第16話
【人生色々なんだから、まあ店員さんも色々だよね・ノンフィクション・後編】
* * *
「……あー……」
ついにやってしまった。この後悔と達成感は何だろう。
それでも、今ならキャンセルしても間に合うかもしれないと思っていると、お店からメールが届いてしまった。
『この度は当店のご利用をありがとうございます。ご指定の日時と待ち合わせ場所にてリョウジで承りました。楽しいひとときをお過ごし出来ますよう全力で努めさせて頂きます』
まだ申し込んで五分と経っていない。リョウジさんという人は、そんなに売れていないのだろうか。それとも、シフトや空き時間が徹底管理されているのか。
分からないけれど、決まってしまった。
今は不安八割期待二割だ。しかし、決まったのならば服装等選ばなくてはならない。待ち合わせ場所に指定したのはビジネスホテルの入り口辺りだ。凝りが苦痛すぎて、直近の休日に指定してしまっているから、なんと明後日だ。
私はまずビジネスホテルに電話して予約を取っておくことにした。一時間だけとはいえ、ラブホテルは雰囲気がありすぎて使えない。ビジネスホテルでも安い部類に入るので、ラブホテルの休憩と大差ないし金銭的にも良いだろう。
次に服装だけれど、アパレル店員だから洋服は揃っている。一応脱がしにくくて、それと乱れにくい服さえ選べばいい。年齢相応でいて、少しおしゃれな服装を選ぶのは簡単だった。
スキンケアも特別な事をする必要がある程、普段から手抜きはしていない。人前で接客する仕事は、それなりに輝いていないといけないのだ。
……まあ、念の為、前夜はお気に入りのパックをしておこう。その程度の感覚だった。
それにしても疲れた。とんでもない決断をした気もするし、気疲れだろう。決まった事は決まってしまったのだから、とりあえず今夜はお風呂に入って寝よう。私は現実逃避のようにそう思って、お風呂の支度を始めたのだった。
その夜は、さすがに興奮していたのか、なかなか寝つけなかった。それでも仕事は明日もある。睡眠不足は大敵だ。ひたすら目を閉じて眠りを待ち、いつしか眠っていた。
その翌朝の寝覚めは軽かった。前夜の興奮が嘘のようだ。気持ちの問題となると別かとも予想していたが、眠っているうちに開き直ってしまったらしい。絶対に料金分マッサージしてもらってやる、と固い決意が出来ていた。
それからいつも通りに出勤して働く。勤務は基本的に二人体制だ。忙しくしていると、一緒に働いている同僚が隙をついて耳打ちしてきた。
「宮阪さん、今日声が明るいですね」
「え……そうかな?」
「いつもより声出しも。何か良い事ありました?」
「……いえ、特には……あ、寝覚めが良かったからかも」
どうやら、明日に向けて意気込んでいるのが表に出ていたらしい。さすがに風俗で男性を買ってマッサージしてもらうつもりだとは言えない。適当に言葉を濁した。
同僚も仕事でしか関わらない人だから、深追いはしてこなかった。助かる。
「いつもこんな感じだったら、宮阪さんファンのお客さん増えそうですね」
「あはは……頑張ってみます」
明日の結果次第では無理かもしれないけれど。
──その日の勤務は定時で上がることが出来て、早番だった事もあり、夜はゆっくり時間を取れた。
そんなに気負うつもりはないものの、その夜のお風呂はお気に入りのアロマの入浴剤を使って、ゆっくりと湯船に浸かってから、丁寧に身体と髪を洗った。お風呂といえば普段は三十分程度で済ませるけれど、気づいたら一時間かけていた。
それからすぐにスキンケアをして、モールの雑貨屋で売っているお香を焚いて、ホットミルクをちびちびと味わう。お香は入浴剤と同じタイプの香りを選んだ。せっかくの香りが喧嘩しては台無しだ。
そして、明日の為に早めの就寝をした。明日は有意義な時間にしてやる、と決意しながら。
だが、寝過ぎたせいか朝の凝りはひどかった。呻きたい程痛い。
まだ了解を得てもいないのに、早く、早くマッサージをと心が急いた。洗顔とスキンケアに化粧を軽く済ませて着替える。気合いの入りすぎない装いは、慣れた彼氏とのデートみたいだ。
まあ、それでもいい。たった一時間の為に気合いを入れすぎるだなんて相手からすれば引く案件だとも思う。何事も程々だ。
待ち合わせ場所には、五分前に着くように家を出た。電車の乗り換えはあらかじめ検索してある。最寄り駅から少し歩いてビジネスホテルの辺りに着くと、不自然に一人の男性が立っていた。あれがリョウジさんだろうか。──しかし。
