30.半共同生活後の二人のとある一日の様子・森村彩音編1
森村彩音が高浪律の隣の部屋に引越してから二週間。彩音の一日のルーチンは何とはなしに決まった。
朝七時に起床。まだこの時間に起きるのに慣れていない──引越し前の自堕落極まっていた生活や、その前のブラック企業勤務で酷使された反動で生活リズムが狂ったままなのだ──ので、ベッドから抜け出すのに五分は必要だ。
眠い眼を擦って洗面と歯磨きを済ませる。できれば熱いシャワーを浴びたいが、そんな事をしていると律と一緒に朝食を食べられない。
初日は一人で起きられず、律が作ってくれた朝食を一人寂しく食べたのがなかなか辛かった。
欠伸を噛み殺しながら部屋を出て──寝間着に変なシワや汚れが無いか確認して──隣の部屋の呼び鈴を鳴らす。
「開いてるー」
遠くから聞こえる律の声に、耳の奥にくすぐったさを覚えながらドアを開ける。
用意してくれたスリッパに足を引っ掛けて中へ。リビング兼キッチンでは、律が朝食の用意をしてくれていた。
「おはよ……」
「おはよう。今朝はゆでたまごだが、問題無いか?」
「ん。全然」
「今日の気分は?」
「しおー」
何か手伝おうとしても、律はテキパキと動いてテーブルに食事を並べてゆく。
手を出したら邪魔になると思ってなかなか言い出せない。手間をかけさせると彼に鬱陶しく思われてしまうのではないかと考えてしまって、身体も動いてくれない。
「汁物は?」
「アサリ汁」
「納豆は?」
「いるー」
そんな自分に嫌悪感を抱きつつ、律と何でもない朝の会話をしながら朝食を食べ終える。
すると、彼は慣れた手付きで空になった食器類をシンクに片付けてゆく。
自分が片付けておく──と、彩音は今日も言えなかった。同棲した恋人がケンカをする理由の一つに、こうした食器の後片付けがあるとネットの記事で読んだからだ。
曰く、彼氏の洗い方が雑で汚れが残っていたので彼女が洗い直したら、プライドを傷つけられた彼氏が機嫌を損ねてしまった、という事らしい。
彩音は家事が苦手だ。いや、掃除や洗濯は人並みにできるが、自炊がまるでできない。学生時代は部活が忙しく、家事なんて手伝った事も無かった。
大学進学で上京してから独り暮らしをはじめたが、外食ばかりで自炊なんてほとんどしてこなかった。就職した後は尚更だ。
今の状況は、彼氏が自分で、彼女が律。けれど、彩音は自分が洗った食器を律に洗い直されたところで不機嫌にはならない。
単純に彼に二度手間を取らせてしまった事への罪悪感と、食器一つまともに綺麗にできない自分に嫌悪感と失望を抱くだけだ。
「昼はいつものように冷蔵庫にあるものを食べてくれ。ヨーグルトやバナナを買い足しておいた。グラノーラは糖質オフのものを用意してある」
「あれ、あんまり美味しくない……」
せっかく用意してくれたのに。つい憎まれ口を叩いてしまう自分に吐き気がする。普通なら嫌な顔をされて当然だろう。
でも、律なら絶対に許してくれると思って、その優しさを分かっていて甘えてしまう自分への嫌悪感が増してゆく。
「だが栄養価は高い。それに普通のグラノーラは糖質も脂質も高いんだ。運動をしているならまだしも、今の彩姉が食べると間違いなく太るぞ」
「うー……じゃ糖質オフでいいー……」
七時四十五分が来る。律が学校へ行く時間だ。
「じゃあ行ってくる。戸締りは頼む」
「ん。いってらっしゃい」
やだなーもっと一緒にいたいなーずっと無駄話していたいなー独り占めしたいなーなどと、実に身勝手な事を考えながら、律と少しでも一緒にいたくて玄関まで見送る。
「……はぁ……律は高校生だっての……」
そんなの分かっている。九歳も年下の男子にこんな気持ちを持ってしまうなんて。普通に考えたら気持ち悪いに決まっている。
でも、持ってしまったのだから仕方が無い。
いや、それを言うなら昔からだ。
あの子がまだ小さくて。
