20.無垢な信頼の恐ろしさ


 夕方という事もあって、スーパーはなかなかに混雑していた。


「夕食は何がいい?」

「……律が作るものなら、何でもいい」

「こういう時、作り手側としては具体的な献立を言ってくれると助かる」

「べ、別に何が出てきても文句なんて言わないわ」

「…………」

「だ、だからそんな眼で見るなぁ!」

「え。どんな眼?」

「犬よ、犬! 仕事に行こうとしてる飼い主の足にまとわりつく犬と同じ眼ぇしてる!」

「随分と具体的だな。彩姉のマンションはペットの飼育はアリなのか?」

「ダメよ。大体、あんな会社にいたんだから生き物なんて飼える訳ないでしょ? 動画サイトやSNSの動画でそういう犬を見たの」

「なるほど。確かにあの手の動画は癒されるな。俺も受験の合間に世話になった」

「ホント高校生っぽくない……」

「で。ご希望の夕食は?」

「……肉じゃが」


 どうやらこの前の電子レンジ肉じゃがを気に入ってくれたようだ。

 意気揚々と店内を練り歩き、牛肉やタマネギ、ジャガイモを買い物カゴに放り込んでゆく。


「他は?」

「魚。サバとか、ああいうの。電子レンジでやれる?」

「もちろん。ではサバ入り肉じゃがにしよう。副菜は適当で構わないか?」

「ええ。あ……」


 彩姉が顔を上に上げる。その眼は天井から吊り下げられている商品POPを見つめていた。


「お酒とツマミ」


 彩姉がトコトコと酒類のコーナーに駆けてゆく。家電量販店のゲームやプラモデルのコーナーで眼を輝かせる子供よろしく棚に手を伸ばして、あれこれと吟味し始めた。見た目からしてビールのようだが、俺には銘柄の違いがまったく分からない。


「好きなのか?」

「特にビールがね。大学生の時はこんな苦いものの何がいいのかサッパリだったけど、会社勤めになってからはもう水みたいに──」


 と。俺の買い物カゴに缶ビールを突っ込もうとしていた彩姉の手が止まった。

 ゆっくりと俺の顔を見て、やがて神妙そうに肩を小さくすると、缶ビールを棚に戻してしまう。


「? どうした?」

「……別に。今日はアルコールって気分じゃなかっただけ」

「あんなに喜んでおいてそれは無理がある」

「くっ……! こ、高校生の家で酒なんて飲める訳ないでしょ!? ただでさえ、その。独り暮らしの未成年の男の子の家に、二十五歳の女が行く訳だし? な、何かあったらダメじゃない?」

「彩姉に限って何か起こる訳がない」

「んがぁっ……!?」


 ばっ、と俺から離れる彩姉。そしてこれ見よがしに舌打ちをする。


「こ、この無垢な信頼がホントに怖い……!」

「……彩姉。人間不信になるのは分かる。だが、俺の信頼を怖がらないで欲しい。正直、辛い」

「そそそそそそそそそういう意味じゃない! ホントに! お願い信じて! 律に良くしてもらえるのが嬉しくて楽しくて何かがどうにかなりそうで! そういう意味で怖いって意味なの!」


 うるさい店内でもそれはもう見事に響き渡る大声で彩姉が力説する。身振り手振りで。耳の先まで真っ赤にして。眼の端に涙を溜め込んで。

 そんな彼女の反応が、その言葉に嘘は無い事を証明していて。俺は安堵できた。我ながら小心者だと笑いたくなるが、彩姉に怖がられてしまうのは割と本気で辛いのだ。


「と、とにかく! 今日はビールは飲まない我慢する! せっかくあんたがゴハン作ってくれるんだし! 酔っ払って味を忘れちゃったらヤなの!」

「別に忘れてもいいだろう。言ってくれればいつだって作る」

「ごぶぅっ!?」

「何故ボディーブローを喰らった声を?」

「む、無邪気すぎるのよぉ、あんたはぁ……!」


 そんな訳の分からない事を言いながら、彩姉は腹を押さえてどこかへ歩いてゆく。


「彩姉。どこへ行く?」

「ジュース見てくる……律は買い物続けてて」


 その背中は買い物客の中に紛れて見えなくなった。

 彩姉の反応に不可解さを覚えつつ、俺は魚売場へ向かった。サバを吟味しつつ、これからの事を考える。


(ここまで彩姉は実に自然体だ。元気が無いようにはとても見えない。何故楽しく小説を書けなくなったんだ? 会社を辞めた以上、自由な時間はいくらでもあるはずなのに)


 向こうしばらくは働かなくても問題は無いくらいの蓄えはあると言っていたし、生活費で悩んでいて書けなくなった、という訳でもないだろう。


(落ち込んでいたら、そこから話を広げて色々と聞き出そう思っていたが……さて、どうするか)


 いっそアルコールで酔っ払ってくれれば聞きやすいのだが。


(ああ見えて、根は凄まじく真面目な人だからな。恐らく自分から飲む事は無いだろうが……)


 そう、自分から飲む事は無い。だが、酒は好きだと言っていた。

 ならば、やりようはある。

 俺は買い物カゴに骨を取り除かれた煮物用のサバを突っ込み、酒の棚へ戻った。

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