第19話

【ウーロンハイ精霊オッサンがくれたもの・前編】


* * *


昔の偉人でもない人は言った。齢三十になっても童貞だと魔法使いになれると。


三十路を迎える夜に自宅で一人ぼっち呑み。


向田恭介、自分で言うのも何だが見た目は悪くない。二重で切れ長の目に通った鼻筋、薄い唇が顔立ちをシャープにしていて、少し高めの身長にバランス良く乗っている小顔が映える。


なのに、彼女が出来ないまま三十路を迎えんとしている。性格に難があると言われるならば納得もいく。しかし、学校でも入社した会社でも温厚で優しいと言われるのだ。


何がいけないのか。片想いならば散々経験した。しかし、「良いお友達でいたいの」「私なんかじゃ駄目だよ」と、ことごとく玉砕して、今や片想いにさえ奥手だ。


押したり引いたりの恋のテクニックなんて、さっぱり分からない。そもそも押して押して、など怖くて出来ない。ましてや引くだなんて、それをやれば無駄に距離が生まれて心が離れてしまいそうだ。


「あー……日付け変わる……」


ウーロンハイを呑みながら時計を見やる。あと一分で三十路。


世の中には中学生や高校生でも彼女を持ってイチャイチャしているリア充もいるというのに妬ましい。それ以上に自分が情けない。


カチリ、とインテリアの時計が午前零時を告げた。三十路……。


「あー……ハッピバースデートゥーミー、ハッピバースデートゥーミー、ハッピバースデークソトゥーミー……ハッピバースデートゥーミー……」


とてもではないが、ディアだなんて歌える気分ではない。しかし歌うと虚しさが込み上げてきた。惨めだ。思わず、五本目の缶に半分残っているウーロンハイを一気に呑み干した。


これは美味しいから好きだけれど、スピリッツが薄くて酔えないのが更にもの悲しい。トレイは無駄に近くなるし。かと言って、酒は美味しく呑むのが一番だと成人してからの経験で学んでしまっているから仕方ない。


「トイレ行って寝るか……」


悲しくても朝は訪れるだろう。──一人ぼっちの休日が。


──と、突如として捨てようとした空き缶から蒸気か煙か分からないものが湧いてきた。俺は驚いて空き缶を投げ捨てた。煙なら火事になっている。三十路の誕生日に火事で夭折とは何と虚しい人生か。


しかし、それは幸いにも煙ではなかった。もっとやばいものだった。


「ようこそ三十路童貞男子よ!」


空き缶の飲み口から、物理を無視して髭をたくわえた胡散臭い中年男性が出てきたのだ。いかつい肢体の彼は、陽気さが浮いている。当たり前だこっちは落ち込んでいるのだ。


「おいおい、三十路を喜べよ。童貞卒業のチャンスをもたらす俺を歓迎しなよ。──あ、俺はだな、ぼっち酒の精霊だ。あーあー、こんなに空き缶散らかしやがって……」


「訳分かんねえ……おい何してんだよ」


「いや、空き缶片付けないと。つまみの空き袋もだぜ。酒とつまみの匂いが臭い」


「…………」


何となく、酷い目に遭っているように思われる。泣きたくなってきた。


それを察したのか、精霊とやらは手際よく片付けを済ませてから俺に向き直った。咳払いして、仰々しく口を開くと、にわかには信じがたい事を言い出した。


「お前も聞いた事があるだろう。三十路になっても童貞だと魔法使いになれるって。おめでとう新たなる魔法使い。俺が特別な魔法を授けよう」


「……は?」


あれは昔にインターネットで流行った、でまかせのはずだ。けれどオッサンもとい男性はありえない登場をしてのけて目の前にいる。


「俺を信じろ。いいか、魔法は願いが果たされるまで永久に使える。まあお前は永久の魔法使いになれるって事だろう。この魔法はだな、ターゲットにした女性と十秒見つめ合うと、女性をその気にさせる素晴らしい魔法だ。非モテでもいかがわしいホテルに直行出来るぞ」


