第8話

【レッツペチング!・ノンフィクション・後編】


* * *


「沙織、二人でちょっと散歩に行かないか? 二人で話したい」


夕食が済んで、後片付けの手伝いをして、一見和やかにみえる団欒のなか、彼氏が誘ってきた。


「うん、分かった」


彼氏は父に話しかけられると普通に応じているようになっていたので完全に安心しきっていた。私は考えが甘かった。二人で家を出ると、また彼氏が沈黙に戻る。嫌な胸騒ぎを感じながら、目的地もなく因縁の川原に辿り着いた。


「……あのさ、俺、沙織と今まで通りやっていける自信ないよ」


青天の霹靂だった。沈黙の間、別れることを思案していたのかと目の前が真っ暗になった。


「えっ……? だってさっきまでは何も言わなかったじゃん……」


「さっきはお前の家族がいたし、その場で言うべきじゃないと思ったんだ。こういうことは二人で話したかったしな」


「やっぱり、あんな趣味もってた……から?」


「いや、あれはまぁ、さっきの家族会議の間ずっと考えてたんだけど、お前のお義父さんが言うように、薬とかっていうもんじゃないし、まだよかったと思ったんだ」


父よ、ナイスフォロー。彼氏が柔軟に考えられるよう導いてくれたのか。


でも、そう言う彼氏の表情は曇っていた。


「でも、納得しようとしたんだけど、できないんだ……何だよ、こんにゃくで尻を叩くとか……分かんねーよ、お前が考えてることが分かんねーんだよ……何より納得できないのが、お互い秘密はなしにしようって約束を破られたことだよ。お前の口から聞けたらまだ納得できたけど、知ったのがお義母さんからだぜ? それでお前のこと分かれって言うほうが無理だよ……」


そうか、彼は隠し事をしていたのが引っ掛かっていたんだ。私の心は罪悪感に痛んだ。


「ごめん、ごめんね……もう秘密はないから! 言うの恥ずかしかったの……それにこれを言うと振られると思って……」


「それをずっと知らずに過ごしてきて、親とはいえ、いきなり本人じゃない人から言われた俺の気持ち分かるか? ショックだったんだよ」


「それは……本当にごめんなさい……」


「俺、はじめからお前がそんな趣味もってたら付き合ってなかったかもしれないぞ」


何ということだ! 彼氏は今まで積み重ねてきた恋人としての日々とペチングに勤しむ変な女子大生のレッテルとを秤にかけているのか。私は泣きながら、なりふり構わず必死に言い募った。


「そんな……正樹……! お願い、そんなこと言わないで! 確かに私はもうどうしようもなく止められないくらいコンニャクが好きだけど、世界で一番正樹のことが大好きなのは私だって自信を持って宣言できるよ!」


「……どうしようもなく止められないくらい好きなのか……」


しまった、彼氏があからさまに肩を落としている。しかし残された道は一つ、ひたすら押して説得するのみ。


「あの、それは、こんな本音が出ちゃうくらい正樹のことを信頼してるの! 心を開いてるの! ありのままの私が正樹を好きだって叫んでるの! だからお願い、別れるなんて言わないで! 私には正樹しかいないのっ……!」


言葉を振り絞りながら抱きつく。彼氏にしがみついていないと、足元から崩れ落ちそうだった。彼氏は、はあっ……と息をついた。


「……うん……まぁ、俺もお前のこと好きだし、その言葉が聞けたからよかったと思うことにするよ。でも、もう隠し事はやめてくれよ? あと、できればこんにゃくで尻叩くのやめてくれ」


彼氏が優しく抱き返してくれた。よかった。本当によかった。大好きな彼氏の温度に包まれて気が緩む。私はつい、「それはちょっと……」と気を緩めすぎて言ってしまった。慌てて彼氏を見上げると、何とも切なそうな瞳とぶつかった。


「あっ、あのね、でももう隠し事なんてしないよ! 正樹にだけは全てを晒してる! 正樹との絆を裏切るようなことはしないよ!」


「……もういい、分かった……俺も男だからさ、一度許したものを覆したりしない」


その一言を聞いて、家族会議の間より続いてきた針山地獄から、私はようやく極楽浄土へと昇天した。


これで、全ては良くなってゆく。


もう恥はかききった。後ろめたい気持ちを抱えずにペチングができる。新しいコンニャクの入手については問題だけど、何とか考えよう。家族には、私の部屋に来るときはノックしてもらえられれば安全安心だ。


私と彼氏は手を繋いで家に帰った。少し汗ばんだ彼の手は、温かいコンニャクを思わせた。それが、時おり不意に力をこめて私の手を握ってくる。私はその度に、しっかりと握り返した。大事なものを確かめあう動作だと感じられた。


