第3話
【君と生きた日々・ノンフィクション】
* * *
「最近、秋野は寝てばかりじゃないか?」
フェレットの秋野は高齢だ。3歳から老後と言われるフェレット。私は愚かにも、老齢による衰えだと思っていた。
けれど、それにしても寝ている時間が多い。ケージから出しても遊ばずに、すぐに私の布団に潜り込んで寝てしまう。
それを訝しんだのは父だった。
フェレットは病気のデパートと言われるほど病院にかかりやすい。なのに、私は秋野が病んでいると──思いたくなかったのかもしれない。現実味を感じていなかったのかもしれない。
健康診断も兼ねて……そう思い、病院に連れて行った私は、血液検査の結果に血の気が引いた。
血糖値が、生きているのが不思議なほどに低かった。40を切っていた。
インスリノーマ──フェレットがかかりやすい病気の代表格だ。この時点でほぼ確信していた。
ステロイド剤を出してもらい、けれど信じたくなくて毎週病院へ連れて行き、様々な検査をしてもらった。
結果は全て、インスリノーマとしか言えないというものだった。
今はインスリノーマも手術で治療出来る時代だけれど、当時は違った。強制給餌と服薬しか手立てはなかった。
私は最後の告知を受けた夜、秋野を抱っこして秋野にひたすら謝った。もっと早くに病気を疑えばよかった。秋野はひとりきり病と闘い、苦しんでいたのに、私は呑気に高齢だから寝る時間が長くなったと思っていた。
そこからは、3時間おきにフードをふやかして、すり鉢で練って、ぬるま湯で溶いたものを秋野の目の前に置いて食べるのを見守ることになる。秋野は食いしん坊で食べることが大好きなフェレットだったのが幸いして、このご飯を毎回完食してくれた。
秋野はフェレットにしては大柄で3300グラムの体重がある。それをキープしながら、朝も真夜中も問わず、時間になったら仮眠から起きて、ご飯を食べさせた。
そして病院には薬の処方と検査のため、毎週連れて行った。毎回2万円はかかる。それでも構わなかった。そして毎回検査の結果に暗澹とした思いをした。血糖値は薬でも食事でも上がらなかった。
いつ万が一の事態になっても、おかしくありません。──その告知を聞き続ける。
私の秋野への看護は、贖罪だった。愚かな飼い主を許さなくていい、罰してほしい、その思いで3時間おきに起きて食事の用意をした。
秋野、生きて。今日を生きて、明日も生きていて。明日を迎えて。
高齢とはいえ、別れには早すぎる。
私はいくら眠れなくても構わない。仕事と看護で疲れても構わない。
せめて、もう少しだけ……償わせてほしい。
私は自分を痛めつけるように、働きながら看護を続けた。自分を許せなかった。
秋野──初めて出逢った時のことを、今でも鮮明に思い出せる。
私は最低の飼い主だ。
* * *
秋野は、通い慣れたペットショップで取り寄せてもらった2匹目のフェレットだった。今日入荷するか、明日は入荷するか、通っては確認して待ち焦がれた。
そして、出逢いは訪れる。仕事の帰りにショップに行くと、カウンターの上で小さなフェレットがオーナーに撫でられていた。片手の手のひらに収まるほどの小さなフェレットだった。
オーナーにとっても可愛いフェレットだったのだろう、私が来るのが早すぎると表情を明らかに曇らせた。けれど、それを申し訳なく思うよりも嬉しさがまさった。
秋野を小さな移動用のケージに入れてもらい、駅に向かってホームで電車を待つ。
すると、秋野が人間の赤ちゃんのように泣き出した。おぎゃあ、と本当に人間の赤ちゃんと変わらない。私はケージに手を差し入れてなだめたけれど、秋野は不安なのか、私の手が触れると泣き止むものの、少しでも離れると大きな声で泣いた。
