第11話

【銀杏並木で消えましょう・前編】


* * *


「ファイッオー、あと5周ー!」


「はいっ!」


楠果奈は聖白百合女学院の高等部1年だ。陸上部で長距離をやっている。


走るのは好きだった。足が自然と前に出て、耳には自分の呼吸しか聞こえなくなる。走ることが全てになる。


けれど、ある人物の姿を目の前の数メートル先に見いだして、我にかえる。


美術部の画材が入ったバッグを両腕に押し包んだ立ち姿が儚くて美しい。


あっという間に距離がなくなる。


すれ違いざま、囁きを聞いた。


「……はじまりの」


それだけで分かった。繰り返された合言葉。


──はじまりの銀杏並木で会いましょう。


* * *


「おね……遥香さま!」


校内の銀杏並木のベンチから立ち上がって約束の相手に駆け寄る。それを、ふわりと微笑んで受けとめる表情はどこまでも優しい。


「ごめんなさい、待たせたわね。……ところで、果奈?」


「なあに? 遥香さま……」


「さま、は止めてって言ったでしょう?」


くすりと笑い、細く白い手を伸ばして頬に触れてくる。言われて紅潮した顔の火照りをなだめるように。


「だって……二人きりの時に“お姉ちゃん”って言いたくないんだもん」


「ええ、だからね……呼び捨てでいいのよ、二人きりの時は」


ほら、呼んでみて。──甘い声で促される。


「恥ずかしいよ……」


「だめ。……誰も聞いてないから……ね?」


「……遥香……」


躊躇いがちに、消え入りそうな声で口にすると、笑みが深まって愛おしそうに見つめられる。そうなると、頭の芯がとろけそうになってしまう。


「良い子ね、果奈……大好きよ」


「……私も……大好き」


「……嬉しい」


そっと抱き寄せられて、心地よい香りに包まれる。同じ家で、同じボディーソープと同じシャンプーを使っているのに、違う。清涼な花の香りがする。


「遥香のこと、世界で一番大好きなのは私なんだからね」


上目使いに見上げて言い募り、照れくささから遥香の肩に頬を押しつけて抱きつく。背中をさすってくれるのが切ないほど気持ちいい。


「分かってる。……私達は世界に二人きりの共犯者だもの」


そう。──世界を欺く共犯者。


実の姉妹でありながら愛しあう、罪を共有している共犯者。


* * *


二人の関係は、秋に入ったばかりの頃に始まった。


ある日、遥香が「今日のお弁当は銀杏並木のベンチで一緒に食べましょう」と果奈を誘ったのだ。


ここしばらく、お互いの部活動ですれ違いの生活だったので、果奈は喜んだ。小さい時から自分の事を可愛がってきてくれたお姉ちゃんは、優しくて綺麗で穏やかで自慢のお姉ちゃんだった。


果奈は張り切って母のお弁当作りを手伝いまでした。


「ママ、お姉ちゃんの好きな生ハムのサラダは私が作る」


「果奈は本当にお姉ちゃんが好きねえ」


「だって、お姉ちゃんと一緒にお弁当食べるの何年ぶり? 嬉しいんだもん」


「そうね、果奈が中一の時以来かしら? それにしても、二人とも良い子に育ったわね。小さい頃から、おねだりして泣いたりぐずったりする事もなかったけど」


母が懐かしそうに目を細める。果奈は心のなかで、私にはお姉ちゃんがいたから、と呟いた。おもちゃでもおやつでも、欲しいものは何でも遥香が先読みして譲ってくれた。だから、おねだりする必要もなかった。


