半共同生活開始編

17.ヨレたスウェットでビールを買いに行く彩姉


「うー……」


 森村彩音は自分の呻き声が胃の中に響いているのを感じる。

 カーテンの隙間から漏れる光は赤錆色を帯びていた。日は傾いてるが、部屋の照明は消えたまま。テーブルに置かれたタブレットPCのディスプレイの明かりが、薄暗い室内に彩音の青白い顔を浮かび上がらせている。


「あー……」


 苦虫を百匹は噛んだ顔でディスプレイを睨む。外付けキーボード・ドックに接続されてノートPCとなったその画面にはアウトライン・プロセッサのソフトが立ち上がっているが、一文字も打ち込まれていない。見事な白だ。


「うぅ~……」


 白く細い指はキーボードの上を彷徨って、時々思い出したようにキーを叩くが、すぐにCtrlとAで全消去される。

 彩音は朝から今までずっとこの不毛な作業を繰り返していた。

 いや、今日だけではない。今日も含めて三日目である。


「何も……浮かばない……っ」


 会社で馬車馬のようにコキ使われていた頃は、意識しなくても脳裏に山のようにシチュエーションが浮かんだのに。

 才色兼備の超優等生ながら私生活は学生時代のヨレヨレスウェットを恥ずかしげもなく着続け、ビールとニンニクの醤油漬けをツマミに撮り溜めたアニメや特撮番組をひたすら消化するOLと! そんなOLの煌びやかなところを純真無垢に尊敬して仔犬のように懐いて尊敬している年下の幼馴染の少年の! 不器用なイチャコラの日々が!


「……はぁ……」


 背中から床に倒れて、もう一度溜息をつく。


「どうして何も思いつかないのかなぁ……」


 リハビリとして短編はいくつか書けた。内容はコンプライアンスに唾を吐く超絶ブラック企業がビルごと異世界に転移、正義のゴブリンマンに心身共に更正させられるというものだ。

 我ながらイカレているなと思いつつ、書き始めたら面白くてヤバかった。あれほど脳内麻薬が大量分泌されたのは、学生の時、競泳で全国大会に出場した時以来だっただろう。ダメだ悲しくなってきた死にたい。

 ともあれ、三ヶ月のブランクは問題無い。吹けば飛ぶくらいになっていた自信という火種も少しだけ大きくなった。よし、これなら『年下スウェット』が書ける。大好きなあの子とあの子の友達の為にも書こう!


「そう思ったのに~~~~……」


 視界がぼんやりした。鼻の奥がツンとする。いけない、こんな事で泣いてしまうなんて。


「……ビールのもう、うん、そうしよう……」


 よろよろと立ち上がって、よたよたと冷蔵庫に歩み寄って扉を開ける。


「……無い……」


 ツマミにしているニンニクの醤油漬けも無かった。


「……そういえば、昨日で無くなったんだっけ……」


 気分が落ち込む。お腹も空いた。踏んだり蹴ったりだ。


「コンビニ行こ」


 スマホに掴み、玄関のサンダルに足を引っ掛けようとした時、姿見に浮かぶ自分が見えた。

 暗所に慣れていた眼が、薄暗い室内でも克明に今の自分を捉える。


「…………」


 ヘアバンドで雑にまとめられた髪。顔はもちろんすっぴん。不健康な顔色を相俟って相当酷い。服装だって負けていない。高校時代から愛用しているヨレヨレのスウェット。最高の着心地なのだが、いくらなんでもあんまりだ。自由気ままなニート生活と言えど、人目を気にしないにもほどがある。


「……別にいっか」


 近場のコンビニの店員さんや、顔も名前も知らない通行人に見られたからと言ってなんなのだ。どうせビールとツマミを買いに行くだけだし。

 うんと肯いて、彩音は外に出る。ワンルームマンションの狭い共通通路は、鮮やかな夕日に染まっていた。

 のんびりとエレベータに乗って一階へ。オートロックの扉を開けて外に出ると。


「? 彩姉?」

「あれ、彩音さん? え。もしかして、彩音さんここに住んでたんですか!?」

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」


 九歳年下の幼馴染の少年、高浪律と、彼の同級生の健康的メガネっ娘、秋山楓が、眼を瞬かせて立っていた。


「どぉっ!? どどど! どうしてあんた達がこんなトコにいんの!?」

「いやだって」

「ここ、学校と駅の間というか。通学路なんですよ。ほら、見えます? 丘の上の高校で──」

「んあああああああああああああああ世界ってマジでせまぁああああああああああいっ!!!」


 ガンガンと地団駄を踏んで回れ右。森村彩音は脱兎の如くマンションのエントランスホールへ駆け込み、エレベータの呼び出しボタンを押す。しかし来ない。悠長にも最上階からゆったりと降りてくる。怒りに任せて連打。もちろんエレベータの速度が上がるはずもない。

 肩越しに背後を振り返ると、眼を細めた律と、そんな律の腕を引っ張っている楓が見えた。パニックホラー映画やゲームでよく見るシチュエーションではないか。


「た、高浪。早く行こ」

「だが、彩姉の顔色が悪い。土気色だ。見ろ、眼の端に涙が……! 何かあったのでは!?」

「大丈夫ぜぇ~ったい大丈夫安心してあたしを信じて! 今ここに高浪がいて! そうやって彩音さんをガン見してる方が彩音さんの精神衛生上良くないから!」

「なに……!? 俺が彩姉を追い詰めている、のか……!?」

「いやちがぁう! ぜっっっったいに違う!」


 踵を返して外に飛び出して、律の胸倉を掴んで振り回した。


「クソ真面目にもほどがあるでしょ、あんたそうやって何でも額面通りに受け取るのやめなさい! 真面目なんて長所どころか人間の最大の短所なんだからぁ! とにかく逆よ逆! 律がいなきゃ今私はここにいない!」

「そうか……俺は、少しは彩姉の役に立てたんだな……」

「泣くなぁ!? 泣くかここ!? あぁ~もう恥ずかしい~死~に~たぁ~いぃ~!!!」

「死ぬなぁ!!! 彩姉死ぬなぁ! 生きろぉっ! 生きてくれぇっ!!!」

「ひゃあああああだだだだだだだ抱き着くなぁっ!? うあぁあぁぁぁああぁぁぁぁぁああああぁぁ~~~~!!!」

「二人とも落ち着いて! で! 静かにして! 見られてる! 超見られてるから!」


 下校途中の学生達や主婦、その他諸々の通行人の方々から一心に注目を集めてしまった彩音達は動画まで撮影されてしまい、SNSで軽くバズってしまったのだった。

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