第6話

【狂ったキッチン・後編】


* * *


「……同僚を呼べ?」


ある日、遅くに帰宅した夫を待ち受けて話を持ちかけた。


「そう、そこで私が料理を振る舞うから。……そうすれば、臭いが政弘さん以外の人にもするか分かるでしょう?」


「……でも……」


夫は気乗りしなさそうな様子だった。それもそうだろう、食事の席をもうけてしまえば、自分も臭いに耐えて着座していなければならない。今の夫には、どれだけの苦痛だろうと察する。だが、だからこそ引けない。


「お願い。はっきりさせたいの。もし他の人にも臭うなら、業者を呼んでもらって貯水槽を調べればいいでしょう?」


「それは、そうだけど……」


「──じゃあ、決まりね。次の金曜日、職場の方を呼んできて。人数は分かり次第LINEで知らせて」


両手を顔の前で合わせて、畳み掛けるように「お願い!」と言うと、夫は溜め息をついてから「……分かったよ」とようやく頷いた。


その後、人数は5人と決まった。いつも話に聞く親しい人の名前はなくて首を傾げたが、女子生徒が亡くなった事件はまだ収束していないのだ。その生徒に近しく関わっていたとすれば、うちに呑みに来る余裕などないだろうと解釈した。


それは甘い考えだった。金曜日の夜、夫が追加の酒を買いに出た後で、同僚の一人がこっそり耳打ちしてきた内容で思い知ることになる。


──それは、次の料理を出そうとキッチンにいた時のことだった。


お客として呼んだ教員のうちの一人がキッチンに来たのだ。


「すみません、水をもらえますか」


「あ、はい」


「それにしても、持田先生は幸せ者ですね、こんなに料理上手の奥さんがいて」


「……あの、その料理なんですけど……」


浄水器から水を注いで手渡しながら問いかけることにする。今のところ、5人が5人とも料理を褒めるばかりで、異常は感じられなかったが、お世辞もあるだろうと思っていた。


「何か……臭いはありませんでしたか?」


「におい? ええと、どれも美味しそうな匂いでしたけど」


「そうですか……」


嘘を言っているようには聞こえない。現に、追加の料理を作るほど、皆綺麗に平らげてくれている。


だとしたら、やはりあの悪臭は夫だけにしか分からないのか。なぜ、夫にだけ分かるのか。夫は何か異常があるのだろうか。


「あの……こんなこと、僕が言うのも何なんですけど」


「?……はい」


水を受け取った教員は、立ち去ろうとしなかった。水を一気に飲みほし、コップを所在なさげに持ちながら、何かを迷っている様子だった。


「あの……亡くなった生徒のことなんですけど」


「……夫から話は伺っております」


「そうですか……原因などは?」


「いえ、そこまでは……」


この人は何を言おうとしているのか。不安に胸がざわめいた。何か、水面に石を投じることを言おうとしているのは明らかに受け取れた。


教員は考え込んだ後、真っ直ぐに見つめてきて口を開いた。


「あの生徒からは……持田先生は毎日お弁当を受け取っていたそうです」


「……え……?」


弁当なら、毎日持たせていた。にもかかわらず? しかも女子生徒から?


表情が強張ったのを見てとった教員が慌てた。


「いえ、それ以上の関係はなかったそうです。ただ、持田先生も戸惑いがあったようで、向坂先生に相談されて……もう受け取らないことにされたみたいで」


向坂先生、というのは夫が一番親しくしている教員だ。こうなる以前はよく話に聞いていた。今日は来ていない。


──もしかして、向坂先生から話が漏れることを恐れて?


「……それで、その生徒さんは」


訊ねると教員は再び迷いを見せた。しかし腹をくくったのか、ひそめた声で答えた。


「翌日から不登校になったようです。その後、自殺を……」


「自殺……」


推測のうちの一つとしてあったが、夫は亡くなったとしか話していなかった。それを他人から聞かされることに、頭を殴られるような衝撃を受ける。


しかも、夫に拒まれた翌日から不登校になり、その後、自殺をした? 原因は夫のようなものではないか。立場上、生徒の過剰な行為を拒むのは教師として正しいことだと思ってはいても、自殺されたとなると、結果はあまりに重くのしかかってくる。夫はさらに自責の念に駆られているだろう。


だが、なぜ最初から拒まなかったのか。なぜ、毎日受け取ってもらえているなどという希望を持たせたのか。


「向坂先生とは懇意にしていて……二人で呑んだ時、酔い潰れた先生が話して。それで知ったんですけど……持田先生、本当に悩んでいるので、奥さんが事情を理解したううで支えて下さったらと」


「……そうですか……」


何て虫のいい話だろう。夫の裏切りを理解しながら支える? 何をどうやって支えろというのか。


はらわたが煮えくり返る思いだったが、ふと、夫が悪臭を言い出した日に、ニュースで女子生徒の死を知ったことを思い出した。


まさか、関係があるのか?


