第12話

【銀杏並木で消えましょう・後編】


* * *


……それから、二人での付き合い方を模索して、昼休みに学校の銀杏並木で一緒にすごすようになった。銀杏の実を嫌がって、他の生徒は来ないからだ。


初めての口づけも銀杏並木だった。


お互いに初めてだったから、ぎこちなく触れ合うだけの口づけ。柔らかく優しい感触に、心がほかほかして照れてしまい、額をくっつけて顔を見合わせて笑った。


「……ねえ、遥香」


「なあに?」


その日は、遥香が膝枕をしてくれていた。朝練で疲れたと話したら、お昼休みはゆっくり休みなさいと言って、申し出てくれたのだ。果奈は恥ずかしいよと躊躇ったが、嫌なはずはない。誰も見ていないわと言われて、甘える事にした。頭を撫でてくれる手が気持ちよくて幸せを噛みしめた。


……けれど。

忘れるわけにはいかないのだ。二人が気持ちを通じ合わせた、そのきっかけとなった事実を。


「……私の、お見合いの事だけど」


「……果奈」


頭を撫でる手が、ぴくりと止まった。


「パパは、本当にお見合いさせる気なのかな? 嫌だよ……」


「そうね……私も嫌よ。でも……お父様のお仕事の関係の方の息子さんらしいわ」


「私はパパのお仕事のためにお見合いさせられるの? 断れないの?」


ベンチに手をついて体を起こす。遥香の苦しそうな表情が、二人にとって辛い現実を表していた。


「お父様に、訊いてみたらどうかしら。その上で、果奈の気持ちを話すの。いくら何でも、果奈に縁談は早すぎるわ。会ってみるだけでいいのかもしれないし……」


「遥香も一緒にいてくれる?」


「ええ、援護するわ。大切な果奈のため、二人のためだもの。……だから、今はもう少し休みなさい。また倒れたら……」


遥香の手が、そっと果奈の頭を包んでから肩に移動する。いざなわれて、果奈は抗わず遥香の膝に頭を預けた。


「……絶対、傍にいてね。約束だよ?」


「ええ、約束。果奈の望まない事なんて私は許さないわ。果奈を守りたいの」


「うん……ありがとう、遥香……大好き」


「私も大好きよ。愛してるわ……私の初恋」


遥香が微かに笑みを含ませて囁く。果奈は顔を巡らせて遥香を見上げた。


「本当? いつから?」


「そうね……物心ついた時には、もう果奈は特別だったの」


「そうだったんだ……私、遥香の初めての人なんだね、何か嬉しい」


照れくさそうに笑うと、遥香は頬を染めて笑い返してくれた。


* * *


その夜、父の帰宅を待って二人は話を切り出した。


「パパ、私にお見合いの話があるって本当?」


「ああ……遥香から聞いたのか」


父は水割りのグラスをテーブルに置いて二人に向き直った。


「私、嫌だからね。絶対にお見合いなんてしないよ」


先手を打って果奈が言い切ると、苦りきった顔をして、「悪い話じゃないんだ」と言い訳する。