近づくにつれ、容貌がはっきり見えてくる。やはり、これはと思った。
相手が私に気づき、小走りに近づいてきて笑顔になる。目立つのは笑いジワだけではない。
「宮阪様ですか?──はじめまして、リョウジです」
「……はじめまして……」
明らかにプロフィール画像より老けている。二十代前半とあったのに、実物の見た目はアラサーを軽く越えている。二十八歳になる私よりも歳上なのは間違いない。
一体何年前の写真を使ったのか、それとも画像加工の為せる技か。どうりでサイトでも扱いが良くないわけだ。これではチェンジされずに済んでもリピーターになってもらうのは難しい。
──いや、それでも。
若々しい男の子にマッサージしてもらいたいと言うより、落ち着いた歳上男性の方がやりやすいというか、安心出来るかもしれない。そう言い聞かせる。私は緊張と共に口を開いた。
「──あの、今日は、その……性感とか一切なしにして、肩凝りとかひどいので、純粋に揉みほぐして欲しいのですが……」
「普通のマッサージだけで良いんですか?」
──今明らかに、ほっとした顔をした。
「はい、肩と首と背中の凝りがひどいので、よければお願いします」
「任せてください。祖母と母が凝り性だったので、こういうのは少し自信があります」
うーん……、と思った。リョウジさんが売れっ子扱いされない理由は、多分年齢や見た目のせいだけではない。
「ありがとうございます。では、さっそくですが部屋に行きましょうか」
「はい!」
安いビジネスホテルなのに、もし犬の尻尾が付いていたら、ぶんぶん振っていそうな笑顔だ。
「普段は話し相手として買って頂く事がほとんどなので、大抵喫茶店なんです」
「聞き上手そうですものね」
「いや、それ程でも……本職が中間管理職なので、板挟みで両方の話を聞くのは慣れていますが」
中間管理職が副業で風俗。なるほどそれでは、ありのままの顔写真は使えない。それでも若見えさせ過ぎだけれど。
キーを受け取り、エレベーターで四階に行って部屋に向かう。リョウジさんは鼻歌でも歌いそうな面持ちだ。
「実は、この仕事では接客と言っても相談相手になるばかりで……恋愛経験は普通だと思いますが、接客としての行為には自信がなくて」
ああ、これは絶対に売れっ子にはなれないタイプ。風俗サービスの経験が無い私でも分かる。でも、リョウジさんは老けてこそいるけれど顔立ちは悪くないし清潔感もある。年に数回の話し相手としてはちょうどいいかもしれない。──初回でチェンジされなければ。初回で風俗接客の下手を打たなければ。しかし自ら自信がないと言う程なら、多分、風俗接客では全く売れていない。
「──この部屋です」
カードキーを通してドアを開ける。安いわりには小綺麗な部屋だ。ハーフボトルのウェルカムドリンクまである。安物かもしれないけれど、白ワインだ。手にして見ると、私好みの辛口だった。
「わあ……良いお部屋ですね」
リョウジさんは瞳を輝かせていた。今まで、どんな扱いを受けてきたのか。少し可哀想になった。
「景気づけに一杯飲みます?」
「マッサージ前にお酒はいけませんよ、宮阪さんも僕も。浴室からバスタオルを持ってきますので、横になっていてください」
真面目に断られた。しかも、風俗店員なのにマッサージをする気で満ちている。
でも、嫌な気はしない。靴を脱いでシングルベッドに横たわる。スカートにはせずに、ゆったりしたボトムスにしてきて良かったかもしれない。
リョウジさんは急ぎ足でバスルームから戻ってきた。手にはバスタオルが二枚。マッサージを受けるのは慣れているので、私はつい抵抗なくうつ伏せになった。リョウジさんがそっとバスタオルをかけてくれる。
「じゃあ、始めますね」
「よろしくお願いします」
リョウジさんの手がタオルと服を隔てて肩に触れる。力が籠められたと同時に、私は「ぅあー……」と変な声を出していた。それくらいリョウジさんのツボの押さえ方は絶妙だった。お婆さんとお母さんで鍛えた腕前は伊達ではないようだ。
リョウジさんの指や手のひらは、リズミカルになめらかに私の凝りをほぐしてゆく。これは大橋さんさえ凌駕する力量だ。
「痛くないですか?」
「はー……心地いいですー……」
「良かったです。それにしても凝ってますね」
「長い間デスクワークだったせいかも……」
それでも、今の職場になってから、週3で大橋さんのお世話になっていた。お別れからしばらく経つけれど、その間もジプシーのようにマッサージを求めてスタッフを変えたり胡散臭いマッサージ店にも行った。
