第9話

【サバイバルアパート・前編】


* * *


金曜日の真昼に、ベッドに潜り込み震える。


寒さのせいじゃない。秋晴れの空は惜しみなく陽射しを与えてくれている。


──怖いのだ。


また金曜日になってしまった。夜になれば、アレが来る。逃げたいのに、この体はこのアパートに縛られている。出掛けても、夜までには帰宅するよう操作されている。


「あああああっ……!」


仮想現代・日本、二十一世紀。学校を卒業しても資格を取るなりして就職活動を行わない穀潰しに対して、政府は秘密裏に対策を講じた。セミナーにボランティア活動、職業体験。様々なことをニートと呼ばれる若者に勧め、それらに対する反応を見て、もっとも消極的な者達をグループにして、脳にチップを埋め込み、国営の集合住宅に送り込んだ。


前頭葉に埋められたチップは、行動の一部を支配して、更には国で居場所が把握できるようになっている。


そして、毎週金曜日の夜には──。


「嫌だ……もう嫌だっ……」


怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。夜が来てしまうのが怖くて仕方ない。発狂することができれば楽になれるのか?


そう思い、しかし発狂した住人がダークカラーのスーツを着た屈強な男性数人によってアパートから連れ去られる姿を思い出して、それは違うだろうと思い直す。


もう、逃げる術はないのだ。こうなってしまった以上。


けれど、本能はなまじ自由なままであるだけ厄介だった。恐怖は膨れ上がり、痛みを知った体が勝手に悲鳴をあげて止まらない。


「……駄目だ……」


せめて。夜までにはまだ時間がある。景色のいい公園にでも行って、一般社会を味わって。そこにはもう、つかの間しか戻れないけれど、それが絶望を味わわせるけれど──溶け込むふりだけでもいい、当たり前にそこで息をして、そこにいる人間と挨拶を交わしたい。


思い立ち、ベッドから抜け出す。ベッドの隅に放ってあったデニムパンツを穿いて、昨日着たシャツを拾って匂いを嗅いで、洗剤の匂いが残っていることを確かめ、また袖を通す。


そして、キーホルダーと小銭入れにシガレットケースをデニムパンツのポケットに押し込んで玄関のドアを開けた。


「──っ!」


「──あ、お隣さんですか? 初めまして!」


部屋から出ると、左隣のドアの前に見たことのない女性が立っていた。快活に挨拶をされて怯む。こういうタイプが夜には豹変するのだと弱者の目から卑屈さを滲ませながら思う。


だけど相手はこちらの警戒心には気づかない。屈託なく笑顔を振りまく。


「私、今日からこのアパートに住むことになったんです。よろしくお願いしますね」


「……はあ……」


「いい所ですよね。国営の職業訓練所のアパートだって聞いてたので、もっと狭くて古い感じかなって思ってたんですけど、部屋も2つもあるし」


「……」


もういい、もう話すのをやめてくれ。


「……あ、じゃあ俺は公園まで出掛けるので……」


話を打ち切るつもりで言う。この地獄のアパートの話なんてしたくない。


けれど、彼女には伝わらなかった。


「あ、はい!……あの、よろしければご一緒してもいいですか?」


「え……」


「私、県外から来たばかりで、この辺りのこと何も分からなくて。公園、行ってみたくて……厚かましくてすみません。できればお願いできませんか?」


冗談じゃない。このアパートの住人と一緒に出掛ける? せっかく気持ちを落ち着かせる為に外に出ることにしたのに、このアパートの現実がついてくるようなものだ。


すぐさま断ろうとして、口を開く。


「イイデスヨ」


でも、口をついて出たのはチップに支配された脳の、心にもない言葉だった。


そうだ、もう心のままには言葉一つ出せないんだ。


顔には出せず打ちひしがれる俺に対して、彼女はぱっと顔を輝かせて笑顔になった。


「ありがとうございます! よろしければ、このアパートのことも教えて欲しいです。金曜日に訓練があるとしか聞いてなくて……」


「……ジャア、歩キナガラ話シマショウカ」


「はい! よかった、お隣さんが優しい人で」


ああ。もう息抜きどころじゃない。このアパートのことを、つかの間忘れたかったのに、よりにもよってアパートの住人とアパートについて話さなければならない? 何の拷問だろう。


先に歩く素振りで階段へと歩き出し、彼女には背を向けて、気づかれないように絶望的な溜め息をついた。


「あ、エレベーターは使わないんですか?」


小走りでついて来ながら問いかけてくる彼女に、階段の手前で一瞬振り返る。


「……エレベーターは訓練で必要な時しか使えないから」


「え、そうなんですか? やだ、私部屋に行く時使っちゃった……内緒にしてれば平気かな」


どうやら、彼女は馬鹿で図々しくて鈍感らしい。チップを通して全て筒抜けになっていることさえ分かっていない。


「……大丈夫じゃないですか、まだ慣れてないんだし……」


嘘だ。失敗は全て国営の管理センターで把握されている。


にもかかわらず気休めを言ったのは、彼女に早く『退去』して欲しいからだった。彼女の馴れ馴れしさに嫌な予感しかしないのだ。


「よかったあ。あ、自転車を置こうと思って駐輪スペースに行ったんですけど、手押し車? みたいな先が二つに割れてるのが沢山置いてあって停められなかったんです。あれは何ですか?」


