言って消えてしまった。残るのは酒の残骸と俺一人だ。ふらふらと歩いてユニットバスに向かい、服を脱いで熱いシャワーを頭から浴びた。まるで滝行のように。冷水を浴びるのは冷たいから出来ないけれど。


それから、チェックアウトして寂しくなった財布と一緒に帰宅して寝た。思考を放棄して寝た。脳もそれを欲していたらしい、目を覚ますと翌朝だった。早朝、昇る日がまぶしい。目と自分の中の何かが痛い程だ。


──境田さんに……魔法を……。


妙案には到底思えないし、挨拶程度しか交わさない関係で十秒見つめ合えだなんて無茶ぶりもいいところだ。しかし、先人の精霊オッサンは最後のアドバイスだと言った。──最後の、と。


重たい気持ちを抱えながら、朝の支度を始める。仕事からは逃れられない。生活があるのだ。それに、残業代を稼がなければきつい──昨日ビジネスホテルで散財しすぎた。己の薄給が悲しい。


そうして出社して、とにかく仕事を求めて残業した。しまいには上司が帰ったのを見計らって、デスクの片付けという荒業に出るまでに残業した。時計は夜の十時をさしていた。


──咎める上司もいないし、一服して来るか。


そう思い立ち、喫煙室に向かう。人けのない社内は何となく自由を思わせる。ゆったり歩いて喫煙室に入り、煙草を取り出した。


その時、本当にその時の事だった。あの境田さんが、喫煙室に入って来たのは。


「──あれ、向田さん。煙草吸うの?」


「──境田さん?!」


思わず声が裏返った。すると、境田さんは明るく笑った。


「そんな、人を幽霊見たみたいに。──あ、煙草持ってくるの忘れちゃった。向田さん、一本もらって良いですか?」


「あ、──はいっ、どうぞ何本でも」


箱の中には数本しか残っていないのに口が滑る。……そうか、境田さんも煙草を吸うんだ……と、漠然と思った。


境田さんは「ありがとう」と言って一本引き抜き、慣れた手つきで火をつけて、煙を深く吸い込んだ。美味しそうに。その仕草が何とはなしに綺麗に見えて、思わず見とれてしまった。


すると、俺の視線に気づいた境田さんが、「なぁに、どうしたの?──私、倉庫の整理してたから埃とか付いてるかな……」と言って自分の身体を見下ろして気恥しそうにした。何だか可愛い。


「いえ、ちゃんと綺麗です」


「なら、いいんだけど。向田さんが真面目な顔で見つめてくるから、どきどきしちゃったじゃないですか。もう」


見つめて──そこで俺は、精霊の最後のアドバイスを思い出した。社内にはほとんど人が残っていない。喫煙室では二人きりだ。


もう、なりふり構っていられない。精霊にまで見限られた身では。


「あの、……俺の事、十秒見つめてみてもらえませんか?」


唐突な発言に脈絡は皆無だ。境田さんは、きょとんとしてから「何、急にどうしたの」と笑った。しかしそこに嫌悪は見えない。それは俺を勇気づけた。


「いや、あの──俺の顔って、正視に耐えうる顔かなって気になったので」


「向田さん、変なの。ちゃんとした顔してますよ。お肌も荒れてないし」


「でも、境田さんにはどうかなと……お願い出来ませんか?」


これでは告白のようだ。先走りにも程がある。美人さんには何も言えなかった自分なのに、ここまで口が滑りまくるとは。


「……良いですよ。十秒ですね?」


心の中では脂汗をかいている俺に向かって、境田さんは意外にも許してくれた。


「あ、はい、ありがとうございます。──じゃあ頭で数えてますんで!」


「はぁい」


境田さんは半分吸った煙草を捨てて、俺にまっすぐな視線を向けてきた。お願いした俺が目を逸らしたい程照れくさい。


しかし、しっかりしろと叱咤して数を数える。一、二、三……。


すると、なぜだろう。だんだんと境田さんの顔が赤くなってきた。耳まで赤い。表情は困り顔になりつつある。


頼む、耐えてくれ。──七、八、九──。


「──駄目、無理。ごめんなさい、恥ずかしくて我慢出来ない」


あと一秒……!


思わずうなだれた俺に、境田さんは「見るに耐えない顔とかじゃないんですよ、本当に。ただ、……あの、私も人の心があるんでですね……」


「……はい……」


精霊オッサン、全て無駄にして申し訳ない。だけどもう魔法なんて信じない。


そう心で呪詛を唱える俺に、境田さんは何を勘違いしたのか、慌てながら口早に告げた。


「だって、そうでしょ。片想いしてるんですから私」


「……へ?」


間抜けな声しか出なかった。何なんだ、何が起きた。


境田さんは今にも消えたそうだ。しかし、俺よりも遥かにしっかりしている。


「だから、私は、向田さんに片想いしてるからって事ですよ」


──いや、片想いしているのは俺の方じゃないのか?


何だこの漫画展開でもボツになりそうなドリーム。


俺はしばし呆然として、困り顔から泣きそうな顔へと変化しそうになっている境田さんに向かって、とにかく泣かせては駄目だと言葉も選ぶ余裕なく口を開いた。


「境田さん、片想いしているのは境田さんじゃありません。俺こそ境田さんが好きなんです。今も境田さんが可愛く見えて困る程なんです」


「向田さん……?」


「だから、自信を持って下さい。境田さんは可愛いです、好きです」


「……本気で言ってますか、それ?」


「はい!」


力いっぱい頷くと、境田さんの瞳から涙がこぼれ出した。泣かせたくなかったのに。なのに、それが可愛くて仕方ない。この気持ちは何だろう。


「……向田さんもてるから、私みたいな地味女なんてって……なのに……」


もてるとは初耳だが、それを喜んではいられない。


──と、不意に鐘の音が響いた。ありえない鐘の音が。


……精霊オッサン……あんた。


「俺、実は何の経験もなくて。めちゃくちゃ今恥ずかしくて、でも境田さんが可愛くて……あの、キスしてみたいです」


詳しいテクニックなんて分からない。でも、触れてみたい。心底そう思う。


「……経験とか考えないで、……触れて下さい」


そう境田さんが囁いて、俺との距離をゼロにした。頭ではもう何も考えられない。流れに呑まれて、顔を近づけて、触れ合う直前に境田さんが目を閉じるのが見えて──触れ合った瞬間、俺も目を閉じた。


初めてのキスは触れるだけの拙いキスだったけれど、柔らかくて気持ちよかった。そうか、恋している人はこんなにも気持ちの良い事を、いつしか皆知るのか。俺自身も。


薄く目を開いてみると、境田さんも薄く目を開いていた。彼女が泣き笑いの笑顔になる。つられて俺も笑顔になって、また唇を重ねた。


「童貞こじらせ野郎、お前さんは魔法使い卒業だ。お前さんみたいにチンケなチキン野郎、永久に魔法使いだって方に賭けてたけどな。大損だよ馬鹿野郎。せいぜい爆ぜろ」


精霊オッサンが口悪く祝福する声が、脳に届いた気がした。


──ありがとうな、オッサン。今夜はウーロンハイ供えてやるから呑みなよ。


心の中で言い返して、俺は境田さんのうっとりした可愛すぎる表情を見つめながら、彼女の頬を両手で包んだのだった……。


──キスひとつで童貞卒業出来る訳ではない。けれど、今こんなにも幸せなのだから、後は境田さんと一緒に歩めたら。そう思い願って。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

光と影に心をひとしずく 城間ようこ @gusukuma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