私が高校生だった頃から。
「これ。性別が逆だったらマジモンの変態よね……」
逆じゃなくても充分に変態である事は自覚している。
溜息をつきながら、極自然に律のベッドに近付く。几帳面に畳まれた布団をスマホのカメラで現状を撮影して、布団を広げて潜り込んだ。まだ残っている温もりと染み付いた律の匂いに包まれる。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~……」
最低で最悪な変態行為に及んでいる事を死にたくなるほど自覚しながら、この至福の時から逃れる術を彼女は知らなかった。
和らいでいた眠気は瞬く間に復活。こうして森村彩音は、九歳年下の男子高校生の残り香漂う寝具に包まれて、幸せな二度寝を貪るのだ。
次に眼が覚めた時は昼過ぎだった。
いつも律が顔を預けている枕に頬擦りをしつつ、ダラダラとスマホで動画サイトを流し見する。律に教えてもらった柴犬のチャンネルがたまらない。一日中見ていられる。
「……いい加減起きよう」
律の昼食も食べないといけないし。
スマホで撮影しておいた律の畳み方を参考にして布団を片付ける。無論、自分の変態行為を律に知られない為の姑息な工作だ。
彼の几帳面な性格は熟知している。朝の状態と違っていれば、その違和感からベッドを使われていると感付くだろう。それは避けたい。いやホントマジで。
スマホでお気に入りの動画配信者のチャンネルを眺めながら、牛乳を注いだグラノーラとバナナとヨーグルトを味わう。
やはり糖質オフのグラノーラは美味しくなかった。でも太りたくないし。
食後、使った食器をシンクへ。片付けたい衝動に駆られるが、何とか抑えつけて一旦自室に戻る。
「今日は書けそう……」
寝間着からルームウェアに着替える。上はワンサイズ大きめの白のシャツに、下はショートパンツだ。
白シャツは律と再会した時に彼から借りたものだ。サイズが大きいのでゆったり着られて楽だから、という理由で借りている。無論、本当の理由はまた別なのだが。
ボリュームのある黒髪をヘアクリップでアップにして、いざ戦闘態勢は整った。
愛用のノートPCを小脇に抱えて律の部屋に行く。
自室でweb小説を書くという考えは、彩音にはまったく無かった。
だって自分の部屋には律の匂いがしないのだ。
熱い紅茶を用意して、テーブルにノートPCを置き、キーボードに手を添える。
「さて」
そろそろ書けそうなのだ。『年下スウェット』の続きが。
なにせ今自分が置かれている状況が、あの現実逃避妄想爆発web小説ととてもよく似ているのだ。妄想も捗るというものだろう。
「『愛衣ちゃん』は定期的に有給を取るようになった──それは、仕事で疲弊した精神を回復させるべく、『リオ君』が学校に行った後に彼のベッドで眠る為だった──」
リハビリは順調だ。
それもこれも、律と半ば共同生活──彩音が律に衣食住の大半を依存してしまっているが──が始まった影響である。
「ん~~……前にも近いシチュエーションはやったけど、でも条件は違うし……うん、余裕で三千字くらい書けるわ!」
こうして欲しい、ああして欲しい──そうした諸々の欲望が脳内麻薬と共にドバドバと溢れてきて止まらない。
そして──。
「よし一話分終わり~♪」
日が傾く前に初稿を終えた。
途方もない開放感と達成感と充実感に身が震える。
自分でもweb小説の一話分を書けたくらいなのに大仰な、とは思う。
でも、あんなに書けなかったモノが書けたのだ。
自分にもまだ何かできたんだ──そんな風にさえ思えてしまう。
「あ、紅茶飲み忘れてた……」
すっかり冷めてしまった紅茶の残りを飲み、次のシチュエーションをどうしようかなぁと考えていたら呼び鈴が鳴った。
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