象
硝水
第1話
「この中に健康診断をパスできなかったやつがいる」
生徒でぎゅうぎゅうになった体育館で、風を切る縄の音が中断された。別の学年は知らないだろうがそれは俺で、クラスのやつらが一斉にこちらを見る。
「先生、どうにか学校から治療費を援助してもらうことはできないんですか」
「生徒ひとりひとりに金なんか出せるか。ましてや突然眠りこけるなんてバカバカしいビョーキに」
わかっていた。そんな話は何度も聞いた。学校も、家にもそんな金はない。そしてこの病気がある限り、俺自身だってまともに金を稼いでいける見込みはない。
「胸糞悪いので早退します」
誰も止めなかった。それだってわかっていた。
学校の真後ろの道路は、真ん中を路面電車が走っている。信号と信号の間の短い距離を、電車と競争するのが好きだった。起きてさえいればこんなに走れるのに。真上から降り注ぐ強い日差しの中、歩道から溢れた人間がうじゃうじゃと車道を埋めている。
「雪平!」
足を止めて振り返ると、膝に手をついた道間が肩で息をしていた。
「お前、ホント、走るの速いな」
「何しに来たんだよ」
「いや、言わなきゃと、思って」
大きく深呼吸した道間は上半身を起こして、まっすぐこちらを見据える。
「雪平はさ、偉いよ。学校もちゃんと来て、バイトもしてさ。部活だって入りたいんだろ」
「道間に言われたくねえよ」
陸上部のエース様にさ。こちとらバイト探すのだって大変だったんだ。授業にだってついてい
駅に横たわっていた。まだ陽は傾いていない。道間もいない。全身の砂埃を払って、歩道の隅に移動する。下校中の小学生と並走する。
「おにぃちゃん!」
「あ?」
「おにぃちゃんも象さんに会いにいくの?」
「いや……」
象さん、か。そういえばしばらく会いに行っていない。そうだ。象に、会いに行かなきゃ。
「ああ、そうだよ。お前も?」
「うん、でも今日はラジオを聴かなきゃ」
小学生は眉根を寄せて、ランドセルの肩紐を握り直した。
「ラジオくらい、おうちの人に録音してもらいな」
「んー」
小学生は一層表情を曇らせる。失言だったな。いないんだ、ラジオの録音を頼めるおうちの人が。
「また今度一緒に行こう」
「うん」
「そうだ、これやる」
ポケットに入れっぱなしだった筆箱を、小学生に手渡す。
「ぼく筆箱持ってるよ」
「これは象が踏んでも壊れないんだ。そんなのも持ってるか?」
「ううん」
「じゃあやる」
「ありがとう、おにぃちゃん」
「おう。そんなら、ここでな」
「またねー」
「またな」
Y字路で小学生と別れ、軽くストレッチをする。ここからは登り坂だ。どうして象、いや、ニナのことずっと忘れてたんだろう。忙しかった。そうだ、心も体も余裕がなかった。一歩踏み出す度に後方へ蹴り転がされていく砂利。緑に囲まれた、赤い屋根の一軒家。複雑なパズル仕掛けのドア。でも、開け方は忘れていなかった。
「ニナ」
返事はない。ひとつひとつ部屋を覗く。一番奥の和室に、ニナは寝そべっていた。その背をそっと撫でる。
「ニナ、かけっこしよう」
ニナはキィキィと鳴いて、ゆっくり立ち上がった。まだ子供で、ちいさい。走り始めながら、襖を大きく開け放つ。ニナはすぐに後を追ってくる。扉を開け、部屋に入り、ニナのお腹の下を潜って部屋を出る。ニナは狭い部屋でも上手に転回して、細い隙間を器用に通っていく。
階段の上から、ニナが粘土細工を落とした。まだ柔らかいそれは、一度に拾うと潰れてくっついてしまう。ぼうっとそれらを眺めているうちに、階段を降りてきたニナは鼻で包み込むように五つの粘土細工を抱え、また階段をのぼっていく。
階段をのぼりきると、ニナは大きな粘土細工に戻っていた。小さな石の粒がたくさん、目の下に埋まっている。ニナちゃん、病気でお耳が聞こえないんだって。快斗といっしょだね。久しぶりに、母親の声を聞いた気がした。
象 硝水 @yata3desu
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