第7話

【レッツペチング!・ノンフィクション・前編】


* * *


取り立てて頭が良いわけでもない、誰もが振り返る美人なわけでもない、運動神経が優れているわけでもない、誰からも慕われるリーダーシップがあるわけでもない。


大学だけは猛勉強して国立に入ったけれど、理系ではない。サークル活動もしていない。友達は多くも少なくもない。


彼氏はいるし、彼のことは大好きだけど、浮気をされたとか浮気をしているとかドラマはない。


こうしてみると、自分は本当に平凡な人間だと思う。


でも、平凡な人間にも何かしらあると思うのだ。


「ただいまー」


我が家に帰り、まっすぐキッチンに向かう。


「おかえり、今日は早いじゃない」


リビングで母が洗濯物をアイロンがけしながら迎えてくれた。よかった、キッチンには誰もいない。


「もう、今日期限のレポート提出でクタクタだよー。寝るから部屋に来ないでね」


母に釘をさして、冷蔵庫を開ける。そこには後光を発しているコンニャクがある。いい具合に冷えている。素早く取り出してバッグに忍ばせる。胸の高鳴りを抑えきれず、小走りで自室へと向かった。


部屋に入ってドアを閉め、バッグを放り出して、すぐさま服を脱ぐ。早くしなければ、あのコンニャクがぬるくなってしまう。鮮度は大事だ。


「早く、早く、コンニャク、コンニャク」


ベッドに脱いだ服や下着を重ねて、全裸になったところでバッグからコンニャクを取り出す。まだ十分に冷たい。開封して手に取ると、ぷるんと滑らかに存在感を伝えてきて期待を高めた。


右手に持ち、足を踏ん張り、少し前屈みになる。そして勢いよく──。


「あんっ」


ペチン! とコンニャクでお尻をはたいた。冷たさ、肌に吸い付く感触、心地よい音、背徳感で高揚してくる。誰が来るかもしれない鍵のない部屋、そこで全裸になって食べ物でこんなことをしている。最高だ。


ゾクゾクしながらコンニャクをペチンペチンと続けてお尻にぶつけてゆく。ああ、レポートを書いている間、我慢してきた甲斐があった。


「あんっ、あんっ」


でも、こんな楽しみは誰にもばらせない。ドン引きされる自信はある。馬鹿げた趣味だという自覚もある。


だけど、コンニャクは気持ちいいのだ。特に新鮮なコンニャク。今日のはレポートを頑張ったご褒美にと、いつもより少し高いコンニャクが用意されていたから、溜まっていた分もあって快感極まりない。


コンニャクを愛している。



* * *


運命の出逢いは、大学に入学してすぐのことだった。


その日、私は母の夕食作りの手伝いをしていた。


「豚汁のコンニャク刻んでおいてー」


「はーい」


冷蔵庫からコンニャクを取り出して封を切る。手にすると、ひんやりしたコンニャクが不思議と手のひらに馴染んだ。


何だろう、この感覚。弾力がありながら柔らかく気持ちいい。男の人がオナニーに使うのが分かる気がした。コンニャクは優しく、けれどツンデレのように存在感を示している。もっとコンニャクのことを知りたくなる、ときめき。


「……何やってるの? コンニャク持ったまま固まって」


「あ、ううん、ちょっと手触りいいなと思っただけ」


ああ、このコンニャクを刻んでしまうのか。しかし豚汁には欠かせないから仕方ない。


コンニャクの手触りは衝撃的だった。私は翌日、帰り道にスーパーへ寄って、抗えない引力によってコンニャクを買うことになる。初恋のごとくドキドキした。この胸のざわめきは何だ。


部屋で一人になり、コンニャクを両手に包んでみる。それから、服の袖をまくって腕にあててみた。ペンペンと弾ませる。気持ちいい。コンニャクが躍動している。


次に、勇気を出してスカートを脱いで太ももにあててみた。敏感な肌に、セックスの時の舌のようにセクシーな感覚をもたらす。気がつくと、ペチンペチンと勢いよくぶつけていた。我を忘れさせるとは、コンニャクの威力恐るべし。


