第2話

【コーヒーの香りと君・後編】


* * *


常連客の人達に散々ひやかされた日の夜、心が混乱して落ち着きなくテーブルを拭いたりしながら今夜はもう店を閉めようかとさえ思っていると、彼女がどこか晴れ晴れとした表情で訪れた。


「こんばんは、マスター」


「あ、こんばんは。いらっしゃいませ」


「……? マスター、どうしたの?」


「えっ……」


「難しい顔してる」


あからさまに顔に出ていたのかと動揺する。


「いや、昼間ちょっとお客さんにからかわれただけで……駄目だな、接客業なのに」


苦笑いで曖昧に答えると、彼女が笑って「マスターだって人間だもん、そういうこともあるよ」とフォローしてくれた。


今夜の彼女は、いつもより綺麗に見えた。袖の先がフリルになっている白いカットソーに、レース模様の黒いチュールスカートと可愛い花のついたパンプス。雑誌のモデルが飛び出してきたようだった。髪もゆるくカールされて輝いている。


「あ、……今日は随分おしゃれしてるね。出掛けた帰り?」


正直、真っ直ぐ見るのが照れくさい。昼間のことのせいで、どうしても意識してしまう。更には今夜の彼女が眩しくて追いうちをかけている。


「ううん、ただ、今日は記念日だから」


「記念日?」


わざと自分を浮き立たせるような笑顔で、彼女は提げていた紙バッグを掲げてみせた。


「これ、いつものコーヒーに入れたらおいしいかなって」


言いながら中身を取り出す。大きな賞を取ったこともある有名なウイスキーのボトルだった。しかも25年ものだから、結構な値段だったはすだ。


「贅沢なコーヒーになるね」


「でしょう? 今夜もよく晴れてるし、とびっきりの時間がすごせるかなって」


「いいね、じゃあコーヒー淹れてくるから待ってて。灰皿はもう置いてあるから」


「ありがとう、今日はあんまり煙草吸えてないから助かる。コーヒー楽しみにしてるね」


今にも鼻歌を歌いそうな雰囲気で彼女がテラス席に向かう。席に座ると、すぐにシガレットケースを取り出して煙草に火をつけた。背もたれに身を預けて長く煙を吐き出す。張り詰めていたものが弛緩したような仕草だと感じた。


そこで、仕事も忘れて彼女に見入っていたことに気づき、慌てて厨房に入る。雑念を振り払いたくて、ひたすら丁寧にコーヒーを淹れた。


でも、引っ掛かる。記念日──何の記念日なのだろう? 見当もつかなかった。


「──お待たせ」


コーヒーを持って行くと、彼女が新しい煙草に火をつけているところだった。灰皿には、既に三本の吸い殻がある。


「今日は煙草結構吸ってるね」


「うん、ようやく区切りがついたと思うとね」


どこか遠い目で笑い、煙を吸い込む。細く長く吐き出した煙は、夜風に紛れて消えていった。


「区切り? 記念日と関係あるとか?」


隣に座り、カップにコーヒーを注いでウイスキーを香りづけに垂らして手渡す。いたずらな夜風が彼女の甘くほんのりとした匂いを届けさせて心臓が跳ねた。


「うん、そうだね……ねえマスター、聞いてくれる? 楽しい話じゃないんだけど」


「? いいよ、気にしないで」


視線が合わさり、彼女の瞳が何かを訴えているように見えて頷く。僅かな緊張を孕んだようなそれは、初めて見る表情だった。


「……今日で、離婚して半年になったの。相手は大学の頃にサークルで知り合った先輩でね。いつも明るくて、一緒にいると楽しくて……すぐに付き合うようになってた」


コーヒーに蜂蜜を混ぜながら一息に話す。コーヒーの香りをかいで、そっと一口飲んで、灰皿に置いていたまま灰の進んだ煙草をもみ消した。


「……おいしい。それでね、私が妊娠して……もう卒業して就職してた彼が結婚しようって言ってくれて……幸せだったんだけど……籍を入れてすぐに、流産しちゃって」


「それは……悲しかったね」


「うん、悲しかった。毎日泣いて泣いて……彼は何とか励まそうとしてくれてたんだけど、私が悲しみすぎて受けつけなかったの。家のなかの空気はかなり重かったと思う。彼は子供ならまた作ろうって言ったけど、失なった命は返らないじゃない、また流産するかもしれないじゃないって言い返して泣いて……どうしようもなかった」