「何も、すぐに婚約するわけじゃない。とりあえず会ってみて、交際をしてみて……」


「勝手な事言わないで! 私の気持ちはどうなるの?」


思わず声を荒げると、父がむっとして「お前にとっても良い話だと思うから受けたんだ。それともお前、もう付き合ってる相手でもいるのか?」と詰問してきた。


果奈は、言葉に詰まった。付き合っている人ならいる、両思いだと言ってしまえば、父は許さない、会わせろと言うだろう。本当の事は絶対に言えない。


「……片思いだけど……私にだって好きな人くらいいるよ。もう高校生だよ?」


「それはどんな人間なんだ? 夢見がちな幻想より現実を見なさい」


「なっ……パパひどいよ!」


「……お父様、果奈の心は無視ですか? 正直に話したらいかがです? お仕事のために必要なお見合いだと」


身を乗り出して激昂する果奈の肩に手を置いて、黙っていた遥香が口を開いた。辛辣な物言いに、今度は父が言葉に詰まる。その後、水割りをあおってグラスを乱暴に置いた。


「生意気な事を言うんじゃない! 誰のおかげで何不自由なく学校に通えていると思ってるんだ! 第一、子供のためを思わない親がいるか!」


「お父様、子供のためを思うのでしたら、本人が望まないお見合いなんて無理強いなさらないでください。果奈が可哀想です。果奈はまだ、全てがこれからなんです」


「揚げ足を取るんじゃない! 二人とも部屋に戻れ、顔も見たくない!」


「申し訳ありません。果奈の意思を無視したお見合いを止めてくださるのでしたら部屋に戻ります」


「うるさい! この縁談は良い話なんだ、果奈も将来的には分かるだろう。今は我儘を言っているだけだ!」


「……パパ、つまりは私に婚約しろって言ってるようなものじゃない。私は家の道具じゃない!」


「口ごたえするな! いいから部屋に行け!」


「遥香、果奈……今はお部屋に戻りなさい。お父さんだって考えがあるのよ。頭に血も昇っているし……」


「ママ……だって……!」


「お父さんも色々あるのよ、子供の幸せを願わない親はいないの。今はお互い冷静になる時間が必要よ。二人とも部屋に戻りなさい。果奈は明日も朝練があるんでしょう?」


母がとりなしてきて、父は母に水割りを作るように言いつけ、遥香が果奈の肩を抱いて「私の部屋に行きましょう」と促した。果奈は感情が昂って非難する言葉も浮かばないまま、遥香の手に従って階段を昇った。


遥香の部屋に入り、静まり返ったなかで遥香の胸に飛び込む。


「遥香……私、嫌だよ……!」


「私だって、こんな卑劣な方法で果奈の心が無視されるのは嫌よ……許せない」


けれど。父の口ぶりでは、会うだけのお見合いでは済まないだろう。明らかに婚約、婚姻を望んでいる。


どうすれば断れるだろう? どうすれば遥香とずっと二人でいられるだろう?