それは、無事に帰宅しても変わらなかった。抱っこしていないと泣き出してしまう。着ているオーバーオールの胸ポケットに入れてみると、ぐすぐすと寝言をこぼして眠りについてくれる。けれど、寝たと思ってケージに戻すと、寂しがって大声で泣き始めるのだ。
しかも、先住フェレットとの相性は最悪だった。先住フェレットの合歓は、独占欲が強かった。そして私にしか懐かない。言い換えれば、彼女には私しかいないのだ。その私を奪おうとする秋野を許すわけがない。同じケージに入れてみると、本気で噛みちぎろうとした。私は慌てて引き離し、別々のケージで飼うしかないと決めざるを得なかった。
けれど、秋野は寂しがり屋だ。ひとりにされると、けたたましく泣き始めてしまう。私は可愛いという思いと、このまま泣くのがおさまらなかったら……どうすればいいのかという複雑な思いで秋野を育てた。うちにやって来た時の体重は360グラムだったのが、毎日30グラムずつ増える。泣き癖に悩まされ、時には秋野を叱りつけて自己嫌悪に陥りながらも、秋野の成長を見守るのが楽しみだった。
そして、お迎えして1ヶ月が経つ頃、秋野が変わらずに泣いていると、突然声が詰まった。泣きすぎて喉をやられたのだ。
それ以降、秋野は赤ちゃんのように泣かなくなった。そして抱っこで甘えるようになった。体重は増え続け、3キロを超えていた。食いしん坊で、隙あらば何でも食べようとした。個包装された飴でさえ、目を離すと包みから上手く出して舐めている。
秋野は新しい発見の宝箱だった。
合歓とは全く違うかたちで、私の愛情を求める。そして寂しがり屋だ。私は3匹目のフェレットをお迎えして秋野のケージに加えることにした。
アルビノの真っ白な女の子──清和をケージに入れると、秋野は瞬間、清和を威嚇した。合歓の二の舞かと心配になったものの、すぐに静かになり──見ると、ケージの隅っこで眠りについた清和に寄り添って秋野も眠っていた。不覚にも涙がこぼれた。あのときの感情は言葉では言い表せない。秋野が満たされている、その姿を見た喜びは。
* * *
秋野のインスリノーマの看護を本格的に始めても、仕事は休めなかった。働かなくては、秋野の病院代を出せない。仕事で留守にする時間は、在宅の家族に世話を頼んだ。ふやかして練ったご飯を用意しておいて、食べさせるときに、ぬるま湯で溶いてもらったが、秋野は私があげる時のように完食はしてくれなかった。同じもののはずなのに。
そして私が帰宅して、すぐにご飯を目の前に置いてあげると、美味しそうにたいらげた。
けれど病は進行する。
ふやかしたご飯に足すぬるま湯の量は、少しずつ増えていった。薄く伸ばしてあげないと食べられなくなっていった。ポタージュのようなご飯はスープのようになった。毎週の検査の結果ははかばかしくなかった。
看護を始めて1ヶ月が経ち、2ヶ月が経ち、──秋野は緩やかに確実に弱っていった。
私はブログを始めて、毎日何を何回食べさせたか記録した。同時に、インスリノーマについての情報を求めた。閲覧はカテゴリーのトップになったものの、情報は何も入って来なかった。
そして月日は流れた。3時間おきのご飯のおかげで、秋野の体重は減少することを防げていた。
せめて、誕生日を迎えるまで生きて。せめて、あと少しだけでも。疲れきった私は仮眠では持ちこたえられなくなってきていたけれど、秋野は生きてくれている。それだけを支えに看護を続けた。
可哀想なことをしたと思うのは、薬が苦かったことだ。甘い栄養剤に混ぜても、ごまかせない。秋野は毎日狂ったように抵抗して嫌がった。それを無理矢理おさえこんで口の中に塗りつけた。秋野が泣けたなら、小さな頃のように泣けたなら、大声で泣いていただろう。悲鳴をあげていただろう。
