第17話
【乙女よ駆け抜けろ我が道を・半分ノンフィクション・前編】
* * *
私は、気づけば保育園児の頃からぼっちだった。どれ程のものかと言うと、園庭の砂場の片隅で蟻地獄もどきを作るのに没頭して、他の園児の輪に入る事など思いつきもしない程度には、ぼっちだった。誘われもしないのだ。
だが、それを苦にした記憶はない。むしろ目立たない為、余計なプレッシャーを浴びずに済んで、心は常に自由だった。
得意な事と言えば、園児の頃から大量の絵本を買い与えられていた事により絵に馴染みが深く、小学生の頃から漫画を描くことが好きだった事と、あとは駅伝で走者を務めて区間賞をとった過去のある父譲りで持久走が得意な事くらい。
しかし不満はない。中学生時代から好きなバンドのインタビュー記事を集めては妄想を広げるようになった。同時に、入部した美術部には腐女子が勢揃いしており、私は洗礼を受けた。
お蔭で自然と、そのバンドの同人誌を書くようになり、バンドはヴィジュアル系だった為に、お化粧の有無に関わらず良き顔を愛でる事を心の潤いにするのを覚えた。
そして、そこで得た萌えを高校生になった今でも──いやむしろ今こそ本格的に同人誌へぶつけて描き残している。高校生になってイベントにもサークル参加が可能になった事も大きい。
最初はイベントでも島中という机が縦長に並べられている場所のどこかだったのが、高校生になって初めての夏休みを迎えた頃には、お誕生日席──机の島の一番目立つ頂点に配置される程になった。
バンギャ同人仲間のお姉さん達にも可愛がられている。お姉さん達は服装ひとつ取っても洗練されていて、とても美しい。社交的なお姉さん達は歳下を愛でる気質があり、私の養分だ。
そんな私だが、高校一年の三学期を迎えている今、最推しがいる。隣のクラスの若木夏果さんだ。
彼女は陸上部で長距離をやっており、スカートから見える膝から下はすらりと長くて、ふくらはぎの曲線もそれはそれは美しい。
栗色の髪に、顔立ちはすっきりと整っていて、噂によるとドイツ人の祖父を持つクオーターだそうだ。それにも頷ける美貌の持ち主で、しかもそれを鼻にかけない気さくさがある。彼女の周りには常に友達の姿が絶えなかった。
私はバンドの同人誌を作る傍ら、今では若木さんをモデルにしたお耽美な百合本の制作にも励んでいる。
その同人誌活動も始めは楽ではなかった。何しろ本を作るお金がない。経験値もない。細々と集めてきた同人誌を参考に、手探りで原稿を描いて面倒くさいけれどコピー本を作っていた。コピー本も装丁を工夫する必要があり、無い知恵を振り絞った。
最初はコピー本十部。それでも売れ残った。しかし萌えは偉大だ。私はバンドマンをより綺麗に描けるように努力し、高校入学と同時にアルバイトを始めて、印刷会社にオフセット印刷を依頼する為の資金を作った。それも始めは五十部。そこから少しずつ部数を伸ばして、今では三百部刷れるまでになった。売れるとなると、売り上げが更に本を作る助けになる。好循環だ。
私は波に乗り、そして──体育祭でまばゆく輝く若木さんを最推しとして見つけてしまった。バンド同人で生身の人間を同人誌にするのは慣れている。
それで、私は萌えのままに若木さんを主人公の彼女として、百合同人誌も描くようになったという訳だ。背徳感はあっても迷いはない。時おり見かける程度の関係しかない若木さんは遠い存在で、憧れる気持ちは好きなバンドのメンバーへのそれと大差ない。
だが、バンドのナマモノ同人スペースに一次創作の本を置いても簡単には売れない。私は在庫を抱えたものの、萌え盛るパッションのままに粘り強く描き続けた。その頃には、同人誌の売り上げのみでオフセット印刷を頼めるようになっていた為、原稿を描く時間の確保を優先してアルバイトは辞めていた。
