36.邪欲にまみれた変態シチュエーション


 熟考に熟考を重ねた末、森村彩音はこのシチュエーションに到達した。


「──その日、『愛衣』は疲れた身体を引きずるように帰宅した」


 だが、本当にこれでいいのか?

 今回『も』、このネタでいいのか?


「しかし、玄関を開けても『リオ』が出迎えにやってこない。いつもなら帰ってきた飼い主に駆け寄る柴犬みたいに現れるのに」


 この展開は、以前にもやっている。


「疑問と寂しさを覚えるが、玄関には『リオ』の靴がある。何かあったのかと慎重に家の中に入る」


 その時は正真正銘のただの妄想に過ぎなかった。

 ブラック企業で酷使されて満身創意だった精神が生き延びるべく夢想した理想郷だった。

 こうだったらいいなぁ~ずっとずっと頑張れるのになぁ~と有り得ない世界を幻視して、自分を慰めていた頃だ。


「独り暮らしには大きくて広すぎるリビング。そこに鎮座している高級ソファに『リオ』はいた……」


 でも、今は違う。

 そう、妄想は──『年下スウェット』は現実になったのだ。


「安らかな寝息、穏やかな寝顔。普段見せる眩い笑みが鳴りを潜めるその様は、まさに眠り姫」


 事実は小説よりも奇なり──とまではいかないものの、フィクションがノンフィクションになってしまう事ってあるんだ~と、一日に何度も茹で上がる頭で感じている。

 無論、あの妄想小説とまったく同じ事を現実でもやれている訳ではない。

 少なくとも、彩音にそこまでの胆力は無い。いや、恥を捨てる勇気は無い、というべきだろうか。


「『愛衣』は気配と足音を殺してゆっくりと『リオ』に歩み寄る。その物腰は闇夜に紛れて獲物に接近する肉食獣のそれだった。自分の心音がヤケに大きく聞こえる。それでも止まらないし止められない」


 けれど、今まで書いてきた『年下スウェット』のシチュエーションを実際にやってみたい衝動に駆られて仕方がない。というか、もうすでにやってしまっている。

 お陰様で、彩音は己への自己嫌悪と高浪律への罪悪感で良心を滅多刺しにされてしまっている。

 けれど、まぁなんというか──やめられそうになかった。


「超絶至近距離で『リオ』を目視。バッグからスマホを取り出して連続撮影。もしもに備えてカメラ機能に特化したスマホに機種変更しておいた自分の采配を手放しに賞賛せざるを得ない」


 先日、彩音も近くの家電量販店に出向いて、スマホの機種変更を行っている。

 オシャレで可愛い機種はぐっと我慢して、完全防水仕様のカメラ機能特化のスマホを選んだ。SDカードを簡単に取り替えられる利便性も良かった。

 彩音は、いつでも今の『愛衣』と同じ行為に及ぶ準備を周到に整えている。

 けれど悲しいかな。彩音は家で待つ側で、律が家に帰ってくる側。

 彼の寝顔を見た事は、未だに一度も無い。

 けれど、自分の寝顔を見られた事は何度もある。

 ああ、くそ。世の中は不公平だ。

 だから、だからせめて妄想小説の中だけは。

 願掛けも兼ねて、やってもいいよね?


「心拍数がヤバい。学生の時に短距離走をやっていたけれど、現役の時でさえこれほど早く心臓を動かした事なんてない。素数を数えて落ち着こうとしたその瞬間、『愛衣』の眼に飛び込んできたのは『リオ』の口から垂れた涎。このままでは顎を伝ってソファに落ちてしまう。これではソファが汚れてしまう。おのれ羨ましいソファめそこをどけと憎々しげに考えながらティッシュを探すが生憎空箱しかなかった。ならばとハンカチをバッグから取り出して、人魚の涙のようにこぼれ落ちた『リオ』の涎を空中キャッチ。そのまま『リオ』の口元を赤ん坊の肌を拭いてあげるように綺麗にして──そのハンカチを、そっと胸に仕舞う!」


 うわ持ち悪い。キモいじゃなくて気持ち悪い。

 あーハンカチも用意しとかないとなー。通販で買っておこう。


「んー……とりあえずまとまったけど、やっぱ前にも似たようなシチュエーションやってるわね……」


 その時とは『愛衣』と『リオ』の距離感が違うので、変化球にはなっている。

 なっているが、どうしても二番煎じ感が否めない。何かもっとフックになるようなギミックがあれば、読者の人達も楽しんでくれるだろう。

 そんな風にぼんやりと考えながら背伸びをした彩音は、ダイニングテーブルの椅子の背もたれにハンドタオルが引っ掛かっている事に気付く。


「…………」


 ここは律の部屋だ。

 そして自分は朝からタオルを使っていない。

 つまり、これは──!


「ゴクリ」


 溢れる生唾を飲み込む。長い砂漠横断の果てにオアシスを発見した旅人の気分に浸る。

 ゆっくりと椅子から離れて、タオルに触れる。湿り気があった。


「……床に落ちた水とか、そういうの拭いた訳じゃないわよ、ね……?」


 その可能性はゼロだ。そういう時の為、律は台拭きや雑巾の類を大量にストックしている。現にシンクには使用中の台拭きが綺麗に折り畳まれて置いてある。

 間違いない。このハンドタオルは律が顔を洗った時に使ったものだ。


「…………」


 タオルを手に取って、湿ったところに指を這わせる。

 そして──!


「いやいやいやいやいや、さすがに無いわ。引くわ。いくらなんでも変態にもほどがある」


 今自分は何をしようとしたのか、考えるだけでもぞっとした。

 ぞっとしたが。


「で、でも……あの子の、匂いがす、る……」


 手放せない。このタオルを手放す事ができない。今すぐ洗濯機に放り込んでブン回さないといけないのに、それだけは絶対にできない、というかしたくないと声高に叫ぶ本能がマジで腹立たしいし気持ち悪い!

 さぁ、早く背もたれに戻すのだ。さもないと。


「くんくん……すんすん……」


 あ~バカになる~もうなってるけど~。


「……よし、『愛衣』にこれをやらせよう。『リオ』の涎を拭こうとした時、テーブルに『リオ』が使ったタオルがあって、それで拭く。そしてそのタオルを部屋に持ち帰る。うん、これね」


 その後のタオルの処遇は知らない。無論想像はつくけれど。文書にはしないぞ。

 そんなこんなで、彩音は今日も元気に『年下スウェット』の続きを執筆している。リハビリはとっくに終わって、連載再開は軌道に乗りつつあるとすら言える。

 ただ懸念としては──。


「……新しい尊みシチュエーションがなかなか出てこない……」


 昔はあんなに出たのに。

 今はこう、邪欲にまみれた変態シチュエーションばかりな気がしてならない。


「もしかして、まだ本調子じゃないのかな?」


 でも、その内時間が解決してくれるだろう。

 この時は、彩音はそう思っていた。 

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