そして、ペチングを受け入れてくれた彼氏に心から感謝した。もう、このまま結婚したいくらいだ。コンニャクでお尻をはたくのを許してくれる男性なんて、そういないだろう。




* * *




* * *


「沙織、他に買う物は? コンニャクはなくていいのか?」


彼氏が買い物かごを持って中を見ながら訊いてくる。私は、どきりと胸が跳ねるのを押さえながら「水炊きにコンニャクは必要ないよ」と笑った。彼氏にときめいたのかコンニャクにときめいたのか分からなかった。


「水炊きにって意味じゃなかったんだけどな、まあいいか」


いやだ、私の馬鹿。せっかく彼が申し出てくれたというのにチャンスを無駄にしてしまったではないか。


「でも、お前の誕生日なんだからコンニャク買ってやろうか?」


「それは……新しいコンニャクがあれば嬉しいけど……」


今は限界まで一つのコンニャクを使い続けている。使った後はラップにくるんで名前を書いて、冷蔵庫に入れておくのだ。使い捨てをしていた頃のように、新鮮なコンニャクを消費することはできない。


「よし、決まりだな」


彼氏は笑いながらコンニャクのある陳列棚に向かう。秘密が露見してから、よくもここまで寛容になってくれたと感慨深い。ちなみに彼氏とのセックスのときに彼氏によってペチングしてもらったことはない。なぜか恥ずかしいからだ。ペチングは一人で黙々と粛々と行なう行為であると考えている。


それはともかく、今日は私の誕生会を自宅ですることになっている。彼氏の他に友人も三人招いてホームパーティーだ。大学の講義の後だから、簡単にできる水炊きをチョイスした。


「冷蔵庫にある古いやつ、バレないうちに捨てておけよ」


「うん……」


そう、ペチングを知っているのは家族と彼氏だけなのだ。いまだ友人には隠している。胸を張れる趣味ではないという自覚はあるから、言い出せない。


彼氏と買い出しを済ませて家に帰る。そうすると、すぐにお酒を携えた友人が来てしまった。コンニャクを捨てる余裕なし。でも、勝手に人の家の冷蔵庫を開けるような失礼はしないと分かっているので大丈夫だと自分に言い聞かせる。


水炊きの調理をしながら、そういえば家族は誕生日プレゼントに何をくれるのだろうと思った。弟は部活があるので、夕方過ぎに合流する。何かあらかじめ用意していたといった様子はなかった。私は無性に弟が気にかかった。


心の靄を胸に、友人達と彼氏と両親とでパーティーを始める。軽いお酒を呑んでいい気分になり、父は陽気に一気呑みしてご機嫌だった。


だが、ささやかな幸せの時間には罠があった。


誕生会は最高潮に向かい友人のうちの一人は既に酔い潰れて眠っていた。酔った友人からの話題はいきなりだった。


「そういえばさあ、匿名掲示板のまとめログで変なの見つけたんだよ。うちの県にコンニャクでケツ叩いて喜んでる奴がいるって」


「え……」


心臓が止まるかと思った。動揺に任せて立てたスレッドがログに残されていたのか。


「沙織知ってる?」


「ええ……知らないよ、そんなすごい人なんて」


辛うじて、変な人と言わずにすごい人と言うことでコンニャクに敬意が払えたのがよかった。起きている友人二人ともログを読んだらしい。ありえないと笑っている。弟が帰ってきたのは、いたたまれなさに耐えきれなくなった時だった。


「ただいまー。姉貴、誕生日プレゼントにコンニャク買ってきてやったぞ!」


なんと意気揚々と爆弾発言をしてくれやがったことか。彼氏は固まり、父は笑いだし、友人達は顔を見合わせて「え? コンニャクって……」と呟いた。どうやら、友人達の頭のなかで全ての辻褄が合ってしまったらしい。私からすれば、この世の終わりの再来だ。


「ほら、姉貴。ずっと古いコンニャク使い回してただろ?」


弟がコンニャクを投げて寄越す。キャッチして、私はキッチンに走り込み冷蔵庫にある彼氏からもらった新しいコンニャクも掴んでいた。二つのコンニャクを胸に、深呼吸をする。もう駄目だ。いや、諦めたらいけない。家族と彼氏には理解してもらえたのだから。


私は血の気が引いて胸がざわめくのを堪えながら、居間に戻った。友人達は私を見て、目を見開いた。まさか、信じられないという感情が瞳から伝わってくる。


「これ、もらって……今日のお礼」


「え……あ、うん……」


「……嘘でしょ? だってこれ……」


「頑張って腕とかはたいてみて。そうしたら分かるから……」


「……本当に沙織だったのか? あんなの作り話かと……」


友人は渡されたコンニャクを手にして困惑している。まだ大丈夫、軽蔑の色は浮かんでいない。私は自分を奮い立たせた。


「コンニャクは現実で真実の宝物だよ。今まで黙っててごめんね」


そう、コンニャクは至高の快感をもたらす宝物だ。私はコンニャクを認知してもらおうと、立ち上がることを決意した。まずは友人達だ。


「幸せになれるよ、誰でも……」


ペチングを止めずに何も失わないために、私は闘いを始めたのだ……。



【完】

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