リョウジさんは少し黙ってから、「失礼ですが、枕は何を使われていますか?」と訊ねてきた。どうやら頑固な凝りの原因について考えていたらしい。
「一人暮らしを始めた時に買った低反発枕を……買ってから十年になりますね」
マッサージにうっとりしながら答えると、リョウジさんは即座に「それはいけません」と断言した。
「枕は長時間頭と首を任せる物です。古かったり合わなかったりすると、首や肩に負担と緊張が起きて凝りの原因になります。そうなると、リラックス出来ない背中も凝ります。全身の不調として出る場合もあるんです」
「え、そうなんですか?」
リョウジさんはそう話して、饒舌になってアドバイスをくれた。
「今の時代、通販でも八千円も出せば送料込みで良い枕が買えます。僕が使っている枕も通販ですが、今の二足のわらじ生活でも凝りは無縁です。後でショップ名と商品名をお教えしますので、メモしてください。そのショップで買い物するのが初めてなら、千円値引きされるので実質送料無料でお買い得です。結果としてマッサージを受けるより安く健康的な眠りと目覚めを得られます」
マッサージから枕のアピールに変わった。怪しい健康志向の商品ではないかとも疑いそうになったものの、リョウジさんは至って真剣だ。
「祖母も母も、枕は使い古した薄っぺらい物を使っていて常に肩凝りとかに苦しんでいました。僕はそれを見て育って、高校生の途中までは将来あん摩さんになって二人に楽してもらいたいと考えていたんです。進路を決める時期に話して、猛反対を受けて進学しましたが……」
リョウジさんの声音は切なそうだ。聞いていると、何だか疑えなくなる。ついでに、風俗店員には絶対向いていないとも確信出来る。本来ならば中間管理職も重荷なのではないかとも思う。
「……だから、今日は宮阪さんにマッサージを頼まれて嬉しかったんです。こんなの、セラピスト失格ですよね」
「……いえ、ある意味リョウジさんは真性のセラピストですよ」
「そうでしょうか」
「私の凝りをほぐしてくれてるじゃないですか。私はほぐされて癒しの時間を過ごしてますよ」
「……ありがとうございます」
リョウジさんの声がわずかに震えて涙声になってしまった。それでもマッサージはしっかりしてくれている。
本当にリョウジさんのマッサージは魔法のように夢見心地にしてくれる。最短の一時間だけにしたのが申し訳ないくらいだ。仕上げにリョウジさんが軽くぽんぽんと手を弾ませると、時間の終わりを告げるアラームが鳴った。
「ちょうど終わりです。宮阪さん、明日のお仕事は?」
「あ……遅番で入ってます」
「これだけ力を入れて揉みほぐしたので、翌日はゆっくりリラックス出来るように休みだと良かったのですが……ご無理はなさらず。──あ、メモを」
「はい、ありがとうございました」
リョウジさんから教わったショップ名と商品名は、何度かメディアで見かけたものの手を出す程には効果が分からなかった物だった。お値段は七千円もしない。騙されたと思って買ってみてもいいかと、今は思えるようになっていた。
「この枕なら、日常生活でマッサージを必要とする程の凝りを感じない程度には楽になれますので。……あと、言いにくいのですが、夜に寝る時はブラジャーどうされていますか?」
「あ、……普通のを着けて……」
「絶対駄目です。夜用のナイトブラを着けて下さい。部屋着の時にも着けられますし、フリマアプリでなら、一枚千円前後で買えますので。サイズについては分かりかねますので、商品説明を読んで選んで下さい。これでしたら、スポーツタイプと同じ肩紐でストレッチも効いていますし、肩周りに負担をかけませんから……」
「詳しいですね……」
「あ、あの、妹がフリマアプリで買っていますので……ナイトブラに変えれば、更に効果が上がります」
「それは助かりますね……あ、ちょっと待ってください」
「どうしましたか?」
「検索したい事が……スマホ……」
起き上がった私はバッグからスマホを取り出して、「マッサージ、資格」で検索してみた。上から三番目くらいに欲しかった情報を見つけてタップし、リョウジさんに見せる。
「リョウジさん、あん摩マッサージ指圧師についての最新の情報です」
「え、これを僕の為に?」
「夜間部があるらしいので、働きながら取得出来るそうです。三年で取れて、費用は四百万くらいになるらしいですが……よろしければ、私が行きつけにしていたマッサージ店にリョウジさんを紹介します。十年に一人の逸材だって」