その頃を思い出したのだろう、彼女の声が微かに震えて表情が翳る。酒を呑むようにコーヒーを飲み、煙草に火をつけた。情けないけれど、気のきく言葉がなかなか浮かばなかった。ただ、彼女の話を聞いた。


「……そうしているうちに、彼は耐えられなくなったのかな、会社の同僚と浮気しちゃって……浮気が本気になっちゃって……別れたの。その日だった、初めてこのお店に来たのは」


ああ、と思った。だから最初に訪れたあの夜、彼女はあんなにも心細いような、疲れた顔をしていたのかと。


彼女は息をつく所作で煙を吐いて曖昧に笑った。


「それで、離婚して……今日で半年になったの。これで晴れて自由の身ってわけ」


女性は離婚しても半年は再婚できない縛りがある。彼女が言っているのは、そのことだろう。


「じゃあ、うちに初めて来たときは……」


「離婚した次の日かな。仕事帰りに電車に乗って、今まで何だったんだろうって考えてたら終点まで乗り過ごしちゃって……乗り換えて帰るにも、あの一人きりの部屋に帰るのが虚しくてね。駅を出てぼんやり歩いてたら、このお店の明かりが見えたの。……とにかく休みたかった」


「……辛かったんだね」


からになった彼女のカップにコーヒーを注ぐ。彼女はウイスキーのボトルを持ち、少し多めに垂らした。蜂蜜を加えて、そっと飲む。


「……でも、このお店を見つけられてよかった。毎日のコーヒーがおいしくて、ゆっくり休めて」


そう言って笑う顔は朗らかで、苦いものを乗り越えた安堵が見えた。どうしてか、それが心をときめかせた。胸が苦しいのに、弾んでいる。


「マスター、いつも私を見抜いて気遣ってくれたでしょ? 癒されるって、こういうことなのかなって」


気遣う。なぜ、自分は彼女の日々の様子を見てきたのだろう。なぜ、それが楽しかったのだろう。自問していると、彼女が前を向いて夜空を見上げた。


「ねえ、……月が美しい」


月が美しい──夏目漱石が“I love you”を和訳した言葉だ。初めて知ったときには、意味が分からなかったけれど、今なら分かる気がした。月は温かいように輝いている。それが彼女を美しく照らしている。


自分の感じ方は飛躍しすぎているのかもしれない。思い違いかもしれない。彼女がこちらに向き直る。瞳があやしく月のように輝いている。


胸の高鳴りは、もう抑えられなかった。


「そうだね、……“月が美しい”」


言霊に籠めた心は、通じたのだろうか?