けれど、薬は飲ませるしかなかった。病状は改善されなくとも、悪化は少しでも防げている──かもしれなかったからだ。明らかに、秋野は弱り続けていたのに。スープのようになったご飯を舐めさせながら、私は病院が信じられなくなってきていた。それでも通院をやめられなかった。治してはくれないのに。
* * *
ある日、秋野にご飯を食べさせた後にホームセンターへ行った。そこでは2匹のフェレットが売られていた。いかにも気性が荒らそうなフェレットと、おっとりしたフェレットだった。
フェレットを見るのは好きだ。私は、おっとりしたフェレットに指先を近づけた。彼はくんくんと匂いを嗅いで、顔を寄せてきた。可愛かった。
しかし、そこで問題が起きた。もう片方のフェレットが、素早く──一瞬の出来事だった──私に駆け寄り、指先を食い破って、さっと離れていった。
指先は皮一枚でかろうじて繋がっていた。肉は血を吹き出している。でも、不用意なことをした私の責任だ。店員を呼ぶわけにはいかない。そもそも、そんな余裕があるなら応急処置が先だ。私は血の気が引いてゆくのを感じながらホームセンターの絆創膏を買って向かいのゲームセンターのトイレに向かった。傷口を押さえるハンカチは真っ赤に染まっていた。ハンカチを離すと、鮮血があふれてきた。
貧血を起こしてくらくらする。震える手で絆創膏を出して、きつく傷口に巻いた。3枚重ねて縛るように押さえ、そして限界になり、個室に入って鍵をかけてトイレの床に座り込み──気を失った。
それから目を覚ました時には、貧血はいくらか治まっていた。だが、頭痛がひどい。私は壁にもたれて座り込んでいたはずが、床に倒れていた。倒れた時に頭を打ったのだろう。
真っ先に思ったのは、早く帰って秋野にご飯をあげなければということだった。そろそろ3時間になるはずだった。
ふらつくのを抑えて帰宅して、秋野にご飯を食べさせる。間に合って安堵した。それから日曜日でも外来を受け付けてくれる病院を探して電話をかけた。駅2つ先の病院は、診てくれると言っていたのに指の怪我だけでと断られた。ならば、どこなら診てくれるのか訊ねると、駅5つ先の病院を紹介された。治るまで通院が必要になるのに遠い。それでも行くしかない。
──同時に、これで有給を使って半日休み、朝のご飯の後に病院へ行き、帰宅してまた秋野に私の手でご飯を食べさせてやれると思いついて喜んでいた。怪我は、応急処置が良くて指先の肉も離れずに済みそうだった。きつく押さえたおかげで、気絶している間に肉は繋がっていた。
私は怪我よりも、秋野の世話をできることで、噛みついてきたフェレットに感謝していた。
怪我でしばらく有給を取って通院すると会社に伝えると、なぜか私が利き手を骨折して重傷らしいという噂にはなっていたが。
今はただ、秋野とすごせることが最優先だった。
それほど、その頃には秋野の病が進行していた。
* * *
秋野の看護を始めて半年になった。私の体力は限界を迎えていた。起きなければ、起きて秋野にご飯を食べさせなければならないのに、体が言うことをきかない。
私は重く怠い体に鞭を打って秋野にご飯を食べさせた。起きられず、寝てしまったこともあった。常に朦朧としていた。
そんなとき、結婚して家を離れた姉が様子を見に来てくれた。姉は秋野を一番可愛いフェレットだと言っていた。秋野を膝に抱き、姉は──私に涙を一度たりとも見せたことのなかった姉が──涙をこぼした。秋野は安らかに抱っこされていた。こんなにも安らかな秋野は久しぶりに見た。私から離れていた安らかな姿だった。心が狭い私は、妬心を抑えていた。同時に、姉に感謝していた。秋野が安らかにしていたから。
その頃、秋野が下痢をするようになった。薄めたご飯の水分が多いからだろうか、私は通院の際に相談して下痢をおさえる薬を処方してもらった。インスリノーマを治すことは既に諦めていた。
