ボロアパートの壁
これは俺が、時代錯誤とすら言えるようなオンボロアパートに住んでいた頃の話だ。
その、辛うじて建物の
つまり俺のこの話というのも10年は昔のことになるわけで、当然記憶の曖昧なところもあるが、その点はご容赦いただきたいと思う。
当時俺が住んでいたのは、角部屋の204号室。
人通りはそこそこだが車はほとんど通らない、そんな道路に面した部屋は、日当たりも良く見た目の割に快適だった。
とは言え、やはりというか何というか、経年相応の劣化はそこかしこに見られた。
特に顕著なのが天井。雨水が大きな染みを作り、俺は台風の度にせっせとバケツや鍋を並べた。
しかし正直、月に2万ちょっとの家賃で住まわせてもらっている身としては、屋根と壁さえあれば御の字で、さほど大きな問題とも思わなかった。
不思議だったのは、天井がこんな状態なのに、隣の部屋からの音や声がほとんど聞こえなかったことだ。
静かな年寄りでも暮らしているのかと思ったら、とんでもない、遊びたい盛りの小学生を2人も抱えた貧困家庭が、毎日ドタバタやっては階下の住人に怒鳴り込まれているという。
こうなれば不可解だ。
確かに夕方になると多少声が大きくなる気はするが、文句を言いに行くほどのものではない。
ある時俺は、隣の部屋に面した壁を少し確かめてみることにした。
ーートントン
まずは軽く叩く。
それほど重い音ではない。材質はベニヤか石膏ボードだろう。
中にみっちり断熱材や緩衝材が詰まっている、ということもなさそうだ。
やはり不可解だと思いながら、次は少し強めに叩こうとすると。
ーーコン、コン
ノックが、返ってきた。
驚く俺に、壁はなおも追い討ちをかける。
ーーコンコンコン
聞き間違いではない、確かにこの壁の向こうから、何者かが意思を持って俺にノックを返してきている。
当時、今よりずっと豪胆で向こう見ずな
そして壁の向こうにより一層興味が湧いた。
俺はもう一度『トントン』と壁を叩くと、右の耳を壁に押し当ててみた。
ーーコン、コン、コン
確かに、薄い板一枚隔てた向こうから、叩く音がする。それと同時に、もう一つ気になった。
何か、声が聞こえるのだ。
独特なテンポで少しも間を置かずに続く壁からの音は、普通に考えればとても人間の出す声とは思えなかったが、それでも俺はそれが何かを言っていると確信していた。
というのも、不明瞭でボソボソとしたその声には、どこか訴えかけるような響きが含まれていたのだ。
恨めしいというのか、助けてというのか、はたまた他の何かを求めているのか、それはわからないが、壁の声には確かな主張があった。
「なんだ、どうした」
俺が話しかけると、声はぴたりと止む。
「よく聞こえない、もっと大きな声で喋れ」
途端、壁の向こうで息を呑むような気配がして、瞬間……『出て行け』
ーーどんどんどんどんどんどん……
『出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、出て行け……』
止めどない濁流となったノックと声とが、俺を襲った。
「うるせえ、出て行かせたいならお前がそっから出てこいよ」
あまりのやかましさに、壁から耳を離した俺は悪態をつく。
親切で話しかけてやったのに……そんな思いが俺を怒りに駆り立てた。
「おら、来てみろ!」
俺が叫んだ瞬間、音の濁流は幻のように掻き消えた。
その代わり、日頃感じることのなかった生活音が、俺の耳に飛び込んでくる。
「嘘だろ……」
まるで動物園かと思うような子供たちの叫び声と、それを怒鳴りつける両親の声。
俺は、壁の中の何者かを追い出したことを一瞬で後悔した。
あれから俺は、隣の一家が出す騒音に耐えきれずその激安ボロアパートを引き払った。
壁の声に言われた通り出て行くこととなったわけだが、その後良い部屋を見つけかれこれ10年近く住み続けているので、まあ結果良かったと言えるのではないだろうか。
「出て行け、出て行け、出て行け、出て行け……」
ああ、気にしないでくれ。たまに始まるんだ。「出て行け」
どうやらあの声、来いと言ったら「出て行け」本当に来てしまったみたいでさ。「出て行け」
え? 俺の家に? 違うよ、「出て行け」俺の中に。
今でもこの中から、俺の口を使って俺を「出て行け」追い出そうと必死になっているらしい。
もちろん俺は、出て行くつもりなんてない。
「出て行け、出て行け、出て行け」
本当に憎たらしい奴だ。
「出て行け、出て行け」
この
「出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、出て行け、出て行け…………」
掌編怪談集【あめの蒐集部屋】 あめふらし @tadaitsu
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