「お金は、趣味と言えば貯金くらいでしたので大丈夫ですが……」
趣味が貯金くらいしかないとは、これでは尚さら話術や体術が求められるであろう風俗店員には向いていない。
「性感マッサージのお店は辞めて、お金に問題がないならマッサージ店で働いて実地で腕を磨いたり勉強しながら資格を取りましょう。私も救われた身として応援しますから。スマホありますか?──お互いの私的なアドレスを交換しておきましょう」
「そんな……僕なんかの為に……」
「あー、泣かないでください。リョウジさんの腕前は、腐らせるにはもったいないんですよ。お婆さんとお母さんの分もたくさんの人を助けられます」
「母は存命ですが……」
「なら、尚のことです。ここまで親御さんの期待に応えて進学して就職して働いたでしょう。後は自分の人生ですよ」
「僕、もう三十五歳なんです。遅くないですか?」
やはり年齢はプロフィールに偽りありだった。それにしても一回りもサバを読むとは、やり過ぎだ。まあ、私個人的には良い思いが出来たので怒らないけれど。
「まだ三十五歳です。人生何年だと思っているんですか」
「あ、……はいっ……」
そうして私達はアドレスを交換して、リョウジさんは性感マッサージのお店を辞めた。元々売れっ子でもないので、引き止める人もいなかった事を少し寂しそうに知らせてくれた。
私はさっそくリョウジさんを行きつけだったマッサージ店に紹介した。百年に一人の逸材と言いたいところだが、あいにく百年前にはまだ私は生まれていないから言葉に責任が持てない。マッサージ店の人達は皆が私を大橋さんのヘビーユーザーだったと覚えてくれていた。
モールの客層は女性が多いだけに最初は渋られたが、マッサージにうるさい私が勧めている事と、試しに施術を受けてみたオーナーの体感で試しに雇おうと決めてもらえた。オーナーは肩凝りと腰痛持ちだったのだ。リョウジさんはそれを楽にしてのけた。
そうしてリョウジさんはマッサージ店で見習いとして働きながら専門学校で学び始めた。
私はと言えば、勧められた枕の力が偉大だった。リョウジさんの話した理論は正しかった。負担をかければ凝るけれど、眠っただけで痛くて仕方なくなるような凝りは無縁になった。枕には寿命がある事も分かった。
リョウジさんとは個人的に親しくなり、何かとやり取りをして、リョウジさんは新しいマッサージについて学ぶと、私に真っ先に施術してみてくれた。お蔭で距離は縮まり、七歳差だけれど──結婚を前提に交際するに至った。もっとも、リョウジさんからすれば私は救世主であり、必ず「姐さん」と呼ぶようになってしまったけれど。私のどこが、どこの組の姐御だ。
ともあれ、私は凝りから解放された。リョウジさんは縛られた生き方から解放された。勤勉なリョウジさんは無事にあん摩マッサージ指圧師の資格を取得して一人前に働けるようになり、いつかは自分のマッサージ店を持つという夢を抱いている。
私にはリョウジさんがいる。──なぜリョウジさんのままかと言うと、なんとリョウジさんは本名で良二さんなのだ。よく会社に身バレしなかったものだと、さすがに呆れたけれど、円満退社出来たのだから結果として良しだ──まあ、リョウジさんがいてくれるなら、私が心身に凝りを感じて苦しむ事はない。
「姐さん、マッサージ店でマイスターになれました!」
「リョウジさん、おめでとう!──お祝いしなくちゃ、料理にケーキに……」
「ケーキなら、姐さんが焼いてくれるホットケーキにメープルシロップかけて食べたいです」
既にアラフォーの域に達しているリョウジさんには、普段甘いものは控えさせている。けれど、こんな可愛いおねだりに否やはない。
「分かった、お腹いっぱい食べよう」
「やった!」
──思えば、あの時。誤タップがなければ出逢えなかった私達。
放り投げたスマホは、運命を変えてくれた。
人生色々あるだろう。人の数だけ。その中で私達は出逢い、寄り添い、今を生きて、未来へと向かう。
もう凝りは感じないけれど、それもまたリョウジさんのお蔭だ。だから、私はこう囁く。
「私はリョウジさんがいれば無敵だよ。一生一緒に歩こうね」
こんな事を言ったら、リョウジさんは涙ぐんでしまうけれど。それでも告げたい本心は隠さずに告げるのだ。
心を凝り固まらせないように。常にやわらかい心で共にいられるように。
【完】
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