萌えとは、なんと心躍るものだろう。私は高校生活をそこそこにして同人誌活動に打ち込んだ。
──が、事件は起きる。
前述したが、私は駅伝走者だった父の遺伝子を受け継いでいる。だから、入学直後の体力測定でも千メートル走はトップクラスだった。
言っておくが運動神経はない。ただ、百メートルを二十秒で走るように、千メートルをそのまま二百秒で走り、五キロをそのまま千秒で走り抜ける、それだけだ。
──が、それを出来てしまうのが問題だった。どうやら全力疾走をキロ単位で続けるのは、帰宅部兼漫研部にアシスタントを頼む為に出入りするだけの運動と無縁な人間には不可能に近いらしいのだ。
なのに私は走れるものだから、冬の体育でマラソン大会の練習が始まると、どんどん周回遅れの人達を追い抜いて走り、しまいにはマラソン大会本番で学年女子五位になってしまった。
ぶっちゃけ走るのは苦しい。基礎体力がないのだから当たり前だ。肺活量もない。しかし走れる。私は苦しさを通り越して恍惚をおぼえ、五キロのマラソン大会を走り抜いた。ノートより一回り小さな賞状をもらって満足し、しかし周りはざわついた。漫研部に出入りするだけの帰宅部員がなぜ。
遺伝子は恐ろしい。思えば兄妹も鈍臭いけれどマラソンは得意だった。私程ではないが速かった。父の遺伝子は強すぎた。
だからこそ──私は忌避すべき推しとの接触を果たしてしまったのだった。若木さんだ。
若木さんは、教室で雑誌を読み耽り次のネタに妄想を膨らませる私の元へ「佐藤さん、だよね?──初めて話すかな、初めまして。私は若木って言うんだけど」と訪れた。
そして──なんと、若木さん自身が所属する陸上部に、私を「佐藤さん、陸上部で長距離頑張ってみてくれない?」と、スカウトしたもうたのだ。
聞けば、入学直後の体力測定では顔と名前が一致せず私を識別出来ていなかったそうだ。しかし、マラソン大会に向けての体育での授業は、基本ぼっち体質の私をも目立たせた。しかも結果が五位だ。
推しが目の前で私に笑いかけてくれている。誘ってくれている。陸上部に入れば、推しを間近で愛でられる。
──だが、私には同人誌を描く時間が必要だ。「陸上部って……どんな頻度で活動してるものなの?」と恐る恐る訊ねてみた私に、若木さんは「部活動は週に五回で朝練ありの、休日は大会もあるからハードではあるけど……」とまで言った。
これでは原稿が描けない。しかも、帰宅部だった私はまず、基礎的な身体作りから始める必要があると言う。若木さんは、「マラソン大会で見てたら分かるよ」と笑った。
「あんな今にも召されそうな顔して走るんだもん、ランナーズハイだったでしょ」とずばり言い当てた。続けて、「走った翌日は小走りもつらいでしょ」と指摘してきた。確かにその通りだ。それもこれも身体が作られていないせいらしい。
推しを見ていたい。原稿は描いていたい。やっと得たお誕生日席。しかし推しは尊い。
私は葛藤の末に、「少しだけ考えさせて」と答えた。ついでに、「でも部活動は見学したいんだけど……」と推しへの欲望ストレートで頼んだのであった。その心の内を知るよしもない若木さんは快諾してくれた。
部活動での推しは──若木さんは、活き活きとしていた。良く伸びる声での声出しも素晴らしい。少しつらそうに走り込む姿は憂いかのようで私を懊悩させ悶絶させた。この午後練だけで三冊は作れると自負する程に私はつかの間満たされた。
一日が百時間あったら、部活動で推しを見ながらも家で同人誌の原稿を描いたり、大会にもイベントにも参加出来るというのに。なぜ過去の人間は一日を二十四時間と定めた。口惜しい。
それを恨めしく思いつつも、脳の反対側では同人誌のネタを練っている自分がいた。もう脳が、そのように育成されていたのである。
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