「遥香……逃げられないのかな」


「果奈……」


おそらく、家出しても数日で連れ戻される。そうして、監視されるようになる。二人で逃げれば、引き離される。容易に想像がつくのが悲しい。


「……遥香……私の事、どれくらい好き?」


「……愛してるわ、世界で一番」


果奈はその言葉を噛みしめて、遥香にしがみつく腕に力を籠めた。遥香も固く抱きしめてくれた。


……いつか、きっと来る。どちらかが、奪われる。果奈に降ってわいたお見合いの話は、そのうちの一つにすぎない。


失うだなんて、若い二人には耐えられなかった。生まれた時から寄り添ってきた。想いが通じあって、まだ僅かな時間しか共にすごしていない。


全てはこれからだと思っていたのに。現実は容赦なく突きつけられる。


果奈は顔を上げて遥香を見つめた。


「遥香……私も、愛してるの。引き離されるくらいなら……一緒に……」


「果奈……?」


「一緒に……消えて」


「果奈……!」


遥香が打たれたように果奈を見つめる。果奈は眼差しでもすがりつきながら遥香を見上げた。


視線が絡み合う。互いの気持ちを読みとる。果奈は追いつめられている。


「いつかは……私達には、訪れる時だったのね……」


遥香が呟いて、そっと果奈を抱きしめなおした。そして、耳元に囁く。


「明日、はじまりの……」


「遥香……遥香、ごめんなさい……! 私がいなければ、遥香の未来はこんな形で……」


続くはずの悔やむ一言は、重なる唇に吸い込まれた。


「果奈……今夜は一緒に寝ましょう?」


「でも……パパやママに見つかったら……」


遥香が宝物を包むように果奈の頬に手を添える。決意をたたえ、涙を堪えた笑顔が艶然として美しい。


「大丈夫よ。お父様が部屋に来たら嫌だから私の部屋に避難したって言えばいいわ」


「うん……そうだね。実際、嫌だもんね」


「そうよ。……今夜はずっと抱きしめているから、ゆっくり休みなさい」


「嬉しい……最後の思い出になるね」


「ええ……地獄に堕ちても生まれ変わっても忘れない」


「私も……生まれ変わったら、絶対に遥香を見つけるね」


涙混じりに笑うと、遥香が小さな音をたてて濡れた目元に口づけた。


その夜はシングルベッドに寄り添い、もし生まれ変わったらどんな二人で出逢いたいかを語り合って、いつの間にか果奈は遥香の温もりが優しく気持ちよくて眠りについていた。


遥香はその安らかな寝顔を見ながら夜を明かした。見守る目つきは、いつしか愛を貪るように変わり、それを自覚してきつく目を閉じ、気持ちを入れ換える。果奈を起こさないように気をつけながら額に唇を寄せた。


朝、果奈が目を醒ますと、遥香はベッドから出て着替えていた。白い肌が朝日を受けて真珠のように輝いている。うっとりと見とれていると、視線に気づいた遥香が振り向いて微笑みかけてきた。


「おはよう、果奈」


「うん、おはよう……いつの間にか寝ちゃってた」


「可愛かった、果奈の寝顔」


「もう……ずるいよ、遥香だけ……」


果奈が体を起こしてベッドに座り込む。遥香は甘やかす表情で笑って、「じゃあ、部屋に戻って着替えてらっしゃい。朝練があるでしょう?」と言った。


最後はなるべく一緒にいたいと思ったものの、実行するその時までは普段通りに振る舞わなければ怪しまれるし、二人で授業を欠席などしたら探し出されて計画は水の泡となる。果奈は仕方なく部屋に戻ることにした。


「じゃあ、お昼休みにね。……私は準備があるから、もう出るけれど……」


「うん……お昼休みに」


「朝練では思いっきり走ってらっしゃい」


最後に、という言外の言葉に、果奈は大きく頷いた。


遥香は二十四時間営業の薬局に行くという。学校とは反対の方向にあるため、早くに出る必要があった。


果奈は朝練に出て、とにかく走り、仲間と笑い、精一杯にすごした。


──誰も知らない。私が最期の時を迎えようとしている事は。


そう思うと、やるせなさに泣きたくなったが、果奈は努めて明るく振る舞い、学校の日常の全てを眩しく見た。


そして、昼休みのチャイムが鳴ると、すぐに席を立って銀杏並木に向かった。


「……遥香!」


「果奈……来たのね」


遥香はすでにベンチに座っていた。立ち上がり果奈を迎える。ベンチにはスクールバッグが置かれていた。


「……遥香、どうやって……?」


訊ねると、遥香はスクールバッグから薬の入った小さな瓶を四本取り出した。


「これ……この薬、遥香の部屋で見かけた事ある……」


果奈が手に取ってラベルを見る。遥香がその手を包んだ。


「それは、引き出しに隠し忘れてしまっていたのを見たのね。……これには市販の睡眠導入剤と同じ成分が含まれているの。果奈に片思いをしていた頃、眠れない夜に使っていて……どれだけ飲めばいいのか分からなかったから、多めに用意したのだけど……」


「そうなんだ……」


遥香は少しでも苦しまずに逝けるように考えてくれたのだろう。正直、首や手首を切ったり心臓を刺したりするのは怖かった。でも、薬を飲むのも、どんな苦しみがあるのか怖い気持ちはある。


