31.半共同生活後の二人のとある一日の様子・森村彩音編2


 すっかり冷めてしまった紅茶の残りを飲み、次のシチュエーションをどうしようかなぁと考えていたら呼び鈴が鳴った。


「え。もうこんな時間?」


 十六時も半を回っていた。夢中になるとは恐ろしいものだ。

 呼び鈴を鳴らしたのが誰なのか分かっているが、それでも一応警戒しつつ、部屋に備え付けられたインターホンを取る。

 壁に埋まった小さなディスプレイには、高浪律の仏頂面が映し出された。

 その顔に指を這わせつつ、声を上げる。


「どちら様ですか?」


 ちょっと意地悪をしてやろうと思って、そんな事を言う。

 すると彼は眉一つ動かさずに、こう答えた。


「ただいま」


 彼の『ただいま』を聞いたのは、今日で十四日目。

 その度に胸が高鳴る。なんというか、本当に同棲をしているようで。


「……ん。おかえり」


 インターホンを操作してロックを解除。彩音は小走りで玄関に向かう。

 最近、律からオススメされた柴犬の動画に飼い主の帰りを玄関で待っている、というものがあった。

 あの柴犬はこんな気持ちだったのかな~と、至極どうでもいい事を考える。

 やがて買い物袋を提げた律が玄関の扉を開けた。


「……そのシャツ」


 律は驚いた様子で眼を瞬かせた。


「え?」

「まだ使っていたのか? 彩姉が最初にウチに来た時に俺が渡したヤツだろ?」

「なによ、いけない? あんた、使ってもいいって言ったじゃない」

「……三枚で二千円以下の安物だ。もっと着心地のいいものが……」

「部屋着は安物でいいの。私も普段使いのスウェットはドンキのやっすいヤツだし」

「……自分のがあるだろう?」

「……今は丁度いいのが無いわ。だから借りてるの。い、いいでしょ?」


 返せ、と言われたらどうしよう。


「彩姉がいいというなら構わないが……嫌じゃないのか?」

「な、なんで? むしろ男物は大きくて緩く過ごせるから好きよ?」


 実用性をもっともらしく訴えると、律は納得したのか、何も言わなかった。

 それから彼は夕食の用意を始める。彩音は手伝おうかどうか、やはり朝と同様に迷って、そして言い出せなかった。


「近い内、秋山に俺の部屋の掃除を手伝ってもらう事になった。構わなかったか?」

「もちろん。というか、それ私に許可取る必要ある?」

「無いが、なんとなく?」

「なにそれ。掃除なら私も手伝うわ」

「いいのか?」

「実質ここに住んでるようなものだし。当然でしょ?」


 秋山楓が遊びに来るのはとても嬉しい。歳が離れているとはいえ、同性の子と気兼ねなく話せるのは彩音にとって歓迎すべき事だった。

 律とはいつまでも話していたいと思うが、ちょっとだけ緊張してしまう。要するに疲れてしまうのだ。

 世間話をしつつ夕食を終えて。律が後片付けをしようとした時──。


「後片付けくらい私がやるわ」


 散々躊躇った末、彩音はついにそう切り出せた。


「だが」

「あんたはゴハンの用意をしてる。私は食べるだけ。フェアじゃないでしょ?」

「……分かった。じゃあ明日から」

「今やる。乾燥機の使い方も分かるから」


 律は少し考えた後。


「……じゃあ二人でやろう。彩姉はテーブルの後片付けやゴミをまとめてくれ」

「むー。まぁいいわ」


 よし決めた。自分の部屋で洗物の練習をしておこう。

 彩音はそう腹に決めて、夕食で出たゴミをまとめてテーブルを綺麗に水拭きした。

 それが終わったら、後は自由時間なのだが……。


「今日はどうする? 昨日のドラマの続きを見るか?」


 正直、凄くそうしたい。今日は数ヶ月ぶりに『年下スウェット』の続きが書けたし、メチャクチャ気分がいい。眠くなるまで律と一緒の時間を過ごしたいところだ。

 だが、毎日一緒にいるとなると、彼も息が詰まるだろう。それは自分も望むところではない。


「部屋に戻る。毎日いると鬱陶しいでしょ?」

「まさか。気が済むまでゆっくりしていってくれ」


 なんでもないように律はそう言った。言ってしまった。

 となると、彩音としてはその言葉に甘えない訳もなく。


「……じゃあ、さ。昨日のドラマの続き。一緒に見よ?」

「ああ、見よう見よう」


 そうして日付が変わるくらいまで彩音は律と肩を並べてソファに座って、彩音のノートPCで海外ドラマの続きを見る。

 二人の間には、拳一つ分くらいの隙間がある。どちらからともなく作られた隙間だが、彩音にとってはある意味の絶対ラインというべきか。古い言葉で言うのならベルリンの壁だった。

 この隙間が無くなって肩口が触れ合うようになったら。なんというか。その時彩音は自分が犯罪者になる覚悟を決める時だ、と律と一緒に海外ドラマを見るようになってから考えるようになっていた。

 海外ドラマは面白く、思わず見入ってしまった。気付けば日が跨ぐ時間で、瞼も重くなっている。

 堪え切れずに欠伸をしたら、律が牛乳を温めて持ってきてくれた。


「はい」

「……ありがと」

「明日の朝は?」

「目玉焼きがいい」

「分かった。暖かくして寝るようにな?」

「ん」


 言い知れぬ幸せに揺られてしまう。いよいよ眠気もヤバい。

 すると律が手を握って、部屋まで連れていってくれた。あ~。

 彩音が鍵を開けて、自分の部屋に入る。けれど、律は玄関口で止まる。その律儀な性格がもうたまらなく可愛い。


「じゃ、おやすみ」

「うん。おやすみ」


 ゆっくりと時間をかけて、何かを味わうように、彩音は扉を閉めて鍵をかける。

 眠気に耐えつつシャワーを浴びる。心地良い疲労感で身体を拭くのも億劫になった。


「……パソコン忘れた」


 一瞬意識が起きかけるが、スリープモードになっているはずだ。そうなればパスワードを入力しなければ中は覗けないのだから慌てる必要は無い。


「……仮にスリープモードになってなくても、律だから大丈夫か」


 他人のPCを無断で操作するような子ではない。

 寝間着に着替えた彩音は、まだ他人の家であるかのような我が家のベッドに倒れる。最後の力を振り絞ってスマホをワイヤレス充電器の上に置き、布団を手繰り寄せた。

 今日が終わる。明日も律が側にいてくれる。今日と同じ日が続く。


「……あのくそかいしゃで、がんばった……ごほうびかなぁ~……」


 そう考えたら、あの暗黒な日々も悪くはなかった──のかもしれない。

 明日も『年下スウェット』の続きが書けるといいなぁと、そんな事を考えながら、彩音は眠りに落ちていった。


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