二人の間にだけ働く引力が距離を縮める。彼女の顔が近くなり、間際に瞳を閉じるのが見えた。


重ねた唇は柔らかかった。


触れるだけの口づけを繰り返し、ついばむ。微かにコーヒーの香りがした。それを追い求めるように口づける。


テラス席は外だ。また犬の散歩をしている人にでも見られるかもしれない。でも、そんな心配は吹き飛んでいた。見られてもいい。今の彼女を手離したくない。


一瞬の口づけを何度もしてから名残惜しく唇を離すと、彼女はとろけるように笑った。


「……何か、今日は帰りたくないな。もっと一緒にいたいの」


彼女が声を低めて囁く。今にも抱きしめたい衝動に、心臓がどきどきと早鐘打った。


「僕も……帰したくない。もっと……触れていたい。嫌?」


押し出した声は緊張に掠れていた。


「嫌じゃない。嬉しい……ねえ、今さらだけど、名前教えて? 私は明日香」


「明日香……いい名前だね。僕は幸哉」


「ゆきや、さん……」


そこで、ふと彼女が僕の手を取って頬にあてた。なめらかな肌の感触は吸い付くようで、ウイスキーのせいか温かく心地よかった。その流れで見つめあい、また唇を重ねた。


口づけは、どこまでも求めあい深くなってゆく。狭間に触れる彼女の吐息は湿っていて、洩れる短い声が艶かしく情欲をかきたてた。


その夜、僕らは結ばれた。彼女の体は窓からの月明かりに美しく照らし出され、熱かった。


* * *


「幸哉さん、おはよう」


「おはよう、まだ寝ててもよかったのに」


「でも、コーヒー飲みたくて、つい」


朗らかに笑う明日香が二階から降りてきてカウンター席に座る。最近は砂糖も蜂蜜も入れないカフェラテを出している。


初めて結ばれてから四か月が経つ。あれから彼女は僕の家に引っ越してきて、それからすぐに煙草をやめた。本当においしそうに吸っていたから、吸いたくならないのと訊くと、溜め息の代わりだったから今はもう要らないと笑った。


そして、彼女のお腹には二人の間に授かった命が育っている。


「はい、どうぞ」


「ありがとう、いい香り」


毎日の同じやりとりだけど、毎回新鮮な喜びを交わす。彼女は幸せを隠さない。僕に見せる至福の表情はコーヒーの甘い香りと相まって二人の時間を特別にする。


「……おいしい。幸哉さんのコーヒーは幸せの香りがするんだよね。初めて飲んだ時から思ってた。幸哉さんの香り」


「ありがとう。……明日香の為だけに淹れてるからかな。開店時間中はあれだけど」


でも、店にも小さな変化があった。彼女が日常生活に加わってから、コーヒーの味にまろやかさが増したと褒められるようになったのだ。


自分の幸せが、他の人にプラスに作用して喜んでもらえる。幸せは増幅して広がる。喫茶店をやっていてよかったと思えて、もっと頑張れるようになる。


「明日香、これ今日のモーニングセット」


「わあ、おいしそう!」


ふんわりと、とろみの効いたスクランブルエッグにエシレを塗った薄切りのトーストに温野菜のサラダをワンプレートでまとめて彼女の前に置く。彼女は嬉しそうに手を合わせて「いただきます」と言った。まず、サラダを口にする。


「おいしいね。ドレッシングの味変えた?」


「よかった。そうなんだよ、これは明日香だけの配合。お腹の赤ちゃんも喜ぶように」


「ありがとう……幸哉さん、きっといいお父さんになるね」


そう言う彼女があまりにも幸せそうだったので、幸せが伝播して思わず涙がにじみそうになった。ごまかして「カフェラテのおかわりは?」と明るく問いかける。


「うん、飲みたい。ねえ、幸哉さんも一緒に飲もう。もう少ししたら忙しくなっちゃうでしょ?」


「そうだね、そうしようか」


彼女にはカフェラテ、自分にはアメリカンを淹れる。周囲がコーヒーの香りに満ちる。“幸せの香り”だ。


コーヒーの香りは昔から好きだったけれど、彼女と出逢ってからは、もっと特別なものになった。二人を結びつけた天使の一杯だ。


「……明日香、ええと……ずっと一緒にコーヒー飲もうな」


だから、愛していると言う代わりにそう語りかけた。


「……うん。ずっと一緒にね。たまには喧嘩することもあるかもしれないけど、そうしたら二人でコーヒー飲もう。すぐに仲直りできるよ」


「そんな時は思いっきり気持ちをこめて淹れるよ」


「ええ? 喧嘩するのも楽しみになっちゃうよ」


彼女にカフェラテのおかわりを出して、隣に座る。湯気が優しくたちのぼっている。


……なあ、明日香。


君がこの喫茶店に辿り着いて、僕が少しでも元気づけられるようにコーヒーを淹れて。


それは、今までの日々を幸せに結びつけるための運命だったんだと思うんだ。


例えば、もしこの世界からコーヒーがなくなっても人は生きていけるだろう。でも、コーヒーは人に安らぎをもたらす。少なくとも、コーヒーは僕たちの人生をより豊かに優しいものにしたんだ。僕に、誰かを思いやる気持ちと、そうすることで返ってくる喜びを教えてくれた。


コーヒーはささやかな幸せを生み出す愛の飲み物だと言ったら、君は笑うだろうか?


きっと、笑いながら頷いてくれると信じている。


アメリカンを口に含み、芳香を確かる。


今日も心を潤すコーヒーを淹れられることを確かめて、彼女と大切なひとときをすごした。


【完】

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