そう思いついて、慄然とした。夫は、あの日からおかしくなった。キッチンの水を受け入れられなくなった。風呂やトイレには入れているのに、だ。同じ貯水槽からの水だというのに。


「あの、これは僕が話したことは秘密にしておいて頂けますか? すみませんが……」


「……はい……」


心ここにあらずのまま頷くと、教員はようやく緊張を解いて「じゃあ、いきなりすみませんでした」と言い残して酒の席へ戻っていった。


その直後、玄関のドアが開いた。


「──ただいま、ビールと焼酎でいいかな」


一瞬だけ夫を見やる。痩せた。事件から一か月でだいぶ老け込み、髪には白いものが混じっている。


けれど、もう痛ましくは思えなかった。



※ ※ ※



「……業者に見てもらう?」


「そう、貯水槽を点検してもらうの。だっておかしいじゃない、政弘さんがここまで臭いに苦しんでるのに。絶対原因があると思うの」


医者ではなく業者にしたのは意趣返しだ。夫にしか分からない悪臭の原因が貯水槽にある可能性は、かなり低い。


「ね? もう管理組合の理事長さんには頼んであるから。政弘さんも立ち会ってね。今日は久し振りのお休みでしょう?」


「まいったな……」


夫は困惑した表情で頭をかいた。けれど引かない。原因は夫なのだ。


「ね、異常があれば取り除けるでしょう。政弘さん、このまま出来合いの食事を続けたら体壊しちゃうよ」


「う……ん」


「じゃあ決まりね。もう業者さんは呼んであるから」


急な展開に、夫がさらに困惑する。


そこで、インターホンが鳴った。業者を呼んでくれた、理事長だった。





「ええと、水道水から悪臭がする、と」


「はい。でも、キッチンの水からだけなんです。キッチンの水は口にするものですからそれで感じるのかと」


「普通、貯水槽に何かあれば全体に異常があるはずなんですが……」


「でも、キッチンの水は確かにおかしいんです。見て頂けませんか?」


「それは構いませんが……」


呼ばれた業者も及び腰だったが、少し強引に押しきる。夫は傍らから一歩離れた所で無言のまま立っていた。


業者が貯水槽を開けて中を覗き込む。


「あれ? 何か落ちてますね。……弁当箱?」


その時、夫の顔色が変わった。わななき、進み出て、震える声で業者に訊ねる。


「それは……青と白のストライプですか?」


「あー……はい、そのようですね」


直感で悟る。おそらく、亡くなった生徒が夫のために使っていたものだ。──けれどなぜそれが貯水槽に?


新たに浮上した謎に、不思議に思っていると、夫の全身が震えだした。


「政弘さ……」


「あ……うああああっ!」


大丈夫? と言おうとした時、夫が絶叫して貯水槽に向かって走りだした。業者を突き飛ばして梯子を昇り、身を乗り出す。


「──政弘さん!」


一瞬の出来事だった。夫は吸い込まれるように貯水槽へ飛びこんだ。水音がして、その場にいた全員が凍りつく。


夫は沈んだまま、浮かびた上がってこない。居合わせた理事長が叫んだ。


「き……救急車!」


理事長が手に持っていた携帯電話で通報する。業者は貯水槽の中を見て、「何で浮かんでこないんだ!」とうろたえて声を張り上げた。




10数分後、駆けつけた消防隊員によって夫の体は引き上げられた。貯水槽の水を一度落としてからの救出だったので時間がかかった。


夫はすでに心肺停止状態だった。


そして、弁当箱を抱きしめていた。口を大きく開き、苦悶に満ちた顔をしていた。


夫は搬入先の病院で死亡が確認された。その後の検死の結果、肺は水でいっぱいだった。


夫から引き剥がされた弁当箱は、プラスチックにもかかわらず異常に重かった。不審に思った検察官が重さを量ったところ、40キロ以上あった。まさかと思い量りなおしたところ、その時にはもう普通のプラスチックの重さになっていたそうだった。


自殺した女子生徒の想いの重さだったのかもしれない。


キッチンの水だけが夫にしか分からない悪臭を放っていたのも、夫のために弁当を作り続けた因縁かもしれない。


夫を地獄に引き込み、女子生徒は満足したのだろうか?


私は夫を喪い、マンションから実家へ移ることになった。全てが片付くまで数か月かかった。涙は出なかった。泣く余裕もなかったというのもあるが、夫の罪深さを思うと、泣くに泣けなかった。





「お母さん、喉渇いちゃった」


「今ちょうどお茶淹れるところだから待ちなさい」


「うん、ありがと」


両親は寡婦になった娘を気遣い、優しくしてくれた。あんな普通では考えられない事故で夫を亡くしたのも理由の一つかもしれない。


「はい。お待たせ」


「ありがとう」


ちゃぶ台に置かれた湯呑みを手にして、口元に運ぶ。


次の瞬間、駆け抜けた恐怖に湯呑みを落とした。


「あらやだ、火傷しなかった? 冷やさないと。気をつけなさい」


「あ……このお茶……」


言葉が喉に張りついて息が詰まる。手ががくがくと震えた。



お茶からは、嗅いだこともない悪臭がした。



【完】

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