27.二人から見た高浪律という少年
高浪律の子供の頃の写真閲覧会は、結局日が沈み切るまで続いた。
「……俺は一度部屋に戻って着替えてくる」
「お。私達女子に気を使ういい心がけね」
「脂汗だの何だのしこたまかいて気持ち悪いだけだ……シャワーも浴びてくる。秋山」
「あんたの写真なら持っていかないから、安心していいよ?」
「違う。もう遅いから駅まで送っていく。俺が戻ってくるまで待っててくれ」
「え。あ、う、うん。ありがと」
そう言って、高浪律はそそくさと部屋を出て行った。
扉の向こうに消える九歳年下の幼馴染の背中を見送りながら、彩音は呟く。
「こういうところ、ホント権三郎さんに似たなぁ」
「え?」
「なんでも。楓ちゃんはそのままくつろいでて。私はここ片付けちゃうから」
テーブルの上には、所狭しとジュースやお菓子の残りが散乱していた。三人の休憩の跡である。
彩音が立ち上がると、つられるようにして秋山楓も動く。
「あたしも手伝います」
「いいって。今日これだけやってもらったんだから」
「いえいえ。好きでやった事ですから。気にしないで下さい」
「いやいやいや」
「いえいえいえいえ」
「いやいやいやいや」
「いえいえいえいえいえ」
そうして二人は揃って口を閉ざす。
やがて、彩音が根負けしたように苦笑した。
「じゃ、楓ちゃんはお菓子の片付けお願いしていい? 私は洗物やっちゃうから」
「は~い」
ホントにいい子だな、と彩音は思う。細かいところに気が利くし、他人との距離感が絶妙。その上、器量も良い。
正直、どうして木の又から生まれたような弟分と仲良くしてくれているのか分からないほど出来た少女だ。
肩口で切り揃えたサラサラとした黒髪とフレームの無い眼鏡が似合う顔立ちは文学少女めいているが、日に焼けた身体からは日頃運動で鍛えている気配がある。少し細身ではあるものの、スカートから覗く太腿はほどよく筋肉がついていて華奢な印象が無い。
九年前の自分もこういう感じだったのか~と考えながら、彩音は蛇口を捻ってお湯を張り、汚れたコップを沈めた。
「ねぇ、楓ちゃん」
手を動かしたまま、背後を振り返る事も無く、彩音が口火を切る。
「は~い。なんです~?」
「あいつ──律。学校でもちゃんとやってる?」
「真面目ですよ。多分、先生達からの評判もいいと思います。授業もちゃんと聞いてるみたいですし」
「そっか」
洗い終えたコップを乾燥機に入れて、手を拭きながら背後を振り返る。
備え付けのキッチンカウンター越しに、リビングでゴミをまとめている秋山楓の背中が見えた。
「分からない事は分からないってちゃんと言えてる?」
楓の手が止まった。不思議そうに眼を瞬かせながら彩音を見る。
「……? どういう事です?」
「あの子──律は、昔はさ。言えなかったの。分からない事を分からないって」
「それは、えっと……具体的に言うと?」
「勉強でも何でもよ。算数で計算が分からなかったら、分からないって言えない」
「……あたしが知る限りは無いと思いますけど……高浪、昔はそうだったんですか?」
「うん。お母さんがちょっと厳しい人でね。あーしなさいこーしなさいって言われて続けてたら、自分からは何もできない子になっちゃってて。権三郎さん──おじいちゃんに引き取られたばかりの頃は、ずっとビクビクしてたわ」
「今のふてぶてしさからは想像できない……」
ふてぶてしいとは言い得て妙だ、と彩音は思った。達観しているとも言える。
それもこれも祖父である高浪権三郎の教育の賜物だろう。これで良かったのか悪かったのかは、高浪権三郎の近所に住んでいただけの田舎娘である自分には分からない事だ。
「何をするにしても自信が無くてさー。私、あの子のおじいちゃんの家とは家族ぐるみで付き合いがあったんだけど、いきなり家庭教師してくれって頼まれて」
「もしかして、そこから彩音さんと高浪は──」
「うん。その頃は私も学生でね。部活も忙しくて大変だったんだけど、一日部屋から出てこないあの子を放っておけなくて。勉強から遊び方まで、色々と面倒見てあげたんだ」
あの頃の事は今でも良く覚えている。いや、覚えているどころではない。決して色褪せる事の無い大切な思い出として記憶に根付いていると言っていい。
田園風景がどこまでも広がるのどかな田舎だった。バスなんて一日数本しか通っておらず、車が無ければ間違いなく日常生活に支障が出るレベルで何も無い地方の中の地方。
そんな所で、三年か四年か。それくらいの僅かな期間だったが、彩音は高浪律という少年と一緒に過ごした。
「どんな小さな事でも、ちゃんとできてたら褒めてあげる。撫でてあげたり、ジュースやお菓子を買ってあげたり。できてなかったら、どんな小さな事でもできなかった理由を考えさせて改善するよう努力してもらう。そしてできたら褒める」
彼の祖父、高浪権三郎の意見もあった。律の『家庭教師』は、権三郎との二人三脚でもあった。彼の妻──律にとっての祖母が存命していたら、彩音の出番は無かったかもしれない。
「そうやってあの子のできる事を増やして、できない時はちゃんとできないって言う事の大切さを教えていった──」
「…………」
「そういう教育方針だったから、ああいう理論臭いというか、枯れた性格になっちゃったのかもしれないけどね……」
それはそれで問題だったのかもしれないけれど。
今こうして無事に高校生をやってくれているのを見ると、間違っていなかったんだなと思う。天国の権三郎もきっと納得してくれているはずだ。
「……彩音さん達は間違っていなかったと思います」
ゴミ袋をぎゅっと結んで、楓が言った。
「お陰で、あたしも今元気にやれているんですから」
「……? どういう事?」
「あたし。中学の頃にあいつと出会ってなかったら部活辞めてました。あいつのお陰で、あたしは今も部活を──競泳を続けていられるんです」
「競泳……え。楓ちゃん、競泳やってたの? じゃあ」
「はい。実は──」
その時、玄関の方で扉が開く音がした。足音を鳴らして、着替えを済ませた高浪律が現れる。
「すまない秋山、待たせた。駅まで送っていこう。用意してくれ」
「あ、う、うん。あの、彩音さん」
「ん。また今度お話しよっか、楓ちゃん」
──こうして、森村彩音の引越しは終わりを迎えた。
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