いちいち言葉遣いが悪い。しかも。


「どうした、あんま嬉しそうじゃねえな。チート魔法だぞ」


「いや……十秒って長いぞ。無理ゲーだろうが」


「下手な鉄砲数打ちゃ当たる、と言いたいところだがな、この魔法にはなんと魅了という力まで付与されるんだ。目が合えば女性は喜んで見つめてくれるぜ?」


「……で、その気になってくれると。あーはいはい」


諦念と落胆に慣れた非モテなめんな。そんな美味い話があるか。


全く信じようとしない俺に、精霊──もはや黒魔法使いに思える──は、胸を張って腰に手をあてた。古典的な仕草すぎる。


「俺を信じろ。とにかく信じろ。明日は休みだな?──街に出てみろ。それで、適当に目星をつけてナンパしてみろ。女性はイチコロになるからな!」


いや、どうせなら好きな人と結ばれたいのだが。初めてのえちちちが魔法で操った心を利用した相手とか、後で虚しさに襲われないか。


それに、いくら非モテの俺にでも好きな人はいるのだ。同じ会社の人で境田春子さん、俺より三歳歳下で控えめな雰囲気をかもし出している。──顔立ちはむしろ可愛い方なのに自己アピールをしないので地味な存在になっているのだ。でも、確かに服装も化粧も華やかさはないけれど、かつて営業で失敗した俺に美味しいコーヒーを淹れてくれて励ましてくれた素敵な女性だ。


密やかな恋心は淡く甘酸っぱい。毎朝会社で「おはようございます」と言い交わすのが精一杯で、その時の彼女の笑顔が天使の微笑みに見えて浮き足立つ程には自分が恋愛初心者だと自覚している。


精霊は、そんな俺の気持ちも読み取っているらしい。真顔になった。


「お前さ、惚れた女と初めて結ばれる時に何のテクニックも知識も無しにやらかして冷められるとか考えた事あんのか?──まずは訓練なんだよなあ。あー、美味しい味見と手練手管を覚えるチャンス、これを逃すかあ? 童貞の無駄遣いだよなあ」


……言いたい放題言われて本当に泣きたい。けれど、精霊の言うことも分からないではない。何もヤリチンもといテクニシャンにならないといけない訳ではないのだ。ただ、満足させられる最低限を実地訓練出来れば……やばい、ほだされかけている。流される。


「……本当に、魔法と魅了とやらは使えるんだな?」


「おお、保証するぞ」


こいつは自信満々だ。ウーロンハイに潜んでいた精霊は酒に浸かっていたせいでご機嫌なんだろうか。


「──あ、言っておくが俺は手伝えないぞ。人の情事をつぶさに見てる趣味はねえからな」


「…………」


まあ……見られながら事に及ぶのは嫌だけれども。しかし無責任にも思える。


精霊は俺がその気になったと確信したのか、満足そうに白い歯を見せて笑い、頭をかいた。


「さて俺は寝る。頑張れ童貞卒業。冷蔵庫に酒まだあるよな?」


「……あるけどさあ……」


酒浸りの精霊……。精霊っていうものは、何かこう、崇高なものではないのか。漫画やラノベは大学生までそこそこ読んでいたけれど、就職してから離れているから、最近の流行りは分からない。もしかして自堕落な精霊が流行りなのか。いいのかZ世代、こんなのを精霊扱いして。


「じゃあな、おやすみ。お前も早く寝ろよ、目に隈作って不細工になった野面晒しながら歩くの嫌だろ、どうせなら満点のコンディションで初体験に臨めよ、いいな?」


酷い言いようだ。もはや突っ込む気にもなれない。精霊はあくびをして、溶けるように姿を無くしてしまった。


精霊の言うことが本当ならば、冷蔵庫の中にある酒のどれかに精霊が寝ている。オッサンなんか呑みたくない。俺は仕方なく寝る事にした。幸いにも、部屋は精霊が片付けてくれてあるからよかった。


が、ふと思い出した。オッサン精霊が現れた時、俺はウーロンハイを呑み干していたのだ。つまり俺はオッサン精霊エキスの溶け込んだウーロンハイを……。


「う……駄目だ考えたら駄目だ……寝れば治る……」


風邪でもあるまいに、そう言い聞かせる。それから、さして眠る意欲もないものの、仕方なしにベッドにもぐる。すると、急に五本呑んだウーロンハイのアルコールが回ってきて、ふわふわとした眠りについたのだった──。

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