「スポーツドリンクも買っておいたの……でも、果奈……本当にこれでいいの? あなたには未来が……」


「遥香と離れる未来ならいらないよ」


遥香の迷いを遮って言い切る。勢いで薬の蓋を開けた。手のひらに薬を出す。それを見て、遥香もそれに続いた。


「急ごう、遥香。お昼休みが終わっても教室に戻らなかったら探されるかもしれない」


「そうね……果奈、あなたには生きて幸せになって欲しかったけれど……叶わないなら、せめて一緒に……」


二人でベンチに並んで座り、薬を喉に流し込む。二人一緒というだけで、怖さは感じなくなった。


だんだんと胸苦しくなり、頭がくらくらしてくる。体がふらついて、座っているのも難しくなった。


「はる……キスし……」


呂律が回らないなかで、最期の口づけを求める。遥香も同じような状態なのだろう。歯が当たる口づけだった。


そのまま、互いにもたれあう。ぐらりと重心が傾いて、ベンチに折り重なって倒れた。


「果奈……あい……てる……」


「わた……も……」


うわごとのように、遠ざかる意識のなかで言葉を交わしあった。


黄金色の銀杏の葉が、不意に吹き抜けた風に舞い散って二人に降り注いだ。


最後の視界で、果奈はそれを綺麗だと思った。


* * *


……声が、聞こえる。


果奈は辺りを見渡した。


真っ白な世界。何も見えないなかで、慟哭だけが聞こえる。


──見合い話なんて断ればよかった……!


──あの子は嫌がっていたのに、庇ってあげられなかった。


──悩んでいたはずなのに、気づいてあげられなかった……部活でずっと一緒に走ってきたのに。


色々な人の、悲嘆に暮れる声が聞こえて、けれど一番聞きたい声が聞こえない。


「遥香……? 遥香……!」


そこで、世界が消えた。


「楠果奈さん? 聞こえていますか?」


「あ……」


白い天井、機械の規則的な無機質の音。看護師の制服を着た女性。


「遥香……遥香、お姉ちゃんは……」


うわ言のように問いかける。看護師は痛ましそうに──低い声で答えた。


「あなたのお姉さんは……ここに運ばれて来た時には、もう……」


果奈は吐血していたという。それによって薬が吐き出されていたのだと。


「嫌……遥香……遥香……!」


果奈は起き上がろうとして暴れ、ベッドにテープで固定された。退院までは地獄だった。


銀杏並木は、生徒の立ち入りが禁止された。お見合いの話は立ち消えとなった。


退院して、果奈は真っ先に夜の学校に忍び込んだ。両親の監視があったが、夢中になれば容易かった。学校には警備員がいたが、離れた隙を狙って銀杏並木に走った。


──はじまりの……。


亡骸さえ見せてもらえなかった遥香の、微笑みが恋しい。


「遥香……先に逝かせてごめんね」


手には途中で購入したカッターがある。あの時は怖かったけれど、遥香を一人で逝かせた事を思えば何が怖いというのだろう。そんな甘い考えは、とうに捨て去った。


いつものベンチに座って、夜の学校の冷たい空気を吸い込む。散りはじめた銀杏の葉の甘い匂いは遥香の匂いを思わせて、果奈は目を閉じた。


「今行くよ……遥香」


巡回する警備員に見つかる前に。両親が気づく前に。


遥香と一緒の、無の世界へ。


「……大好き……」


囁いて、果奈はカッターを首筋にあてた。


黄金色の銀杏の葉が、紅に染まった。


* * *


「……果奈……果奈」


「……遥香? 遥香なの?」


熱い痺れのような痛みの後に、泣き求め焦がれた声が聞こえた。


「果奈……来てしまったのね」


目の前に、遥香が立っていた。迷わず抱きついて頬をすり寄せる。


「そうだよ……あの時、一緒に逝くはずだったじゃない。遥香は望んでないの? 遥香なしの幸せなんてないんだよ」


すると、遥香が優しく抱き返して背中をさすった。


「そうね……ごめんね、愛してるから……」


「ずっと一緒だよ、遥香……」


口づけは、最期に感じた甘い匂いがした。



【完】

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