秋の章 夜長唄

 秋の夜は長い。山の陰から顔を出した満月が、夜空全体をぼんやりと明るく照らしている。雲のない夜だった。空いっぱいにおうぎのように広がった光が、地上を淡い銀色で包んでいる。


 たまに吹く気まぐれな風が、すすきの原をさらさらと撫でる。そのたびに、すすきたちは呟くような声を立てた。この季節、虫たちのコンサートはいつだって夜に開演だ。空が白むまで、地上では終わることのない合唱が響き渡る。


 ひとりの詩人の男が、虫たちの合唱と銀色の月光とに身をひたし、縁側に座ってじっと月を眺めていた。彼は夜が好きだった。昼間の眩しいくらいの光は、彼には少々わずらわしい。それに、人も獣も活発に動くものだから、騒々しくて仕方がなかった。


 詩人のかたわらには、筆と半紙が置かれている。しかしこの晩、彼の手が筆に伸びることはついぞなかった。


 次の日の夜も、詩人は縁側に座って、じっと月を眺めていた。今夜も雲ひとつない、晴れ渡った夜空であった。月は昨夜に比べて、ほんのわずかにその身を小さくしていたが、天文学に詳しくない詩人には、その変化ははっきりとは分からなかった。その日の晩も、詩人が筆を取ることはなかった。


 そうして縁側に座ったまま、詩人は何日も月を見つめていた。夜が来るたびに、月はその身を細くしていく。筆は傍らに置かれたまま、身動みじろぎひとつしなかった。


 昼になると、思い出したように強い風が吹く日が増えてきた。風の中に感じるかすかな木枯らしは、さながら静かに近付いてくる冬の薄い微笑だった。その日も詩人は夜になると、縁側に座って夜空を眺めていた。今夜は雲が多い。月も雲に隠れて、すぐには顔を見せてくれなかった。時折、薄くなった雲の切れ目から、わずかに顔を覗かせることはあっても、すぐにまた隠れてしまう。その繰り返しだった。


 今夜はもう見られないかも知れない。そう思って詩人が腰を上げようとしたとき、不意に雲が流れて、月がじっとこちらを見つめてきた。


 今夜は三日月だった。ほっそりとした光が、夜空の真ん中で淑女しゅくじょのようにたたずんでいる。三日月は、詩人にひとりの女を思い出させた。ずっと昔に縁の切れた女である。もはや顔もはっきりとは覚えておらず、どんな声だったのかも思い出せない。


 しかし最後に会った時、その女は静かに、一筋だけ涙を流した。どんな話をして、その涙を見たのかは思い出せない。だが、三日月の細い筋は、女の頬にできた、涙のわだちを思い出させた。


 風が吹いた。すすきが揺れてざわざわと騒ぐ。そして、詩人はようやく筆を手に取った。

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