秋野はケージではなく、私の布団の枕元にペットシーツと柔らかいクッションに毛布を使って寝るようになっていた。歩くことが困難だからだ。秋野は這いながらペットシーツに向かってトイレをしていた。
下痢をおさえる薬を処方してもらった翌朝、秋野の便はゼリーのように不自然にしっかりしていた。そして、私が秋野の頭を支えて、固定してあげることで、ご飯に向かえていた。全てたいらげて、いつものように薬を塗りつけた。秋野はいつになく抵抗をした。いつも嫌がるが、こんなにも激しく嫌がる秋野は見たことがなかった。嫌がらせていることに、私は暗澹とした思いを抱えながら会社に向かって家を出た。
──それが、最期のご飯と薬だった。
定時で帰宅すると、家族が「秋野が死んじゃう!」と叫んだ。私は無我夢中で秋野に駆け寄った。秋野はクッションに横たえられ、最期の息だった。意識は既になかった。聞くと、昼頃から苦しみだして悲鳴をあげながら部屋を這い回ったらしい。その悲鳴は、断末魔の叫びのようで、今でも目の当たりにした家族はそれを忘れられずにいる。
私は横たわる秋野に必死に呼びかけた。まだ温かい体をさすり、これが最期なのだと自覚した瞬間から──抑えてきた涙が堰を切ったように流れだした。もう止まらなかった。
せめて、あと少しだけ……秋野の意識が戻って、ちゃんとお別れが言えるまで。愛しているよと伝えて、うちに来てくれてありがとうと伝えて、不甲斐ない飼い主でごめんねと伝えて、頑張ってくれてありがとうと伝えて……それまでは、どうか。
その祈りは届かなかった。秋野は力尽きて息を引き取り、病から解放された。私は泣いて泣き続けた。半年分の涙だ。
涸れるわけがない。
* * *
翌日、秋野のお葬式をあげるために有給を取らせてもらった。
ペットのお葬式は初めてだ。電話帳で探して、個別葬をしてもらえる所を見つけて予約した。
火葬する時、秋野の大好きだった食べ物を添えて送り出した。
喪服を着て燃え尽きるのを待つ私の頭上で、青空に太陽が輝き、真っ白な光がそそがれた。見たことのない光だった。
ああ、秋野は天国に行けたのだとなぜか確信した。一度は止まった涙があふれて、空を見上げながら声も出さずに涙を流し続けた。
火葬が終わった秋野の骨は、薬の影響で一部が緑になっていた。私はそれを見つめて呟いた。
「これで、悪いところは全部燃えた」
今ごろ、秋野は天国で安らかにすごしている。もう苦しくない。
愛しているよ、秋野。
私が死ぬまで。
けれど、せめてあと少しだけ──私と生きて欲しかった。お別れをちゃんと言えるまで。
……いいえ、秋野は分かっていたのだろう。最期の苦しみを私に見せるのは残酷すぎると。朝ごはんを完食する姿を見せて、安心させて、そして旅だったのだろう。
私たちは、お互いを──すれ違いながら愛していた。今ならば、断言出来る。
秋野。
私が人生を終えたら、虹の橋でまた会いましょう。
そうしたら、もう二度と離れない。ひたすら抱っこして、いい子いい子して、愛情だけをそそぐと誓うから。
だから、待っていて。また逢う日まで。
* * *
その日の夜、夢を見た。
秋野がいる。骨になった秋野は、骨を無理やり継ぎ合わせて、ばらばらに付いた歯を見せながら笑っていた。
私は「秋野が帰ってきた!」と夢で叫んだ。
秋野は嬉しそうに私に抱っこされていた。
そして目を覚ました。
叶うならば、もう少しだけ。
それを秋野は叶えてくれたのだ。
夢から醒めた私は、そっと心の中で呟いた。
「ありがとう、大好きな秋野」
【完】
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