私は思いきって服を脱ぎ、全身にコンニャクをあてていった。やっぱり気持ちいい。そして、ついに人生の価値観を変える瞬間がくる。


私はノーマークだったお尻にコンニャクをぶつけた。


「あんっ」


体に電流が走る。未知の快楽の扉が開いた。お尻を叩かれるのとは全然違う。コンニャクは痛みなど与えない。肌に吸い付き、寸でのところで余韻を残しながら離れてしまう。


何というエクスタシー。最高の快楽。私は夢中になってコンニャクでお尻をはたき続けた。時にしておよそ三十分。コンニャクはすっかり私の体温と同化していた。


私は温かくなったコンニャクをティッシュでくるんでゴミ箱にそっと寝かせ、しばらく全裸のまま呆然としていた。快感を思い返し、味わっていた。


もう、後戻りはできないと分かっていた。


コンニャクは私に、セックスともオナニーとも全く違う喜びを教えてくれたのだ。素晴らしい出逢いだった。


* * *


コンニャクと邂逅した後の日々は薔薇色だった。


生意気な年頃の弟と喧嘩したり、レポートの評価に落ち込んだりしても、コンニャクでお尻を叩けば気持ちよさに全てが吹き飛んでしまう。


私は更なる快感を求めて、コンニャクを追求した。両手に持ってダブルで叩いたり、音楽に合わせてリズミカルに叩いたり、コンニャクの鮮度や冷たさにもこだわった。


結論として、コンニャクは安い物でも構わず、なるべく表面が滑らかなものがいいと分かった。ダブルである必要はない。直前まで冷蔵庫で冷やした方が、お尻は喜ぶ。


私は使用後のコンニャクの扱いも考えた。いくらティッシュで包んでも、ゴミ箱に捨てては家族に発見されやすくなる。何より、私に幸せを味わわせてくれたコンニャクに対して敬意がない。そこで、灯籠流しや流し雛のように感謝をこめて近所の川に流すことにした。


ルールも決めた。川に流したコンニャクが翌日もまだ残っていたら、その日は自粛する。二つもコンニャクが並んでいたら怪しいし、流されずにいるコンニャクは未練を残しているのかもしれないと思ったのだ。


私は、コンニャクにも喜んでもらえるように精一杯楽しむことに努めた。


ただ、問題はコンニャクの入手だ。毎日買うのは恥ずかしい。何かと一緒に買えば紛れさせることもできるけれど、お金がかかる。


私は勇気を出して、母に頼んだ。


「お母さん、私コンニャクにはまっちゃってね、いつも冷蔵庫にあると嬉しいんだけど。食べるときは自分で好きに料理するから」


母は洗い物をしながら、「それは構わないけど、ダイエットとか? アンタ痩せる必要ないでしょ」と怪しむ様子もなく真面目に聞いてくれた。


「違うよ、ダイエットじゃなくて、純粋にコンニャクが大好きになったの」


「まあ、コンニャクはお腹の掃除をしてくれるっていうしねえ……あ、洗った食器拭いて」


「うん。……お母さん、いいかな?」


「分かったわよ。一つ冷蔵庫に入れとけばいいんでしょ?」


「うん、一つで十分! お母さんありがとう!」


これでコンニャクの入手ルートを手に入れた。私は踊りだしたい気分で食器を拭いた。ただ、これ以上喋るのは慎んだ。コンニャクの話題は最小限にしたかった。母に料理してあげようかと言われたら困る。


それから母は買い物のついでにコンニャクを買ってきてくれるようになった。助かった。


* * *


私はこの行為を「ペチング」と命名して、更にアグレッシブに邁進した。きっと長い付き合いになると思い、家族に知られないよう、ペチングは週三回にとどめることにした。いくらコンニャクが魅力的で健康的な物といえど、毎日消費し続けるのは母が訝ると思ったからだ。


コンニャクとの熱愛のなかで、お尻の老廃物は綺麗に拭われ、おかげでお尻はつるつるになった。理由を知るよしもない彼氏は、生まれ変わったような手触りを単純に喜んでいた。


けれど、私が大学四年生になった頃、大事件が起きた。


「あんっ、あんっ」


その夜も私はペチングに熱中していた。最初は真顔ではたいていても、乗ってくると気持ちよさでうっとりと笑顔になってくる。私はクライマックスを迎えようとしていた。


「あんっ……」


「アンタ、畳んだ洗濯物取りに……やだっ! 何してんの!」


「あ、ひゃんっ?!」


おもむろにドアが開いて変な声が出た。母だった。


見られた……!


全裸で! お尻を! コンニャクで! 笑みを浮かべながらはたいているところを見られた!!!


「アンタ何なのよそれ! 早く服を着なさい!」


「あ……うん……」


右手には行き場を失ったコンニャクがある。私は頭が真っ白になりながら母に従おうとして、でも、とにかく証拠隠滅しようと光速で窓から外の田んぼに向けてコンニャクを投げ捨てた。


「何してんの! 服を着なさい! 明日は家族会議するからね! まったく、おかしいと思ってたのよ、コンニャク好きだって言っても料理してる姿見たことないし!」


私は絶望した。母の監視のもとパジャマを着て、母が怒りながら去っていった後に動揺のあまり匿名掲示板に「コンニャクでお尻をペチン、ペチンと叩いていたら家族に見られた」というスレッドを立てた。


そうしたら最初は変態扱いしかされていなかったのが、訊かれるまま自分のスペックや気持ちよさを書き込むうちに、「俺もやってみようかな」「これを広めれば先駆者として認められるぞ!」等と、だんだんと優しい反応に変わってきて心が和んでいった。


