32.同棲カップルが破局する理由
冷蔵庫を開けて、中身を検める。
「……今朝はグラノーラだな」
思っていた以上に食材の在庫が心許なかった。
冷凍室にはカボチャやレタス、ニンジン等の野菜がいくらか残っているが、他は厳しい。タマゴや豆、その他の加工食品も底が見えている。
極めつけに肉類が無かった。脂質カットのウインナーが一袋転がっているだけだった。
昼を弁当に切り替えたので、この消費速度は当然と言えるが、まだ一人暮らしだった時の感覚が抜けない。
「今日は帰りにスーパーに寄るか」
そう決めて、ドアポケットに収まっている牛乳を手に取ると。
「……お前も力尽きたのか、牛乳」
中身はコップ一杯分くらいしか残っていなかった。
高浪家兼森村家の牛乳消費量は割と多い。
俺が好きなのもあるが、彩姉が飲む。とても飲む。かなり飲む。昔からそうだった。あの人の長身の秘密は牛乳に違いない。
「……いや。あの胸にも牛乳の優れた栄養素が──」
「あの胸?」
顔を上げると、真横に寝間着姿の彩姉が不思議そうに立っていた。
「…………」
そんな彼女の全身を思わず見渡してしまう。
肌触りの良さそうな寝間着の胸元を大きく大きくそれはもう大きく押し上げて自己主張をしている二つの山で視線が止まる。
いや、止まってしまった。
直前の思考が死ぬほど疎ましい。
「? どうしたの?」
「……いや……」
「そんな渋い顔していやも何も無いでしょ? 冷蔵庫に何かあったの? もしかして黒いヤツでも出た?」
苦笑した彩姉が、ずいっ、と身体を寄せてくる。
正確には冷蔵庫の中を確認するべく、冷蔵庫の前に陣取っていた俺に歩み寄っただけだ。
肩口が触れ合う。
彩姉の寝間着と俺の学校の制服が擦れ合う。
ふわりと舞った長い黒髪から甘い香りがする。
半共同生活が始まってから毎日のように体験しているはずのそれらが、今日は妙に生々しく感じられた。
一歩後ろに下がって唾を飲み込む。それはもう慎重に。彩姉に悟られないように。そう祈る。
「今更だけど、あんたの冷蔵庫ってホントに綺麗よね。中もだけど外も奇麗に掃除されてる。これならGも心配ないわね」
「まだそんな季節じゃない。だが、連中への対策は進めている。安心してくれ」
「な~にが安心してくれよ。私の耐性を忘れた?」
彩姉が笑う。にしし、と聞こえてきそうな屈託の無い笑顔。
「……自然豊かな環境で育つと、人はどうしてああも害虫に強くなれるのか」
「慣れよ慣ーれ。あんたはカブトムシとかは平気だったんだけど、ああいうのはホントダメだったわね。見た瞬間に絶叫してわーわー泣いてた」
「奴等と一人で遭遇した時は走馬灯を見たものだ」
「どんだけよ……で? 冷蔵庫見て何してたの?」
「牛乳が無い事に気付いて困っていた」
と、軽くなった牛乳パックを見せる。
すると、彩姉は見る見る内に顔色を変えた。
「あっ……! ご、ごめん! 昨日お昼に飲んだ時に無くなりそうだったから買いに行こうと思ってて小説執筆が──」
次の瞬間、ぱちん! と音を響かせて、彩姉が自分の口を両手で覆った。
見開いた眼が俺を見つめる。割とヤバめな嘘が親にバレてしまった時の子供のような眼だった。
なるほど。昨日も元気にweb小説を書いていてくれたのか。YANEAさんが活動報告で楽しそうに『少しずつ書けるようになってきた!』と言ってくれていたが……良かった良かった。
リハビリ用の短編なのか、それとも『年下スウェット』の続きなのか。興味は尽きないが、少しでも前に進めているのならいいことだ。
彩姉はしばらくこちらの様子を窺っていたが、やがて警戒を解くように口から手を離して溜息をついた。
「……牛乳、買ってくる。コンビニすぐそこだし」
「いや、俺が行ってくる。彩姉はテレビでも見て待っていてくれ」
「バカな事言わない。あんたのトコの牛乳、私が七割くらい飲んじゃってるんだから。しかも無くなってる事を忘れて買いに行かなかったとか有り得ないわ」
「そんなに責任を感じる事じゃない。誰だって日に忘れものの一つや二つはする」
「そ、そうかもしれないけど……! ど、どどどどどど──!」
「ど?」
「同棲カップルってね!? こ、こここ、こういう小さな事の積み重ねでお互いに不満を募らせて別れちゃうのよ!?」
「…………」
「ネットの記事とか本とかで色々調べてるんだけど、どっちかがやってくれるとか思っちゃうのが一番危ないの危険なの! ゴミ出しもそう! 気付いた人がやるとかは絶対にダメ!」
「…………」
「ちゃんとルールを定めて、それを二人がしっかり守る事! これこそ同棲カップルが破局を迎えない為の基本だって──あの、律? な、なんでそんな不機嫌そうにしてるの? わ、私、牛乳以外にもなんかやっちゃった!?」
彩姉が身振り手振りでわたわたと慌てふためく。
その様子は、大人びた容姿からはかけ離れている。
大きな失敗をしてしまって、その事を必死に弁明する子供のようだった。
俺はそんな彼女の両肩に手を置く。
それこそ、迷子になった子供をあやすように優しく。
そしてゆっくりと撫でてやる。
「彩姉」
「ぎゅ、牛乳の事はホントごめん、ごめんなさい……小説書くのに夢中になっちゃって、そ、それで……!」
切れ長の瞳の端に涙が浮かんでいる。
正直、牛乳を買い忘れたくらいでそんなに責任を感じないで欲しい。
強い責任感は人を押し潰すというが……ああ、なるほど。こういう事か。
「彩姉、落ち着いてくれ。俺は怒ってない。彩姉に怒るなんて有り得ない。でも──」
「ダ、ダメよ、そういうの……お互いにダメなとこはダメって伝え合える仲にならないと同棲が終わる!」
「──その発言は、この半共同生活を続ける為にも訂正させて欲しい」
「は?」
「俺達は同棲していない。俺の親と大家さんが制定したルールに則って、半共同生活を送っているに過ぎない」
彩姉がピタリと停止した。呼吸も止まっているのかと心配になるくらいの急停止。
そして一秒後。頬から首まで一気に朱色に染まった。
「あああああああああああああああああああああああああああ!!!」
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