「手押し車?……ああ、ハンドリフトか。訓練に使うので……重いものを運ぶときに」


答えると、彼女の表情が強張った。


「え……どうしよう、使ったことないです……」


「まあ、始めは誰でも経験ないから……」


頼むから、こっちに説明を求めないでくれ。そう願いながら、気休めを口にする。


経験がないのは、このアパートでは言い訳にならない。指示された通りにやらなければ明日はないのだ。結果が悪ければ──アパートから出され、おぞましい未来が口を開いて食らいつく。


「……あの、お名前訊いてもいいですか?」


「……田沼です」


「田沼さん。私は有原っていいます。田沼さんは、このアパートに来て長いんですか?」


「……三か月くらいですけど」


やめろ。この三か月の苦悶を思い出させるようなことを訊くな。そう怒鳴りたいのに、脳は怒鳴ることを奪われている。暴力的な言動は全てチップによって抑制されているのだ。


有原と名乗った彼女は、隣に並んでこちらを見上げてきた。上目遣いというのだろうか。女性ならではの仕種だった。彼女の顔立ちは可愛い部類に入るから、こうされると普通なら悪い気はしないのだろうが、こんな特殊な環境下では鬱陶しいとしか思えなかった。


「田沼さん、ハンドリフトの使い方教えて頂けませんか?」


ほら見ろ。


「……あれは、コツがあるから……使いながら覚えないと……」


「じゃあ、今から駐輪スペースに行って……駄目ですか?」


「イイデスヨ」


こんなときに、チップが働いた。もう嫌だ。


彼女は、安堵の笑顔になってぺこりと頭を下げた。


「ありがとうございます! よろしくお願いします!」


そして、二人で駐輪スペースに向かう。


本音としては脱落して欲しい。脱落者がでれば、その分生き残れる。


だけど、チップはそれを許さないのだ。


結局、ハンドリフトの使い方を丁寧に説明した。


──そして、夕方になって近所のコンビニに夕食を買いに出ると、また彼女と行き合った。


「あ、田沼さん! 晩ご飯ですか?」


「はあ……」


この時間帯に弁当を手にしているのだから、他に何の用があるのかと思う。


結局、昼間は彼女に付き合って終わってしまった。夜の『作業』まで、あと一時間しかない。早く食べて、シャワーを浴びておかなければならない。


「田沼さん、お弁当だけじゃ体によくないですよ?」


彼女は買い物かごにやたらと食材を入れていた。野菜に魚に肉。牛乳とヨーグルト。一人暮らしで、しかもあのアパートの住人だというのに、よくそんな経済的な余裕があるものだと思う。


「ここのコンビニ、いいですね。スーパーみたいに品物が揃ってて」


「……でも、冷蔵庫に入りきらないんじゃ……」


アパートに備え付けられている冷蔵庫は単身者向けの小型のものだ。


だけど彼女は平気な顔をして「大丈夫です、一人分じゃないですし、私たくさん食べますし」と笑った。


「それに、ヨーグルトは少し残して牛乳をそそいで部屋に置いておくと、またヨーグルトになって食べられるんです」


「……あの、一人分じゃないって……」


「え? はい! 昼間のお礼に田沼さんにもと思って」


「……そういうのは、いいですから」


できれば、アパートの住人には深入りしたくない。『就職』を争う敵なのだ。


「いえ、一人分だと味気なくて。よろしければ」


彼女には、まだ敵という概念がないらしい。初日だからなのか。


それにしても暢気すぎるだろう。あと一時間で『作業』は始まってしまうのだ。


「あの、本当にいいですから。時間もないですし。早く食べて備えたいんです」


「あ……すみません。私、田沼さんが親切にしてくれたのが嬉しくて……つい」


彼女の表情がみるみるうちに萎んでゆく。こちらが悪いことをしたわけでもないのに、胸に重いものが詰まった。


「いえ……じゃあ、明日お願いします」


「……! はい! 美味しいもの作りますね!」


ぱっと笑顔が咲いたのを見て、腕時計の時間を確認する。あと53分。


「あ、俺はもう部屋に戻らないといけないので」


「もうそんな時間ですか? 引き留めちゃってすみません」


「いえ、……じゃあ」


「はい、今夜頑張りましょうね!」


「……そうですね」


適当に答えながらレジに行って会計を済ませた。

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