どうせ今夜は眠れない。私は祭り状態になったスレッドでペチングについてレクチャーして笑われたりしながら真面目にコンニャクの魅力を語った。


そうして現実逃避している間、母は恐るべき布陣を敷いていたのだ。私は翌日、戦慄することになる。


「皆集まったから居間に降りてきなさい」


翌日の夕方、無情な母の声に私は力なく「はい……」と従った。昨夜から今まで、トイレ以外は部屋を出ていない。いつもなら食事時には母が呼びに来てくれるのに、それもなかった。どのみち、合わせる顔はなかったけれども事態の深刻さをひしひしと感じて、ひたすら匿名掲示板のスレッドに想いを書き込んでいた。スレッドに投稿してくれる人達はほとんどが楽しんでくれていたからだ。


ふらふらと階段を降りて居間に入る。何と、そこには軽蔑しきった顔の弟と、心を読ませない表情の父と、すっかり固くなっている彼氏までいた。


「ちょ、何で正樹までいるの?」


慌てる私に、母は容赦なかった。


「お母さんが呼びました。大事な話だからね。早く席につきなさい」


「え、でも、あの……」


「座りなさい!」


「……はい……」


全員が顔を揃えて着座して、重苦しい雰囲気のなか、父がまず口を開いた。


「あー……まずお前、何であんなことしてたんだ?」


「えっと……気持ちよかったから……」


「気持ちいいって……どうやって」


「そこは、こう、強弱をつけて……その方がコンニャクも喜ぶ気がしたから……」


その瞬間、父と弟が吹き出した。すかさず母が睨む。二人は必死に笑いを噛み殺そうとしているけれど、笑いの発作は収まりそうになかった。私はといえば、空気が若干緩んで安堵した。


「それで、お前、使ったコンニャクはどうしてたんだ?」


「近所の川に流してた……」


「あれ、姉貴だったのかよ。たまに川にコンニャクあるから変だなって思ってたけど」


「ああ、それでお前たまに夜中に家を出てたのか。てっきり夜遊びかと思って心配してたんだぞ」


「ごめんなさい……でも私、ただコンニャクを流してただけだから……」


そこでまた父と弟が吹き出した。母は恐ろしい顔をしている。父が笑い混じりに救いの言葉を出してくれた。


「まあ、コンニャクで尻を叩くってのは理解できんがな、でも変な薬やってるとかアル中なんかとは違うからな。夜遊びもしてないって分かって父さんは安心したぞ」


「お父さん……」


ああ、この人の娘でよかった。何という包容力。偉大なる父の懐の深さに感動した。


しかし、母は反対らしかった。


「ちょっとお父さん、何許してるの! お母さんは許しません! 食べ物であんなことするなんて!」


「お母さんごめんなさい、八百万の神に誓って薬にもお酒にも溺れたりしないよ! でも私がコンニャク大好きな想いは本物なの!」


「は? アンタどんだけ馬鹿なこと言ってるのか分かってるの?」


「まあまあ、母さん。レモンやキュウリを顔に貼りつけてパックだっていうのと似たようなもんだろう」


「お父さん、そうなの! おかげで私お尻がつるつるになってね──」


「調子に乗るんじゃないわよ」


「……はい、すみません……」


母に般若の形相で絞められる。縮こまると、父は声に出して笑うようになり、弟は笑いすぎて腹筋が崩壊しているようだった。気になる彼氏は黙ったまま俯いている。


「まあ母さん、非行に走ったわけじゃなし、素直な気持ちを聞けてよかったじゃないか。とりあえず飯にしよう、な、正樹君も腹がすいたろう」


いきなり話を振られた彼氏は明らかに困った様子で「え、あ……はい……」と曖昧に応えた。母はひとしきり怒って落ち着いたのか、憮然としながらも席を立った。


「まったく、お父さんは甘いんだから……」


怒気を含んだ声で呟いてキッチンに向かう。気まずいけれど、私も手伝おうと席を立った。キッチンに行くと、母は弱火で煮ていたらしいおかずを小鉢に盛りつけている。


「これ、持っていって」


「……はい……」


筑前煮だった。コンニャクがいい具合に煮えて点在している。あの話の後で、これを出すとは母もパンチが効いたことをする。恐る恐る食卓に運ぶと、予想通り男衆は顔を強張らせた。


「……なあ母ちゃん、このコンニャク……」


「正真正銘、新品未開封を使ったに決まってるでしょ!」


言いにくそうに問いかけた弟に、母がびしりと言い返す。今度は父が笑いすぎて腹筋の崩壊に瀕していた。それにしても、彼氏は何故何も話そうとしないのだろう。一人で考え込んでいるように見えた。


皆で食卓を囲んで食べる。丸一日ぶりの食事は沁みるはずなのに味も分からない。母の料理は上手だから、美味しいのだろうけど状況が悪すぎる。


でも、ふと筑前煮のコンニャクを箸に取って先ほどまでのやり取りを思い出した。父は許してくれた。母は怒っていたけど「もう二度とやるな」とは言わなかった。


つまり、これはペチングを続けてもいいのか……!


俄然として気持ちは上向いた。口に運んだコンニャクを美味しいとしみじみ感じた。


あとは、彼氏が──。

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