第122話 ナンナ
ナンナにとってはここでの生活が全てであった。
兄を誰よりも愛しているし、コボルトたちは姿形が違う私を見ても、誰も特別扱いせずに普通に接してくれる。ここにくる前の記憶はないがここでの生活は居心地が良いと感じていた。
そんなある日。このコボルトの居住地に人族がやってきたという話を耳にする。獣人と人族は別のものだと聞いてはいたが自分と同じ目鼻立ち、毛に覆われていない体を持つその人族に興味がわいた。
「お兄ちゃん。ここに人族が入ってきたらしいよ。何か知ってる?」
自分の兄は兵士である。しかも戦闘能力が高く重要な立ち位置にいる。人族など入って来たら情報は真っ先にいくはずである。
しかし、兄は何も知らないという。ナンナはさりげなく兄の尾を見る。平常を装う表情とは裏腹に尾は垂れ下がり後ろめたい事があるのは丸わかりであった。
(分かりやすい……)
兄は私と人族を会わせたくないようだ。
(自分で調べなくては)
手始めに隣に住むガーブに声をかける。ガーブの父も兵士をしている。幼馴染のガーブは私に隠し事はできない。情報はすぐに入ってくる。
「だ、誰にも言うなよ。《見た瞬間に魂を抜かれた》とか《近づくだけでゾンビになる》とか父さんの仲間が言ってるらしい。お前の兄さんの友達は洗脳されて解体マシーンになってしまったらしいぞ」
友達とはギブさんのことか。あの気難しいギブさんを洗脳? ナンナは背筋に冷たいものを感じる。情報は其処彼処に転がっていた。何と兄はその人族と共にゴブリンと戦ったというのだ。
バンッ
勢いよくドアを開けるナンナは部屋で休むガイブに詰め寄る。
「どうして人族のこと黙っていたの!」
「うーん」
なんとも居心地の悪そうな返事である。尻尾は垂れ下がりしばらくすれば腹を見せて降伏する勢いである。しかし、兄はうんうん唸るばかりでそれ以上話が進まない。
「もういい! 勝手に会いにいくから」
「ちょっと待て。これから大きな戦いが起こる予定だ。その戦いが終わったらあいつを紹介する」
「本当? ……約束だからね!」
「あ、ああ。分かった」
何とか約束を取り付け満足する。しかしその数日後。兄は大怪我をして戻ってくる。どうやらあの人族が関わっているらしい。兄に詰め寄りたいが負傷している兄にそのような事は言えない。しばらくするとコボルト族がゴブリンを倒したという話で持ちきりになった。兄も回復し、ついに人族の話を兄に話すタイミングが来たのだ。
「んー。見送りの時な」
「もう、お兄ちゃんなんか知らない!」
限界! 武人の顔とは異なる優柔不断な兄の顔に心の底からうんざりする。こうなったら兄の意向など知ったものか。あの悪魔に直接会うことにする。バンッ。勢いよく開けた扉の先を見た時、私の人生が一度終わる。
思考が止まり、血液が循環をするのをやめる、力が入らなくなりその場に腰を落とす。生きながら死を体験するとは考えたこともなかった。
「あっ。あっ」
声が出ない。悪魔などとは生ぬるい。形容し難いこの悍ましいものが私に向けて手を伸ばしてくる。
(臓物を抜かれる)
ここまで来てもまだ私の声は出てくれない。せめて目を閉じて現実から逃れたいと考えるが、体が生命の危機を感じ取り、それを許してくれない。
「ナンナ!」
後方から兄の声が聞こえる。心臓が鼓動を始め血液が循環する。こ、呼吸が……できる!
「キャァァァァァァ」
助けに入る兄。私はただ後ろで震えていることしか出来なかった。兄と悪魔が言葉を交わすその隙をつき自室へと戻る。
ウゥゥ。ウウ。
遅れて涙と嗚咽が出てくる。本当の恐怖は泣くことも言葉を出すこともできない。その言葉を身をもって知る事となる。兄、ガイブが何故悪魔に私を合わせなかったのか今分かった。私を守っていたのだ! 兄の気持ちを理解しなかった自分に向かっ腹が立つ。
キィィ。バタン
ドアの扉が閉まる音が聞こえる。兄が悪魔を追い返したのだろう。しかし、私は悪魔の獲物となってしまった。先程、臓物を掴もうとしたあの手。私が死ぬまであの悪魔は私をつけ狙うであろう。……どうするべきか? 逃げるか? 兄に縋るか? しかし兄は怪我をして間もない。むしろあの悪魔が怪我をさせた可能性さえ考えられる。
「戦う! あの悪魔を追い出すまで」
ナンナは決意を固めると短剣を腰に差し悪魔の後をつけた。
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