「今日は良いお天気になるから、外でお昼を食べるのも気持ちいいでしょうね」


「うん!」


母の言葉に破顔して頷く。


けれど、遥香は。二人きりになるお昼に、覚悟を決めていたのだ。


唯一無二の存在を失う覚悟を。


「お姉ちゃん、サラダは私が作ったの!」


「わあ……美味しそうね。嬉しい」


銀杏並木のベンチで一緒にお弁当を広げる。遥香はサラダから食べた。そっと口にして、顔をほころばせる。


「美味しい。ありがとう、果奈……大好きよ」


「私も、お姉ちゃん大好き」


「そう……でも私の方が大好きよ、きっと」


「そんな事ないよ、だってパパよりママより大好きだもん」


「……そう」


てっきり、遥香は笑ってくれると思っていた。けれど、遥香は俯いて、睫毛が瞳に影を落とす。


「……お姉ちゃん?」


「ええ……分かってる。果奈の気持ちの意味は。でも……」


遥香がまばたきをして顔を上げる。黒く澄んだ瞳が真っ直ぐに果奈を見つめた。


「大好きよ、果奈……世界で一番、愛してる」


もう、姉妹としてだけでは収まらないほど。──その言葉は苦しそうで、果奈は言葉を失った。


「答えは、いつでもいいの。……ごめんなさい、果奈……こんな罪深いお姉ちゃんで……」


風が吹いて、色づき始めた銀杏の葉が目の前をかすめた。


* * *


……それから、果奈は遥香を避けて毎日考えた。


朝練があるからと早くに家を出て、大会が近いからとギリギリまで学校に残って走り込んだ。遥香は何も言ってこなかった。


果奈には、姉である遥香がなぜ急に告白してきたのか分からなかった。ただ、戸惑った。


──大好きなお姉ちゃん。でも。


寂しかった。避けてしまっている毎日が。


「果奈、今日も遅かったのね。部活動とはいえ、帰り道は物騒でしょう。もう少し早く帰れないの?」


ある日、母が溜め息混じりに訊いてきた。


「ごめんなさい。大会が終わったら早くに帰れるようになるから」


「大会、ねえ……長距離っていうのは、大変なんでしょう? 女の子がこんなに痩せて……遥香みたいに文化部には変わる事はできないの?」


「……」


言われたくない事だった。俯いて唇の内側を噛む。こんな時、遥香がいてくれたら、きっと庇ってくれたのに。


部活動に打ち込める事は、将来のプラスになるわよ。そう言って。宥めてくれただろうに。


「……お夕飯、部屋で食べるね」


逃げるしかできない。そう言ってしまえば、遥香からも逃げているばかりだ。


二階に上がり、隣の部屋のドアを見つめる。物音は漏れてこない。静まり返っている。遥香は静寂のなかで、どうしているだろう?


果奈は部屋に入り、遥香にLINEを送った。

 

──明日のお昼休みに銀杏並木に来てください。返事をします。


どう返事をするかは考えていなかったけれど、遥香の存在がない毎日に、その心細さに疲れていた。


眠れない夜をすごして、翌朝、早くに家を出た。大会が近いのは嘘じゃない。


「果奈、顔色悪いよ? 朝練は休んだ方がいいんじゃない?」


先輩に声をかけられる。果奈は笑顔を作って「大丈夫です」と元気そうな声を返した。


初秋の空気は、走る前には心地よく、走りだすとすぐに暑くなった。汗が止まらない。呼吸が乱れる。……おかしい。いつもと違う──。


「──ちょっと、果奈?!」


視界が狭まってゆく。足がもつれて、膝をついてグラウンドに倒れた。もう走れなかった。


「果奈……果奈!」


意識を手離す直前、遥香の声が聞こえたような気がした。


──お姉ちゃん。お姉ちゃん、お姉ちゃん……。


ただ繰り返す。それは、言葉になっていたのだろうか?


誰かが頭を抱いた。膝枕の感触が心地よくて泣きたくなった。


* * *


「……あ」


「……果奈!」


目を覚ますと、白い壁が映った。


そして、遥香の顔が。今にも泣きそうな。


「お姉ちゃん……」


「果奈、ごめんね、ごめんなさい……! 私があんな事を言ったから……いくら果奈にお見合いの話が出ていたからって……」


「……お見合い?」


初耳だった。遥香ならまだしも、まだ高校1年の、とりたてて美人でもない自分にお見合い?


「果奈が中学三年の時の全国大会で走ってる姿を見て……一目惚れしたって……お見合いは十六歳になるまで待つって……」


遥香は言いにくそうに教えてくれた。


「私も、最近になってお父様から聞いたの。だから、焦って……でも」


遥香が椅子の上で手を握りしめる。その手は震えていた。


「それで果奈が損なわれるくらいなら、私なんて消えてしまえばいい……!」


静まりかえった保健室に、痛切な声が響く。俯いた遥香の目から、はたりと涙が落ちた。


「……お姉ちゃん……」


ベッドから手を出して、遥香へと伸ばす。


「……消えないで」


「果奈……?」


手を伸ばしても、遥香へは届かない。めまいを抑えて半身を起こし、握りしめられた遥香の手に自分の手を重ねた。


「果奈、まだ横になっていないと……」


「大丈夫。……ねえ、お姉ちゃん……消えたら嫌だよ」


遥香は本気で言っている。ここで拒絶したら、きっと本当に消えてしまう。


そんなのは嫌だった。


大好きなお姉ちゃん。それが、初めて自分に心情を吐露して涙をこぼしている。


自分が欲しいと。


それは、目の眩むような感覚だった。


「お姉ちゃん……大好きだよ」


心臓が高鳴る。ぎゅっと締めつけられたように苦しいのに、心は今、羽が生えたように軽かった。


「大好き。……お姉ちゃんは特別なの」


「でも……私は実の妹に……こんな」


「いいよ……私も、同じだよ」


多分、それが恋に落ちた瞬間だった。恋に恋をしているだけだと思われるかもしれない。でも、恋に落ちるのに定義なんてない。この想いを、喜びを、偽物だなんて言わせない。


「お姉ちゃん……大好き」


「果奈……許してくれるの? こんな私を……」


迷い子のような眼差しを真っ直ぐに受けとめて笑みを浮かべる。遥香の手を取って、押し包んだ。


「私もだよ。私達は同じ罪に落ちるんだよ。……いいの?」


答えは狂おしい抱擁だった。

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